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生きている意味

ライプニッツの「充足理由の原理」というのがあるそうだが、
「すべての事実にそうであることの十分な理由がある」というのである。

そうしたことがあるのかないのか、
またあるとしてそれはどのようなものなのか。
人間の説明という行為や、知識や理解ということと、
この原理とどのように関係しているのか、
すなわち世界はどこまで理解可能で、どこまで説明可能かなのである。

多くの哲学者は生きる理由・目的について
「生きてる意味は幸せになることだ」と答えている。
アリストテレス、パスカル、フロイト、トルストイ、カント、プラトン、ソクラテス、
ウィキペディアで調べたところ、こんな人の名前があった。

これだけの偉人たちの言葉があっても、納得しない人があるでしょうね。
だって、その人たちは「幸せではない」と思っているから当然なのである。
容易に幸せにはなれないから悩むのである。

一般的には「理由」というのは、
①論理の場面では帰結に対する前提,前件であるが,
実在の場面ではなんらかの現象的「変化」についての理由になる。
主に科学的な論証で用いられる方法である。

②また実在について「変化」ではなく存在の理由 をも問うことができる。
この場合,理由は存在の本質規定を意味しており、
ライプニッツの充足理由律は存在についていわれるかぎりこの意味である。
主に哲学的な推論の方法になる。                                              

しかし、この二つの根拠づけには大きな違いがある。
前者①は時間的・空間的に「変化」する事実の観察で確認できるが、
後者②はただ存在するだけで時間的・空間的に何の「変化」もないものである。
「なぜ宇宙があるのか?」とか「なぜ世界があるのか?」とか
「なぜ無ではないのか?」などのような問も「変化」がなく、
「理由」を見つけるのは難しいものである。

生まれたばかりの赤ん坊は与えられたこの世界を何と受け取っているのか、
この世界に「理由」を求めているとは思えないが、
人生に目的や意味はあるのか、あるとすればそれはいかなるものなのか。
これらも人生の細かいその時々の目的や意味ではなく、
「生きるという行為そのもの」についての「理由」を聞いているもので、
ある意味「変化」がない問いであり、答えを見つけるのが難しいものである。

私は以前に
 「何のために生きるか」とか「何のために存在するか」というような
 そのものの存在理由を問う問題には、答えはあり得ない。
 自分自身で答えることはできない。そのものの存在理由は、
 それを作った人には「もう一人子供が欲しかった」と言うような理由があり得るが、
 その子供自体には理由はあり得ない。
と書いたことがある。

しかし、この答えでは「何のために生きるか」とか
「何のために存在するか」というような疑問を抱えている人は納得しないと思う。
つまり、答えにはなっていないのである。


全体で一つの世界を分割した片方に「自分」があり、
もう一方に「外界」があって、それと相対的にあるのが「自分」である。
その「理由」をさぐる以前に、そこに「自分」がなければ世界が成り立たない。
「自分」はそんな存在なのである。

つまり、「自分」と「事実」「外界」とは相対的に存在しており、
そのどちらが欠けても世界は存在しないのである。
「自分」と「事実」「外界」の間には相対的な関係はあっても、
そのようにある「理由」などはないのである。自分が分けたからあるのである。
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