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事実を語らずして、世界は語れない

学問で一番大切なことは「誰れそれがどう言ってるか」ではなく、
現実(事実)はどうなっているかである。

私たちが生きているのは、この現実の世界である。
偉い人の頭の中で考えられた世界ではないのである。
だから、偉い人がいろいろのことを言っていても、
それらは現実の世界と照合されなければならない。

ウィキペディアなどで哲学用語などの検索をして感じることは、
いろいろ偉い人の考えが列挙されているが、
ほとんど、現実(事実)レベルの議論がなされていないのである。

何が事実か、現実はどうなっているか、どちらの説が現実に近いか、
そういう議論は見えてこないのである。

よくある哲学者の議論の仕方は、現実はどうかではなく、
どうあるべきか、何が理想的か、間違いを排除するなどで、
当然といえば当然であるが、現実はそれほど理想的にはできていない。

私は行き詰まったら現実と照合し、それが理想的な形ではなくても、
現実はそれをどのように理想に近づけて行くのか、
それも現実から見つけてゆく、それが必要と思う。

①人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
②人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
③ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
④人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。

それらは存在論や認識論の課題ではあるが、
最初からそれを目指すのは困難であり、
まずは何が「事実」として自分に与えられているかを問うのが順序である。

「事実」を語らずして、「世界」は語れない。
自分が生まれたときすでに、自分の前には「全体で一つの世界」があった。
それが「事実」である。

そして、それがどういうものかを知るために
「全体で一つの世界」を分けながら、世界を分析することから始める。
これは、対象の違いを見つけて分けることで、世界を相対的に捉えることである。
この相対的に捉えることも、事実は何かを確認する行為である。

近年は、心理学や脳科学などが盛んで、
存在論や認識論が目指してきた①~④と重なる部分がある。
心と物の関係を科学的に究明することは可能かもしれない。
しかし、それは哲学というより科学の領域に入るものである。

それはそれで必要なことではあると思うが、
世界観を築くという目的を果たすために、
諸学や諸現象や社会の諸々を全体の中へ位置付けるなどという
本来の哲学としての仕事とは言い難いと思う。

雨の日

雨の日

歩いていても雨が音を立てて近づいてくる

乾いた舗道が濡れてくる

濡れた舗道に街の明かりが輝いて 心も輝く 

明かりに照らされてまぶしい

そんなに急がなくてもいいのに早足になって

前の人について行く

あれ どこに迷い込んだのか見慣れた景色

懐かしい香りが漂ってきた

雨が私を街に誘い出してくれたのだ


ヘンデル 私を泣かせてください

ヘンデル 私を泣かせてください

18世紀のイタリアオペラ「リナルド」第2幕で登場する有名なアリアです

Unas Notas Para Ana

新「言葉」について Ⅴ

パラドックスとされる実例は沢山あるが、
最も典型的なものはラッセルのパラドックスと言われているものである。
しかし、記号を使った集合論はなかなか理解は難しい。

このラッセルのパラドックスについては、
ラッセル自身がパラドックスを避ける方法を考えていますが、
ここではタイプの異なるパラドックスや珍現象などに共通の解釈を
異論はあると思いますが、書いてみました。

張り紙のパラドックスと言う親しみやすい例で言うと、
「張り紙禁止」という文だけを見ているとパラドックスは感じないが、
この文を書いてある張り紙を見るとパラドックスに見えてくる。
禁止している筈の張り紙をしているわけでパラドックスになるのだ。

具体的に説明すると「張り紙禁止」と書いてある文は
単語が線的に並んでいる状態で、これは一次元で表現されている。
紙の上に書かれた状態だと、平面の二次元になるが、
その紙が壁に貼ってあるのを見ている人の立場で言えば、
書かれた紙とそれを見ている人との間にはもう一つ別の空間があって、
これは三次元となるのである。

「張り紙禁止」という文だけでは、パラドックスは存在しない。
その文が書かれた紙が壁に貼られて、
それを誰かが見た時にパラドックスが発生するのである。
この発生に次元がかかわっていることが分かる。

ここでは「次元」という言葉を代表として使っているが、
必ずしも次元の跳躍が必要とは限らないのである。例えば、
アインシュタインの相対性理論。難しいことは分からないが、
光の速度に近い速度で行動すると時間の経過が他のものと異なる。

これは日常人間が時間について感じていることと、大きなズレがある。
これをパラドックスとは言わないが、日常人間が感じている事柄と大きくズレると、
同じ判断が成り立たなくなることがある。量子論でもそうである。

よく例に出るゼノンのパラドックスというのがある。
俊足のアキレスがカメを追いかけても、カメに追い付くことはできないという。
なぜなら、アキレスが元のカメのいた所まできたときには、カメはいくらか前進している。
次にまたアキレスがそのときカメのいた所まできたときには、
カメはまたいくらか前進している。したがって、アキレスはカメに追い付くことはできない。
というのである。

確かに理屈はそうであるが、実際はアキレスはカメを追い越すことができる。
だから、これをパラドックスと言うのは違和感があるのであるが、
アインシュタインの話もこのゼノンの話も、
日常とは異なる状況(環境)では日常の判断は通用しないということが分かる。

マクロな話やミクロな話、人の心でも特殊な状況では通用しなくなる。
日常とは異なる状況はアインシュタインでは光の速度であり、それはマクロな話、
ゼノンでは追いつかないというミクロな話が通用しなくしている。

次元が異なると推測すら困難になる。例で説明すれば、
線上の一次元の世界に住んでいては、二次元三次元空間での出来事は見えない。
後ろにいた者が三次元空間を使って前に出てきても不思議な出来事になる。
一次元空間に住んでいる人には、後ろにいた者が突然前に現れることになるからだ。
もはや、人間の理解を超える事態が起こっているのである。

過去の哲学では感覚器官で捉えられる時空四次元の空間を超える、
すなわち「世界の構造」に収まらない概念を導入して哲学を構築しようとしている。
古くはプラトンのイデアに始まり、物自体があるとかないとか、また、
どこに本質を求めるかで一元論や二元論などが生まれ、実存は本質に先立つとか、
しかし、もともと次元を超えた世界なのだから、理解を超えた世界なのだ。
結論が出せる訳がない。

現在、哲学でこうした次元の話が関係する概念として「クオリア」がある。
しかし、このクオリアという言葉も使われ方がどんどん変化してきているようで、
普通の「感覚」の意味に使われてもいるし、その感覚自体を意味することもあるようだ。
脳科学などでは普通の「感覚」の意味に使われることが多いようだが、
哲学では「感覚自体」の意味にも使われている。
この使用法は次元を超えている。

Chariots Of Fire


Chariots Of Fire - The London Symphony Or

🎵🎶🎵🎶🎵🎶🎵🎶🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎷🎷🎷🎷🎸🎸🎹🎹🎹🎹🎺🎺🎺🎻🎻📯📯📯📯


 

Bring me my bow of burning gold!
Bring me my arrows of desire!
Bring me my spear! O clouds unfold!
Bring me my chariot of fire!

    

わが燃えたぎる黄金の弓をもて
欲望の矢を、槍をもて
雲よ散れ
わが炎の戦車をもて


ヘンデル メヌエット

ヘンデル メヌエット

新「言葉」について Ⅳ

古来、「言葉」とそれが示している「対象」との関係について、
いろいろの議論がされてきたが、現在なお、その結論は出ていない。
しかし、その結論がどうであろうと、その間人間の歴史は発展してきている。

素朴実在論と言うのがあるが、
それは一般的に人間が生活する上で前提としている立場で、
この世界は自分の目に見えたままに存在しているとする考えである。

ジェームズ・ギブソンが主張した「直接実在論」や
プラグマティズムの立場から主張される「実用的実在論」もほぼ同様の立場であり、
人間は外界の在り方を直接的に知覚しているとするものである。(ウィキペディアより)

この考えは一般人の考えに近いものと思われるが、
その土台というか基礎がはっきりしていないために、
他の実在論との違いがはっきりできず、単に沢山ある実在論の一つとして扱われている。

目に見えたままが存在していると言っても、いろいろの形がある。
私はすべての物は相対的に存在していると言ってきた。
「私の哲学の方法」でも述べたが、
比較するものが無ければそのものの存在を確認することはできないのである。

①、類や種は実在するのか、あるいは単に空虚な表象像にすぎないのか、
②、もしそれらが実在するとしたら、それらは物体的か、あるいは非物体的か、
③、それらは感覚的事物から切り離されているのか、
  それともそのうちに存在を有するのか、

という普遍に関するさまざまの存在論的・論理学的見解が現れ、論議が交わされたが、
こうした普遍論争も、相対的に比較する相手の違いとしで処理すれば、
なんら問題は生じないのである。

類は類同士、種は種同士で相対的に存在している。
例えば「動物」は「植物」などと比較し相対的に存在が確認できるのである。
したがって、先の①~③のような疑問は出てこないのである。


新「言葉」についてⅤへつづく、

ポールモーリア 想い出に生きる (Après Toi )

  ポールモーリア - 想い出に生きる (Après Toi )

新「言葉」について Ⅲ

物や事や心と対応する「単語」があり、その単語を組み立てて「文」をつくる。
その「文」になって初めて状況が表現できる。
現実の「言葉(単語~文章)」は日常のコミュニケーションから
思考や空想の世界へ広がり、文学や芸能など幅広く用いられる。
ここで初めて「言葉」がシステムとして扱えるようになる。

システム論は、生物や人間社会の仕組みも構造体としてとらえるもので、
二次元的にあるいは三次元的にとらえられる。
複雑系とかホーリズムなどの理論もシステム論と考えてよいと思う。

 私は「世界の構造」のシリーズの中で、よく
「この世界の構造を回転させる」と言う表現を使っているが、
それは「シミュレーションしてみる」という表現と書き換えてもいい。

「シミュレーション」とは、物理的・生態的・社会的等のシステムの挙動を、
これとほぼ同じ法則に支配される他のシステム
またはコンピュータによって、模擬することである。

すなわち模擬的に使ってみるということで、
そうすることで、その考え方の検証ができるのであり、
あるいは、その構造自体の検証もできるのである。

このように対象を構造体として捉えてシステムとして扱うと、
これまでみえなかったものが見えてくるのである。

「言葉」をシステムとして捉えることで、システム論の成果を利用できる。
ニクラス・ルーマンの社会システム理論によれば、 システムとは、

①、複数の要素が互いに相手の同一性を保持するための前提を供給し、

  相互に依存し合うことで形成されるループである。

②、システムは自己の内と外を区分(境界維持)することで自己を維持する。

③、システムは「システムと環境の差異」である。

④、システムは複雑性の縮減を行うことで安定した秩序を作り出す。

  すなわち、あるべき状態を予期し、その状態に適合しようとする。

⑤、ひとつのシステムはそれを孤立したものとして認識すべきではない。

  システムは外部環境が存在する場合に意味を持ちうる。

とされている。


新「言葉」についてⅣへつづく、

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Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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