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新、何が「事実」か Ⅵ

ここまで、どういう場合を「事実」と判断するかを書いてきた。
しかし、その「事実」というのは自分が一度だけ経験しただけでは
誰もそれを「事実」とは認めないものである。

例えば、よくある話でいうなら「UFO」とか「幽霊」とかがそれである。
私の哲学の中に出てくるものでは「悟り」がそれである。
こういう時に少しでも認めてもらうためにする方法の一つが、
どうしたらその「事実」を体験できるか、その方法を示すことである。

物理学や化学の論文なども、最初はその論文を書いた人か、
その周辺のごく一部の人しかその事実を知らないのである。
そして、論文発表後にその論文に書かれている方法で「事実」を確認されてゆくのである。

しかし、それもできないことがある。
例えば、アインシュタインの相対性理論などの理論物理学で出てくる論文などは、
どういう方法で事実を確認できるかが書かれているとは限らない。

理論物理学という名前の通り、理論的に論理的に
「こうでなければならない」「こうであるはずだ」と結論されたものだからである。
もちろん、最終的には検証されて「事実」であることの確認が必要である。


私の「悟り」の話で言えば、
実は、「力」=「欲.」が、観る対象の価値を歪めているのである。
もともと対象には価値などはないが、欲の目を通してみると価値が有ったり無かったり、
だから自分を苦しめているのは欲なのである。

それならばとその原因となっている「力」=「欲.」を取り去れば、
生老病死の苦から逃れられるはずで、「力」や「欲.」を取り去るために
内省や瞑想や座禅や禁欲や、時には滝に打たれたりして修行するのである。
言わば、そうすれば「悟り」を「事実」として確認できるということである。

しかし、実を言うとそうした修業は「悟る」ためには何の役にも立っていないのである。
むしろそれらが無駄な事であることを知るためにしているようなものなのである。
つまり、「力」=「欲.」を取り去るのに自分の「力」使っているのである。

矛盾している。自分が座っている座布団を
座ったまま自分で取ろうとしているようなものである。
そのことに気付くことが必要なのである。
自分ではどうにもならないことに気付くことが必要なのである。
そして、すべてをあきらめた時に仏の力で「悟る」のである。
これが自分の力ではなく「他力本願」と言われるものなのである。


何が「事実」か Ⅶへつづく、
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