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あなたは「自由」と思いますか

ウィキペディアによれば、
自由意志とは、自己の判断をコントロールすることができるという仮説である。
専門家の間でもよく見られる誤解は、自由意志を行為の自由と混同することである。
人間による一連の活動は、(1)意志によって、(2)行為が発生し、最後に(3)結果が生じる、
という形で一般化される。
自由意志の問題とは、いわば「どのように思うか」が、自由であるかについて
直接的な問いかけをするものであり、意志の成立過程を対象とするものである。
(以上、ウィキペディアより)

このウィキペディアの説明だと自由意志の問題は「自由に行動できるか」ではなく、
「自由に思えられるか」ということになるが、しかし、この二つを切り離すことは難しい。
(1)の「思う」という行為に自分の意思以外のものが関わっているか、
つまり決定論が関係しているかであるが、それを考察するにも(2)の行為は外すことはできない。
決定論については別に記事にする予定である。

例えば、宇宙旅行がしたいと思うまではありとしても、
宇宙の果てを飛び出したいと思うのはあり得ない。とか、
自分はもっと背が高くなりたいと思っても、なれる高さには限度がある。
ある程度できることとできないことは外的要素で決まっているので、
自分の意思もその決まっていることを超えては思おうとはしない。
この宇宙、この社会、この時代、これを超えて自分の思いを果たそうなどと、
意思を巡らすことはないのである。

この自由意志の考察でも、何が「事実」としてあるか、それが大事なのである。
生まれた時に感じたこの世界、そこには何の優劣もなく全体としてそこにあった。
いろいろあるものを分けて、名前が付けてあり、親から教えられる。
それらは「事実」である。

また、「分ける」という行為は対象を吟味して相対的に分けるわけで、
当然ながら「事実」の相対的確認が必要になる。
「分ける」とう行為の対象も「事実」と判断してよいと思う。

それで「自由意志」に戻るが、決定論がどういう結論になるかで、
自由意志を肯定できるかが決まって来るとも言えるが、
それなら改めて「自由意志」について議論する必要はなくなるわけで、
ここで相対的存在と自由意志の関係が問題となる。

「自由」であるためにはその意思は独立に存在しなければならない。
相対的存在であるなら、相手の存在に左右されるからである。

もう一つ、「自由」が自分の意思について言うつもりなら、
自由に動き回れる時空が必要であり、その時空の中にはいろいろの対象が存在している。
そしてそれらと相対的に接して生きているのである。

「自由」は対象が存在しそれらとの相対的関係で存在しているのである。
つまり「自由」自体も相対的存在なのである。
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