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私はなぜ私なのか

生まれてしばらくの間は赤ん坊は
自分と母親の区別も付かないと聞いたことがある。
どのように赤ん坊の心を確認されたのかは知らないが、
分かるような気はする。

ある程度の年齢になれば、
自分とそうでないものとの区別はできるようになるが、
どのようにして自分とそうでないものとの区別をしているのか。

自分と自分でないものとの区別は、区別が必要な時に生まれる。
例えば一卵性双生児、自分ともう一人の兄弟との区別は当然必要な場面がある。
そのとき親から付けられた名前を使って会話して区別はできる。

例えば、二人の一卵性双生児を区別する必要がないときは、
どちらに話しかけるでもなく質問しても、二人から同時に答えが返ってきたりする。
二人は同じような生活をしていてどちらに答えてもらってもよい場合である。

自分とそうでないものとの境目は、自分の感覚器官で、
感覚器官で感じられるものは、自分の外にあるもので自分ではないと判断する。
逆に、自分でないものを感じているその感覚器官からは自分なのである。

自分でも区別が難しいこともある。自分の体などである。
自分の心からみると身体は心ではないので対象化してみてしまう。
つまり、自分とそうでないものとは相対的に位置づけされるものである。

さらに、自分以外の対象がなければ、自分もあり得ないのである。
相対的に存在するということはそういうことを意味している。
考えてみてほしい。何も感じられるものがない状態で、
どのようにして自分を感じることができるのだろうか。


「私はなぜ私なのか」という問いの意味は、簡単に言えば、
世界中に沢山の人がいるし、今までに数多くの人が生まれそして死んでいる。
それにも拘らず「はなぜ他の誰かではなく、この私なのか?」という疑問のことのようだ。

そしてその問には数多くの答えが出されているのであるが、
その代表的な答えが独我論から出た説である。
「この世界はすべて私が見ているのようなものである」というのである。
つまり他者などそもそもおらず、周囲に見える机や椅子も実在はしていない、
ただ私が感じているこの夢としてだけそれらはある、というのである。

典型的な独我論と言うのはこんなものなのだが、
この世界のすべてが夢で実在しないのであれば、
「私はなぜ私なのか」という問題自体もありえないはずである。
私以外はすべて実在しないのだから、ことさら「私はなぜ私なのか」と問う意味はない。
そういう問い自体生まれないはずである。

現実を考えてほしい。窓の外を眺めていたら眼の前を小鳥が飛んで行った。
それを見て「小鳥が飛んでいるのが見えた」と思ったとする。
この時点ですでに小鳥の存在を確認しているのであり、
そういう状態を人間は「小鳥が飛んでいる」と表現するのである。

ことさらに存在論や認識論をぶちまける必要などなく、
ブログで小鳥の写真をアップしている家内に「小鳥がいるよ」と教えてやれば、
「小鳥がいる」と表現した目的は達するのである。
そのようして世界は動いているのである。それが現実である。

私は「世界の構造」で独我論について述べているが、
それは体の内側から見ている人間は自分だけである
という「事実」について述べているもので、
他のものの存在を否定しているのではないのである。

だから「私はなぜ私なのか」という疑問は、
「なぜ内側から見えているのは自分だけか」という問いに置き換えるならあり得る。
これは「事実」なのである.。

すなわち、「なぜ体の内側から見えている人間は自分だけなのか」
という疑問はそのままにしておいて分割しているのであり、
だから「私はなぜ私なのか」という疑問も残っているのである。

この疑問に答えるための方法として、二つの方法が考えられる。
その一つは宗教の視点からで、その疑問を発している自分の「心」の問題として、
その原因となっている「心」の状態を取り去ろうとする方法である。

もう一つは哲学からの視点で、その疑問を発している論理的な背景の探求で、
言語学的な方向からの探求や、心理学的な方向からの探求などがある。
私がここで書いているのも、上の宗教の位置づけも含めて、哲学的な探求になる。
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