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新私の哲学の方法(相対的存在)

生まれたとき、すでに与えられているものがあり、
それを分析することが出発点であると前回の記事で書いた。
以前に「「分かる」とは「分けられる」ことである」とも書いたことがあるが、
すでに与えられている対象を「分ける」ことで「分かる」のである。
それが「分析」するということである。

そして、分けられるためには、その分ける相手が必要である。
つまり、何か異なるところがある相手が必要なのである。
異なるところがなくては分ける必要はない。
何かと区別が必要な時に、分けて名前を付けるのである。
これが相対的存在と言うことである。

しかし、「すべてのものは相対的に存在している」と言われても、
理屈では理解したとしても、実際それがどういう意味か、
どこでそういう状況が確認できるのか、それが分からない。
そういう人がほとんどだ思う。

現実のこの世界を眺めてみて、そこにある玄関ドアは見えているし、
これから履いて外へ出ようとしている靴もそろえてあるし、
そしてそれらを見ている自分の存在もはっきり自覚している。
それが一体どこが「相対的」なのかと思ってしまう。
それが普通だと思う。

現実のこの世界は、これで当たり前、無ければ生きていられない、
毎日経験しているし何が起きても対応できる、そうできるはずである。
だから、それは当たり前で、自分は何かと相対的にしか存在しえないなんてあり得ない。
その通りだと思う。

今現在の自分から判断するとそうなのである。
しかし、死を迎えた自分ならどうだろう。死によってこの世界も消えてなくなるのだ。
自分も世界も相対的に存在していたのである。

別の視点でみると、一切の外界からの情報が入ってこなかったら、
何も感じることができなかったら、はたして「自分」は感じられるのだろうか。
おそらく、「自分」を自覚することはないだろう。
そういう状況で何か考えられるだろうか。

記憶に残っている過去の思い出は思い起こすことはできるが、
これも過去には外界の情報を受け止められたからで、
すなわち、相対的に存在したからなのである。


新私の哲学の方法(トップダウン方式)へつづく、
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