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新私の哲学の方法(構造体として捉える)

哲学の存在論や認識論では認識主体と認識客体の二つに分けて
二項対立図式で考えることが多いが、二つに分けるまではいいとしても、
客体はそれ自体で存在するとかしないとか、そんな議論を始めるのである。

そうではないのだ。二つに分けるということは、対立する二つとして捉えるのではない。
その二つは互いに相手を支える相対的存在として捉えることが必要である。
「物」がない「心」や、「心」がないときの「物」などはあり得ない。
相手が無かったら自分もない、そんな関係にあるのである。


「世界は全体で一つである」と言ってきた。
そして「できるのは分けることだけ」と言ってきたが、
分けられたものとしてはあっても、それ自体としては存在する必要はないのである。

誤解されそうだが、それ自体は別の何かと相対的に存在するのであり、
ここでは分ける前の状態のことを言っているのである。

分けるということは確かに違いがあるから分けられるのであるが、
とりあえずは、分ける目的は構造体として捉えるためであり、
この世界の仕組みの解明のために分けるのである。
本質を探るのではなく、どういう動きができるかその構造を究明することである。

自動車は沢山の部品からできているが、自動車の働きは個々の部品の働きの総計ではなく、
自動車は一つのシステム(構造体)として運動している。
個々の部品の働きの総計に、何かがプラスされているようにみえる。

自動車は速く楽に目的地に行くための道具である。
個々の部品にはこの自動車としての役割は含まれていないのであるが、
しかし、こうした構造体には目的や役割がプラスされているのである。

「世界は何か」、具体的に言えば、
どこにあるものか、どこから来たのか、どこに出かけたのか、どうしてできたか、
誰に渡したか、何ができるか、何がほしいのか、その他何らかの目的や役割、
それらがその世界を構造体として捉えることで理解が可能になるのである。

その世界の構造からは「何をすべきか」の回答は出てこないが、
自分の位置や自分の行動できる範囲は示されているのである。


新私の哲学の方法(言葉)へつづく、
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