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新「言葉」について Ⅲ

物や事や心と対応する「単語」があり、その単語を組み立てて「文」をつくる。
その「文」になって初めて状況が表現できる。
現実の「言葉(単語~文章)」は日常のコミュニケーションから
思考や空想の世界へ広がり、文学や芸能など幅広く用いられる。
ここで初めて「言葉」がシステムとして扱えるようになる。

システム論は、生物や人間社会の仕組みも構造体としてとらえるもので、
二次元的にあるいは三次元的にとらえられる。
複雑系とかホーリズムなどの理論もシステム論と考えてよいと思う。

 私は「世界の構造」のシリーズの中で、よく
「この世界の構造を回転させる」と言う表現を使っているが、
それは「シミュレーションしてみる」という表現と書き換えてもいい。

「シミュレーション」とは、物理的・生態的・社会的等のシステムの挙動を、
これとほぼ同じ法則に支配される他のシステム
またはコンピュータによって、模擬することである。

すなわち模擬的に使ってみるということで、
そうすることで、その考え方の検証ができるのであり、
あるいは、その構造自体の検証もできるのである。

このように対象を構造体として捉えてシステムとして扱うと、
これまでみえなかったものが見えてくるのである。

「言葉」をシステムとして捉えることで、システム論の成果を利用できる。
ニクラス・ルーマンの社会システム理論によれば、 システムとは、

①、複数の要素が互いに相手の同一性を保持するための前提を供給し、

  相互に依存し合うことで形成されるループである。

②、システムは自己の内と外を区分(境界維持)することで自己を維持する。

③、システムは「システムと環境の差異」である。

④、システムは複雑性の縮減を行うことで安定した秩序を作り出す。

  すなわち、あるべき状態を予期し、その状態に適合しようとする。

⑤、ひとつのシステムはそれを孤立したものとして認識すべきではない。

  システムは外部環境が存在する場合に意味を持ちうる。

とされている。


新「言葉」についてⅣへつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1480.html

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新「言葉」について Ⅱ

一つの例で話すと、地図という良くご存じのものがあるが、
この地図というのは現実の土地(もの)があって、それを縮小して書いたもので、
距離は縮小されているが、位置関係など相対的関係はそれで分かる。

この地図は現実の土地(もの)のモデルとして位置づけされていて、
地図上のある地点とある地点の関係は、
現実のある地点とある地点の関係に対応しているのである。
言葉も現実の事柄と対応しており、現実のモデルと位置づけできる。


「モデル」という言葉は厳密に言うと、もっと難しい言葉なのであるが、
広辞苑によれば「現象や構造を理論的に抽象化したもの」とあり、
「現実」と「モデル」はイコールではないのである。

物理学での無定義概念などとも似ているところがあり、
むしろ現実を抽象化したもので、モデルの方が汎用性があり、
用途が広くなり、表現力が大きくなるのである。

実際に言葉を使用するときは「文」として単語(名詞や動詞など)の間に、
日本語なら助詞や助動詞などの付属語を付けて状況を表す。

「単語」だけでは状況を表現されることはなく、
「文」となって初めて状況が現れてくる。
幾何学的に表現すれば、「単語」は「点」であるが「文」となると「線」になる。

空間的には「点」はゼロ次元であるが、「線」は一次元になる。
現実の世界は空間的には三次元であり、一次元では表現しきれない。
不足の次元は副詞や接続詞で文を重ねることで表現されるが、
それでも「線」が増えるだけで、網目にはなっても面にはならないのである。

どうしても文章での表現には限界があり図面による表現には及ばない。
私の「世界の構造」は二次元の図面になっている。
二次元にすることで構成要素の関係が分かり易くなっている。

新「言葉」についてⅢへつづく、

新「言葉」について Ⅰ

哲学をするでも、人とのコミュニケーションでも言葉を使う。
言葉はコミュニケーションの「道具」であり、思考の「道具」でもある。

コミュニケーションは何かを伝えることが目的であり、伝わればいいとも言える。
分からないときは、相手の気持ちを翻訳して受け取ることもあるし、
最近流行の言葉を使えば、相手の気持ちを忖度するということもある。

この言葉というものをどう位置づけするかは非常に重要である。
言葉を構成している単語は、一つ一つ物や事や心と対応しており、
その「物や事や心」についてと、
それを伝える手段としての「言葉」との区別が必要である。

「言葉にできないものは、存在すると思うか」という質問を、何度か受けたことがある。
その都度どんな返答をしていたか記憶がはっきりしないが、
「言葉を作ればいい」と答えたことがあったのは覚えている。

「言葉にできない」と言っているその裏には「何かがある」ことが隠れている。
何もないのであれば「言葉にできないもの」という表現は出てこないと思う。
したがって、その存在を問うことは意味がない。

言葉はコミュニケーションの「道具」であると言ったが、
「言葉」が付いていないものが話題にしたいなら、新しい名前を付ければ
コミュニケーションは可能になる。

名前のないものに新しい名前を付ける、すなわち命名なんて行為は、
日常でもよくあることである。
必要があれば命名すればいいのである。

要するに、ものがあるかないかと、言葉があるかないかは、別の問題であり、
それを一緒にして「言葉にできないものは、存在すると思いますか」と
思ってしまうところは如何にも哲学者らしい。


新「言葉」についてⅡ につづく、

マーラー交響曲第五番から「アダージェット」

マーラー交響曲第五番から「アダージェット」

何が「事実」か Ⅶ

これまで「何が「事実」か」という記事をⅠ~Ⅵまで書いてきたが、
読み返して見ると、私が思う「事実」を列挙しているような記事になっている。
そこには「事実」である理由が書いてないのである。

誰が聞いても「事実」と認めるはずというくらいの気持ちで提示したもので、
少なくとも多数の意見であるはずという気持ちで書いてある。
しかし、それは正確ではない。

先の記事「私はなぜ私なのか」でも述べているが、
「自分」以外の対象がなければ、「自分」もあり得ないのである。
相対的にあるということはそういうことを意味している。

つまり、「自分」と対象の「事実」とは相対的に存在しており、
「自分」と「事実」の間には相対的な関係はあっても、
そのようにある「理由」などはないのである。

ウィキペディアで「事実」について調べていて「ナマの事実」という言葉が目に入った。
「理由や根拠のある事実」と対置されたもので、
「理由も根拠もなくただ受け入れることしかできない事実」の意味で用いられる。

ナマの事実がそれ以上基礎的な何かによっては説明されないような事実のこととするなら、
私が例とした「事実」は正に「ナマの事実」である。
しかし、「理由や根拠のある事実」も私のいう「事実」には違いがない。
この二つを分ける理由はどこにもないのである。

「理由」があるかないかと「事実」かどうかとは関係はない。
「理由」については別に記事にする予定である。

フィル・コウルター(Phil Coulter)

ゆったりと時が流れて 

浮かんでいる湖の島も 雲と一緒に流れている

桟橋と白鳥のシルエット

誰が乗り捨てたのか 一艘の小舟

私もこの舟で沖に出てみよう

 

トンビは悪いやつ

今朝、連休中の行楽地の映像がテレビで流れていたが、

バーべキュウの肉をトンビにさらわれている映像である。

トンビは人間を恐れることなく、人間が肉を口に運んでいるところを狙って、

肉をさらって行くのである。

トンビとは何とも悪い奴である。


それは違うでしょうね。トンビは人間を恐れているはずです。

トンビにとっては人間を恐れている場合ではないのだと思う。

生きるためにエサが必要なのである。

肉を取られた行楽客もトンビを許して笑っている。


そこで、ふっと自分も「トンビ」であることに気付く。

いろいろ私も生きるために食べているし、

日常をみても私は「悪いやつ」である。

トンビに免じてお許しください。


こんまり流片付け術「目的Ⅳ」(新版)

「目的Ⅲ」では自分と他人(社会)との関係について書きましたが、
ここでは自分と道具との関係について書きます。

人間は自分の目的を他人にお願いしてしてもらうほかに、
道具を使って目的を果たすこともできる。

今話題の「こんまり流片付け術」は、
これまで使ってきた道具の整理についての片づけ術なのだが、
もともとその道具にも人間の目的が付加されている。

一緒に目的を果たすために働いてきた道具であり、
当然、愛着もあり別れるのは人間と同じようにつらいことである。

こんまり流片付け術の近藤麻理恵さんは、
単に思い切って捨てるのではなくて、道具に「ありがとう」と感謝して捨てるという。
お世話になった人にお礼を言うようにして、道具も捨てるのである。

そうすることで、道具を片づけるだけではなく、
感謝の気持ちや想い出などの「心」の整理もしているのであり、
そこがこれまでの片付け術とは異なるところである。

「ときめきで決める」なんてキャッチフレーズだけを聞くと、
怪しげな片づけ術に聞こえるが、
一緒に目的を果たしてきた「仲間との別れ方」と考えると、納得ができる。

人間の目的は道具という物の中にも侵入して、
道具は人の「心」と結びついているのである。

以上は「21世紀は心の世紀」というブログの
「こんまり流片付け術で発見した事」という記事を参考にさせていただきました。

それでは、その「目的」自体はどこから来るのだろうか。
次の記事に移ります。


目的 Ⅴ↓へつづく、
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極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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