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なぜ何もないのではなく、何かがあるのか

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、

哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。

なぜ「」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

  • なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
  • なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
  • なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる。

物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから

「究極のなぜの問い」、またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる。

解答することが著しく困難であることから「存在の謎」とも言われる。

存在に関する問いであることから「存在への問い」とも言う。

哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中でもっとも根源的な問い・第一の問いであると言う。

同時に混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、愚かな問い、問うてはいけない問い、

また問うことが危険な問いである、などとも言われる。

存在論のテーマは突き詰めると「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の二つの問いに収束していく

とも言われるが、この問いはこうした場合における「なぜ在るのか」にあたる問いである。

よって”全ての命題は、総じてこの謎に帰結する”とも言われる。

(以上、ウィキペディアより)


全く何から話せばいいのか、と思ってしまう。

この問いにどんな答えが出されようと、世界は変わらない。

はっきり言って「こんなことどうでも世界とは無関係」と言える。


ただ、こうした問が出てくるのは、「この世界が不思議だから」だと思うが、

不思議だから答えがあるとは限らないのである。


人間が赤ん坊から成長する過程で、外界からいろいろの情報を吸収する。

生まれた時すでに外界は存在していたのであり、

その存在に疑問を感じている赤ん坊がいるだろうか。おそらくいない。

それが現実である。そしてそれが「事実」なのである。


いろいろ大人などから成長の過程で教えられて、吸収はする。

そうした教えられる知識には「理由」があり「意味」があることが多い。

だから生まれたときに与えられたものにも「理由」があるはずだと思い込む。

そこから冒頭の疑問が生まれてくるのである。


これまでの哲学者たちの議論の中で、

このすでに与えられている「事実」についてどういう扱いをしてきたのだろう。

ウィキペディアで確認した範囲では、生まれたときから与えられている「事実」を、

哲学の土台として扱っていたと思われる形跡は確認できなかったのである。

これまでに述べたように「なぜ在るのか」の問いに対する答えは「与えられてある」である。


さらに「なぜ与えられたのか」とか「どうして与えられたのか」とか

「誰が与えたのか」などの問いを続けることはできるが、それはそれである。

こうした問題自体を生じさせないように、観念論は「意識」独我論は「夢」などで

存在の問題ではないとしているが表現は変えても「現実」は変わらないのである。

独我論者であろうと独我論者でなかろうと、

コミュニケーションは普通に可能であると言う「事実」は、それを物語っている。


とりあえず、生まれた時にすでにあった「事実」は受け入れるしかないのである。

それが思考の出発点なのである。

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