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人間に何ができるか

「哲学とは何か」という問いにひと言で答えるなら、
それはさまざまな物事の「本質」をとらえることだと言うことができる。
上の文は世界観と人生観の区別がなされていない発言と思われるが、
ここでは世界観に限った問いに受け取りたい。

従来の哲学では、この世界に分け入って「本質」となるものを探すのであるが、
そのためにはまずはこの世界を受け入れることが必要である。
でなければ、世界に分け入って「本質」となるものを探すなどあり得ない。
世界を「事実」として認めているから、その中に「本質」が隠れていると判断できるのである。

世界を分析するために人間に与えられている機能は何かを知る必要がある。
与えられている機能としては「感覚器官」が最初に思い当たる。
この感覚器官で受け止めた内容を、「心」で受け止め、
その内容に対する「感情」などが喚起されて、次の行動へ連結して行く。

どう行動するかの判断には、
欲望や自我などの親から引き継いだ遺伝情報が関係していると思われるが、
これも与えられている機能と言える。
他に「記憶」する機能があり、その記憶を思い出す機能も備わっている。
それらもすべて自分で選んだのではなく、最初から与えられているものである。

この記事のタイトル「人間に世界の何が分かるか」に答えられるための前提が整った。
その前提を駆使して世界を探るのである。
で、その探り方であるが、予め与えられている世界を分析するため、
世界を細分して個々の部品を再構成して世界を構造体として捉える。

世界を構造体として捉えることで、システム理論の対象として扱えるようになる。
アリやハチなどの社会性昆虫の営みや、人間の経済活動などを観察していると、
それぞれが自身の意思で勝手に行動しているように見えながら、
全体としてある秩序や均衡が生み出されている。

このように自律的に意思決定する複数の主体が、互いに影響を及ぼしながら、
全体としてある目的を達成する「自律分散システム」として世界を捉えるのである。
以上(長谷部 浩二(Koji Hasebe) 筑波大学大学院システム情報工学研究科より)

冒頭で「本質」の探究が哲学の目的であると受け取れる文章を書いているが、
世界を分け入っても「本質」などを見つけることは難しい。
どうだったら「本質」と言えるのか、その基準も分からない。

先に検討した通り、世界を構成する個々の部品には優劣はなく、
どれも世界を構成する部品なのだ。
大切なのは、その部品が世界のどこに位置づけされるかであり、
どういう役割を果たしているかである。

人間にできることはそこまでである。
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クロディーヌ(T.フーリッツィ)


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Maksim Mrvica - Claudine original

新「言葉」について Ⅶ

仏教用語に「而二不二(ににふに)」という言葉があります。
「而二不二」とは、「而二」と「不二」の二つの言葉がくっついたもので、
二つであって二つでない という意味です。
「而二(にに)」とは、一つのものを二つの面から見ることで、
「不二(ふに)」とは、二つの面があっても、その本質は「一つ」である、ということです。
(ブログ「正心寺」より 紫花大慈師)

例えば、岩瀧山 往生院六萬寺 川口 英俊氏は
「而二不二」とは、両部不二とも言われますが、
「二つにして、二つではない(一つのもの)」という意味であり、
普通に考えると矛盾していて理解し難い言葉になってしまいます。
いわゆる「無分別」を表すもので、両部は確かにあるが、
どちらがどちらとは決められない、またはどちらが何かとは言えない、
どちらにもとらわれて執着することができない、ということであります。
(執筆完了日 平成20年4月8日)

このようにネットで調べてみると、
「矛盾していて理解し難い言葉」と解説されているのである。

下の記事は2007/1/12に私が書いたものです。
「「同じ」ということの意味」というタイトルの記事です。

「これとこれは同じものだ」というような言い方をしますが、
「別のもの」二つを「同じもの」と言うのは矛盾していますね。
別のものなんだから違うものというのが常識なのに、なぜ同じものなのか、
その「同じもの」という理由というか、その意味はどこにあるのか。

二つのものの姿・形が同じだから「同じもの」なのでしょうか。
赤いノート、黄色いノート、大きいノート、小さいノート、分厚いノート、薄いノート、
姿・形は違いますが、同じノートですね。
ものを書き留めるという機能が同じだから「同じもの」なのでしょうか。

国語のノートと算数のノート、赤いノートと黄色いノート、
同じノートでもありますが、違うノートでもありますね。
赤い色と黄色い色は違う色ですらかね。
同じものでもありながら、同じものではないのです。

私たちはものを見るとき、たえず他のものと比較しながら見ています。
赤いノートは黄色いノートと比較してみているから違うものなのです。
それでは赤いノートも黄色いノートも同じノートと見るときどうなのでしょう。
それはノートと違うもの、例えば本と比較しているから、
赤いノートも黄色いノートも同じノートなのです。

以上が「「同じ」ということの意味」の記事ですが、
当に「而二不二(ににふに)」について書いたものと言えます。
「而二不二」の意味を「矛盾していて理解し難い言葉」として
理解する必要はないと思います。

新「言葉」について Ⅵ

人とのコミュニケーションのとき「言葉」を使うとしても、
そのとき「言葉」は人(相手)に何を伝えているのだろうか。
こういう疑問に答えようとするのが、哲学ないし言語学の意味論である。

言葉の意味については、諸説があるが、
私は言葉の意味を、他の言葉と相対的に位置づけされる考えている。
言葉の意味が相対的に形成されているということを説明するのに、もっともよい方法は、
比較(相対)する相手がない状態を考えてみることである。

この世界がすべて赤い色と仮定して、その具体例をこれまでにも書いているが、
もう一度書いておこう。

「赤」以外に比較する他の色がないのだから、他の色と区別する必要はないし、
その色を指差しで示すこともてきようがないのである。
「赤い」という言葉を使う場面はなく、「赤い」という言葉も必要がない。
したがって、「赤い」という言葉も生まれないのである。
このように言葉の意味は他のものと比較して初めて相対的に位置づけできるのである。

言葉は、いくつかの単語が集まって、グループで意味を形成する。
例を上げよう。
一方でなければ他方であることが決まる2語で形成される言葉、
   「男」と「女」、  「生」と「死」 など
2語以上で形成されるもので、一方でなければ他方とは限らないが、
そのグループの中で相対的に形成される言葉、
   「善」と「悪」、  「大」と「小」、  「強」と「弱」 など
   (「大」でなければ「小」とは限らず「中」ということもある)
反対の動作を表す2語で形成される言葉、
   「行く」と「来る」、  「乗る」と「降りる」 など
同じ事柄であっても、立場によって表現が異なる言葉、
   「売る」と「買う」、  「やる」と「もらう」、  「教える」と「学ぶ」 など
以上、例としたものは2~3語で形成される言葉で、典型的なものの例であるが、
もっと沢山の語がもっと複雑な構造でグループを形成している言葉もある。
例えば、父、母、兄、弟、姉、妹、甥、叔父、など親族の関係を表す言葉など、
他にもいろいろある。

言葉(特に日常言語)は、かなり複雑に絡まっており、
上記のように単純には言えないケースもあるが、
基本的には言葉の意味は相対的に位置づけされている。

この記事は、
2005.9.1「意味論」として投稿した記事を加筆して再投稿したものである。


「言葉」についてⅦへつづく、

私はなぜ私なのか

生まれてしばらくの間は赤ん坊は
自分と母親の区別も付かないと聞いたことがある。
どのように赤ん坊の心を確認されたのかは知らないが、
分かるような気はする。

ある程度の年齢になれば、
自分とそうでないものとの区別はできるようになるが、
どのようにして自分とそうでないものとの区別をしているのか。

自分と自分でないものとの区別は、
自分で感じて初めてその存在が分かるものは自分ではないものと分かる。
逆に言えば、感じている本体が自分なのである。
つまり、自分とそうでないものとは相対的に位置づけされるものである。

さらに自分以外の対象がなければ、自分もあり得ないということでもある。
相対的に存在するということはそういうことを意味している。
考えてみてほしい。何も感じられるものがない状態で、
どのようにして自分を感じることができるのだろうか。


「私はなぜ私なのか」という問いの意味は、簡単に言えば、
世界中に沢山の人がいるし、今までに数多くの人が生まれそして死んでいる。
それにも拘らず「はなぜ他の誰かではなく、この私なのか?」という疑問のことのようだ。

そしてその問には数多くの答えが出されているのであるが、
その代表的な答えが独我論から出た説である。
「この世界はすべて私が見ているのようなものである」というのである。
つまり他者などそもそもおらず、周囲に見える机や椅子も実在はしていない、
ただ私が感じているこの夢としてだけそれらはある、というのである。

典型的な独我論と言うのはこんなものなのだが、
この世界のすべてが夢で実在しないのであれば、
「私はなぜ私なのか」という問題自体もありえないはずである。
私以外はすべて実在しないのだから、ことさら「私はなぜ私なのか」と問う意味はない。
そういう問い自体生まれないはずである。

現実を考えてほしい。窓の外を眺めていたら眼の前を小鳥が飛んで行った。
それを見て「小鳥が飛んでいるのが見えた」と思ったとする。
この時点ですでに小鳥の存在を確認しているのであり、
そういう状態を人間は「小鳥が飛んでいる」と表現するのである。

ことさらに存在論や認識論をぶちまける必要などなく、
ブログで小鳥の写真をアップしている家内に「小鳥がいるよ」と教えてやれば、
「小鳥がいる」と表現した目的は達するのである。
そのようして世界は動いているのである。それが現実である。

私は「世界の構造」で独我論について述べているが、
それは体の内側から見ている人間は自分だけである
という「事実」について述べているもので、
他のものの存在を否定しているのではないのである。

だから「私はなぜ私なのか」という疑問は、
「なぜ内側から見えているのは自分だけか」という問いに置き換えるならあり得る。
これは{事実」なのである.。

すなわち、「なぜ体の内側から見えている人間は自分だけなのか」
という疑問はそのままにしておいて分割しているのであり、
だから「私はなぜ私なのか」という疑問も残っているのである。

この疑問に答えるための方法として、二つの方法が考えられる。
その一つは宗教の視点からで、その疑問を発している自分の「心」の問題として、
その原因となっている「心」の状態を取り去ろうとする方法である。

もう一つは哲学からの視点で、その疑問を発している論理的な背景の探求で、
言語学的な方向からの探求や、心理学的な方向からの探求などがある。
私がここで書いているのも、上の宗教の位置づけも含めて、哲学的な探求になる。

生きている意味

ライプニッツの「充足理由の原理」というのがあるそうだが、
「すべての事実にそうであることの十分な理由がある」というのである。

そうしたことがあるのかないのか、
またあるとしてそれはどのようなものなのか。
人間の説明という行為や、知識や理解ということと、
この原理とどのように関係しているのか、
すなわち世界はどこまで理解可能で、どこまで説明可能かなのである。

多くの哲学者は生きる理由・目的について
「生きてる意味は幸せになることだ」と答えている。
アリストテレス、パスカル、フロイト、トルストイ、カント、プラトン、ソクラテス、
ウィキペディアで調べたところ、こんな人の名前があった。

これだけの偉人たちの言葉があっても、納得しない人があるでしょうね。
だって、その人たちは「幸せではない」と思っているから当然なのである。
容易に幸せにはなれないから悩むのである。

一般的には「理由」というのは、
①論理の場面では帰結に対する前提,前件であるが,
実在の場面ではなんらかの現象的「変化」についての理由になる。
主に科学的な論証で用いられる方法である。

②また実在について「変化」ではなく存在の理由 をも問うことができる。
この場合,理由は存在の本質規定を意味しており、
ライプニッツの充足理由律は存在についていわれるかぎりこの意味である。
主に哲学的な推論の方法になる。                                              

しかし、この二つの根拠づけには大きな違いがある。
前者①は時間的・空間的に「変化」する事実の観察で確認できるが、
後者②はただ存在するだけで時間的・空間的に何の「変化」もないものである。
「なぜ宇宙があるのか?」とか「なぜ世界があるのか?」とか
「なぜ無ではないのか?」などのような問も「変化」がなく、
「理由」を見つけるのは難しいものである。

生まれたばかりの赤ん坊は与えられたこの世界を何と受け取っているのか、
この世界に「理由」を求めているとは思えないが、
人生に目的や意味はあるのか、あるとすればそれはいかなるものなのか。
これらも人生の細かいその時々の目的や意味ではなく、
「生きるという行為そのもの」についての「理由」を聞いているもので、
ある意味「変化」がない問いであり、答えを見つけるのが難しいものである。

私は以前に
 「何のために生きるか」とか「何のために存在するか」というような
 そのものの存在理由を問う問題には、答えはあり得ない。
 自分自身で答えることはできない。そのものの存在理由は、
 それを作った人には「もう一人子供が欲しかった」と言うような理由があり得るが、
 その子供自体には理由はあり得ない。
と書いたことがある。

しかし、この答えでは「何のために生きるか」とか
「何のために存在するか」というような疑問を抱えている人は納得しないと思う。
つまり、答えにはなっていないのである。


全体で一つの世界を分割した片方に「自分」があり、
もう一方に「外界」があって、それと相対的にあるのが「自分」である。
その「理由」をさぐる以前に、そこに「自分」がなければ世界が成り立たない。
「自分」はそんな存在なのである。

つまり、「自分」と「事実」「外界」とは相対的に存在しており、
そのどちらが欠けても世界は存在しないのである。
「自分」と「事実」「外界」の間には相対的な関係はあっても、
そのようにある「理由」などはないのである。自分が分けたからあるのである。

あなたは「自由」と思いますか

ウィキペディアによれば、
自由意志とは、自己の判断をコントロールすることができるという仮説である。
専門家の間でもよく見られる誤解は、自由意志を行為の自由と混同することである。
人間による一連の活動は、(1)意志によって、(2)行為が発生し、最後に(3)結果が生じる、
という形で一般化される。
自由意志の問題とは、いわば「どのように思うか」が、自由であるかについて
直接的な問いかけをするものであり、意志の成立過程を対象とするものである。
(以上、ウィキペディアより)

このウィキペディアの説明だと自由意志の問題は「自由に行動できるか」ではなく、
「自由に思えられるか」ということになるが、しかし、この二つを切り離すことは難しい。
(1)の「思う」という行為に自分の意思以外のものが関わっているか、
つまり決定論が関係しているかであるが、それを考察するにも(2)の行為は外すことはできない。
決定論については別に記事にする予定である。

例えば、宇宙旅行がしたいと思うまではありとしても、
宇宙の果てを飛び出したいと思うのはあり得ない。とか、
自分はもっと背が高くなりたいと思っても、なれる高さには限度がある。
ある程度できることとできないことは外的要素で決まっているので、
自分の意思もその決まっていることを超えては思おうとはしない。
この宇宙、この社会、この時代、これを超えて自分の思いを果たそうなどと、
意思を巡らすことはないのである。

この自由意志の考察でも、何が「事実」としてあるか、それが大事なのである。
生まれた時に感じたこの世界、そこには何の優劣もなく全体としてそこにあった。
いろいろあるものを分けて、名前が付けてあり、親から教えられる。
それらは「事実」である。

また、「分ける」という行為は対象を吟味して相対的に分けるわけで、
当然ながら「事実」の相対的確認が必要になる。
「分ける」とう行為の対象も「事実」と判断してよいと思う。

それで「自由意志」に戻るが、決定論がどういう結論になるかで、
自由意志を肯定できるかが決まって来るとも言えるが、
それなら改めて「自由意志」について議論する必要はなくなるわけで、
ここで相対的存在と自由意志の関係が問題となる。

「自由」であるためにはその意思は独立に存在しなければならない。
相対的存在であるなら、相手の存在に左右されるからである。

もう一つ、「自由」が自分の意思について言うつもりなら、
自由に動き回れる時空が必要であり、その時空の中にはいろいろの対象が存在している。
そしてそれらと相対的に接して生きているのである。

「自由」は対象が存在しそれらとの相対的関係で存在しているのである。
つまり「自由」自体も相対的存在なのである。

事実を語らずして、世界は語れない

学問で一番大切なことは「誰れそれがどう言ってるか」ではなく、
現実(事実)はどうなっているかである。

私たちが生きているのは、この現実の世界である。
偉い人の頭の中で考えられた世界ではないのである。
だから、偉い人がいろいろのことを言っていても、
それらは現実の世界と照合されなければならない。

ウィキペディアなどで哲学用語などの検索をして感じることは、
いろいろ偉い人の考えが列挙されているが、
ほとんど、現実(事実)レベルの議論がなされていないのである。

何が事実か、現実はどうなっているか、どちらの説が現実に近いか、
そういう議論は見えてこないのである。

よくある哲学者の議論の仕方は、現実はどうかではなく、
どうあるべきか、何が理想的か、間違いを排除するなどで、
当然といえば当然であるが、現実はそれほど理想的にはできていない。

私は行き詰まったら現実と照合し、それが理想的な形ではなくても、
現実はそれをどのように理想に近づけて行くのか、
それも現実から見つけてゆく、それが必要と思う。

①人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
②人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
③ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
④人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。

それらは存在論や認識論の課題ではあるが、
最初からそれを目指すのは困難であり、
まずは何が「事実」として自分に与えられているかを問うのが順序である。

「事実」を語らずして、「世界」は語れない。
自分が生まれたときすでに、自分の前には「全体で一つの世界」があった。
それが「事実」である。

そして、それがどういうものかを知るために
「全体で一つの世界」を分けながら、世界を分析することから始める。
これは、対象の違いを見つけて分けることで、世界を相対的に捉えることである。
この相対的に捉えることも、事実は何かを確認する行為である。

近年は、心理学や脳科学などが盛んで、
存在論や認識論が目指してきた①~④と重なる部分がある。
心と物の関係を科学的に究明することは可能かもしれない。
しかし、それは哲学というより科学の領域に入るものである。

それはそれで必要なことではあると思うが、
世界観を築くという目的を果たすために、
諸学や諸現象や社会の諸々を全体の中へ位置付けるなどという
本来の哲学としての仕事とは言い難いと思う。

雨の日

雨の日

歩いていても雨が音を立てて近づいてくる

乾いた舗道が濡れてくる

濡れた舗道に街の明かりが輝いて 心も輝く 

明かりに照らされてまぶしい

そんなに急がなくてもいいのに早足になって

前の人について行く

あれ どこに迷い込んだのか見慣れた景色

懐かしい香りが漂ってきた

雨が私を街に誘い出してくれたのだ


ヘンデル 私を泣かせてください

ヘンデル 私を泣かせてください

18世紀のイタリアオペラ「リナルド」第2幕で登場する有名なアリアです

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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