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新何が「事実」か(ナマの事実)

これまで「何が「事実」か」という記事を書いてきたが、
読み返して見ると、私が思う「事実」を列挙しているような記事になっている。
そこには「事実」である理由が書いてないのである。

誰が聞いても「事実」と認めるはずというくらいの気持ちで提示したもので、
少なくとも多数の意見であるはずという気持ちで書いてある。
しかし、それは正確ではない。

私たちが日常生活で「これは間違いない」と判断しているものは、他にもたくさんある。
つまり、「事実」と言えるものはこれまでに書いて来たものだけではない、というご意見や、
これは「事実」とするのは問題があると言うようなご意見もあると思う。

少し具体的に書いてみると、例えば偉い先生が書いた本の内容とか、まずは「事実」と思うし、
例えば、NHKのニュースの内容とか、病院の先生の診断とか、これらもまずは「事実」と思うものである。
しかし、よく考えて見たら、自分は直接その「事実」を見たのではないのだ。

恐らくそれらは「事実」だとは思うが、その事実と自分の間に「信じる」と言う心が挟まっている。
それを分解してみると、病院の医師が診断に使った機器を「信じ」、そこから出てきた医師の言葉を
自分が信じているのである。実際の自分の体を診て「事実」と判断したのは器械なのである。
その間にどんな間違いが挟まっているか分からないのである。

毎日の生活の中で自分自身で「事実」を確認できるのは極わずかで、
大部分は誰かの、あるいは器械の判断を信じているだけなのである。
それなら、わたしの挙げた「事実」だけが「事実」なのだろうか。

「何が「事実」か」と「何を信じるか」とはイコールではない。
「何を信じるか」は日常生活する上では重要な判断であるが、
「何が「事実」か」は世界の成り立ちを考える上での基礎は何かなのである。

日常生活では「何を信じるか」は大切な判断基準ではあるが、
それを哲学の基礎に据えると非常に複雑になってしまう。
「何を信じるか」は「何が「事実」か」に還元できるのであれば、その方が単純になる。
「何が「事実」か」は哲学の出発点なのであり、「何を信じるか」を拒否しているのではない。

ウィキペディアで「事実」について調べていて「ナマの事実」という言葉が目に入った。
「理由や根拠のある事実」と対置されたもので、
「理由も根拠もなくただ受け入れることしかできない事実」の意味で用いられる。

ナマの事実がそれ以上基礎的な何かによっては説明されないような事実のこととするなら、
私が例とした「事実」は正に「ナマの事実」である。
しかし、「理由や根拠のある事実」も私のいう「事実」には違いがない。
この二つを分ける理由はどこにもないのである。

「理由」があるかないかと「事実」かどうかとは関係はない。
「理由」については別に記事にする予定である。
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