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新何が「事実」か(記憶)

五官で感じられるもの以外で「事実」と言えるものとして「記憶」がある。
正確に言うと記憶していたものを思い出したときの心の状態である。

この記憶を「事実」とするのには少し違和感があるが、以下に考えられるように、
記憶というのは私たちの生活に欠かせないものであることが分かる。
記憶がなくては正常な意識が成り立たないのである。
ほかに記憶に代えるものが存在しないのである。

私たち人間は生まれてから毎日経験を重ねて情報を記憶している。
大人になってからでも、新しい情報は記憶しなければ脳にはない。

例えば人と話をしているとき、絶えず交わしている言葉は
記憶していないと会話は成り立たなくなる。
また、その言葉が指し示している事柄について何らかの記憶があるはずである。

これも記憶がなくては会話は成り立たないのである。
もし、記憶がなければ相手に聞き返すか、その記憶のないその内容の説明を求める。

私のブログの記事でリンゴの認識の仕方について、
「私の意識」が認識するもので「記憶」でないというご意見をいただいた。
これは古来からの哲学の考え方の主流なのであるが、
記憶なしでは日常生活はおそらく不可能である。

この「記憶」を「事実」から外すことはできないだろう。
もちろん、ここでいう「記憶」とは脳に記憶していたものを思い出したときの心の状態で、
脳の中の「記憶」は科学的に分かるもので「事実」とは呼べないのである。
神経心理学は記憶について、物事を忘れずに覚えておくこと(脳内の「記憶」)、
そしてその記憶を後で思い出すこと(思い出した「記憶」)としている。

「記憶」は少なくともそれ自身を意識と呼ぶことはないが、
しかし、私の意識は記憶と密接に関係している。
また、記憶がないと自己同一性の意識が発生せず、人格の統合もできない。
意識と記憶の間にはフィードバック・フィードフォワードの関係が成り立っている。

ただし、記憶には無意識という心的要素も深く関与している。

「意識が対象とするものは、記憶だけではない。

また記憶は、何らかの意味で「構造化」されており、

「無意識の領域」の膨大な記憶がどのように構造化されているのかということも問題である。

人間には経験や学習によって得た記憶・知識以外に、

生得的または先天的に備えていたとしか言えない「知識」や「構造」が存在する。

その一つの例は、「人間の言語」であり、

人間の言語は、現在の知見では、人間しか完全には駆使できない。

ノーム・チョムスキー生成文法は、人間の大脳に、

先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張している。」

(以上、ウィキペディアより)


私はこのチョムスキーの考え方には疑問を感じている。
私は自分自身の中にある機能として「演算機能」を分けているが、
そこには論理演算能力として言語を構成する能力を含めている。

この記憶というのは、また時間とともに変化するものでもある。
当然ではあるが、思い出した「記憶」も思い違いや間違いはついて回るが、
それは感覚器官で捉えたことでも同じことで、その都度訂正するしかない。


新何が「事実」か(独我論)へつづく、
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