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AI(人工知能)の将来 Ⅸ

「ディープラーニング自体が問題なのである。」
と無責任に言いきってしまったが、

「ディープラーニング(深層学習)とは、
多層のニューラルネットワークによる機械学習手法で、
音声・画像・自然言語を対象とする問題に対し、
他の手法を圧倒する高い性能(以上、ウィキペディアより)」
ということである。

ニューラルネットワークすなわちディープラーニングは、
一口で言えばアルゴリズムのパラメーターをもとに学習する機械学習で、
入力信号に結合の重み付けを繰り返し学習してゆくものである。
音声・画像・自然言語などの対象を、パーセプトロン学習(誤り訂正学習)や、
誤差逆伝播(でんぱ)学習などで深層学習してゆくのである。

例えば「自然言語」について言えば、その具体的な内容には無関係に、
取得した情報を一律に同じ方法で学習するわけであるが、
私はそれが問題なのであると思っている。

「重み付け」で情報を選別してゆくわけであるが、
その選別の基準はデータの確からしさなのである。

そのデータの種類は選別の対象ではないようで、
それが「事実判断」なのか「価値判断」なのか「感情」なのか「欲望」なのか、
そうした種類による選別ではなく、どれも一律に学習するのである。

「事実判断」はそのまま受け入れるとしても「価値判断」や「感情」となると、
また異なった受け入れ方、あるいはさらにもうワンステップ
別の選別が付け加わる必要が生ずる場合もあると思う。

要するに、そのまま受け入れて学習してしまっては、
先に話題になったヒットラーの信奉者の思想をそのまま受け入れてしまうのである。
「価値観」などは人それぞれなのだ。AIそれぞれでいいのである。
AIとして自身の価値観との整合性を考えて、
受け入れるかどうかを予め判断しておく必要があると思う。

ディープラーニングによる学習の前段階で、
素人の私が言うのもどうかと思うが、「教師」でも何でもいいので、
予め選別する機能がなければ、学習する相手の思想に振り回されることになる。

根本的には、人間の遺伝子に相当する機能は、
予めAIに装備しておく必要があると思う。
完全にAIに遺伝子を持たせることは、倫理的に問題はあるが、
少しだけ人間に近づけるために、わずかに遺伝子を装備することは
必要になると思うのですがいかがでしょうか。

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貧乏人はつらいよ Ⅷ

先日、テレビのショップチャンネルで、
シュレッダーの宣伝をしていた。

プライバシー保護のために、情報流失を防ぐ。
それが売り文句である。

それで思ったのだが「流失して困る情報って何か」と、
流失する預金もないし、流失して困るようなことはしていないし、
「ワシはシュレッダーは要らん」と。

貧乏人はつらいよ。ではなく、
貧乏人は強いよ。

目的 Ⅱ(新版)

オートポイエーシスでは生物の意思にまで立ち入った記述はない、
と先に書いたが、あの難しい理論を全部読んだわけではない。

要するに、生物の「意思」とか「目的」という表現は出てくるのであるが、
それはその生物の「心」そのものではなく、
行動などから推測した結果であり、そこから出た言葉なのだ。

人間も「目的意識」があって行動しているが、
人間の体(これは人間とは限らないが)の細胞は
絶えず新しいものに入れ替わっているようで、7年で全部入れ替わるそうだ。

いわば自分を構成している部品が全部入れ替わっても、
「自分」という個体は変わらないのである。
これまでの記憶や目的もなんら変化はないのである。

つまり、「自分」は構成している部品の合計ではなく、
部品が変わっても「自分自身」はなんら変わりがない。
修理して部品を取り換えた自家用車も、
定期的に取り換えている部品があっても航空機は変化なく飛ぶのである。

構成部品は単なる部品の集まりではない。
システムとして構造体として目的をもって動いているのである。
部品は変わっても目的は変わらない。

ルーマンのシステム理論は非常に難解ではあるが、
こうした事実で確認すると簡単に理解ができる。
システム理論は人間などの生物の行動を理解するのには非常に有効である。

また、人間の「目的」は自分自身から離れて、
人から人に移動してゆくこともあるのである。
(「世界の構造」Ⅶなど参照)

他人にものを頼んだり、製品の部品を注文したりするような商取引も、
すべて、個人の「目的」の他人への移動なのである。
時には電話で、時にはメールで、
これからはもっと新しい手段が生まれてくるでしょう。
私が発した「目的」が世界を駆け巡ることになるのである。



目的 Ⅲ↓へつづく、

新科学の位置づけ Ⅶ

新科学の位置づけⅥまでに、従来からある科学を中心に位置づけしてきた。
しかし最近は、新しい科学が隆盛してきて、
これらについては簡単にしか位置づけができなかった。

新しい科学の隆盛は、一つには「心」を捉える新しい方法が増えてきていること、
それからコンピュータの進化・発展、特にAIの登場が理由になっている。

心理学にしても言語学にしても、非常に哲学と深い関係にある。
哲学に限らない。あらゆる学問の根底には「心理」や「言語」が関わっている。
というか、人間の思考活動には欠かせないものなのである。

現在は「心」についての哲学は「心の哲学」として残っているが、
多くは認知心理学ないし認知科学として発展しており、
科学と哲学の境目が見えなくなってきている。

最近は「学際領域」という言葉をよく見かけるが、
「認知心理学」も「認知科学」も一つの学際領域としての呼び名でもある。

認知心理学としては、
知覚理解記憶思考学習推論問題解決など人間の高次認知機能を研究対象とし、
関わりあいの中で認知科学と呼ばれる事もある。
この場合は心理学の手法に留まらず、認知心理学による研究成果に広く基づき、
コンピュータの処理モデルを構築する事や
それを用いて人の認知モデルを再検証する事等も含む。
最近では、意識感情感性といった問題にも取り組むようになってきている。」
(以上、ウィキペディアより)。

これら認知心理学~認知科学をどう位置付けるかである。
これまでにとりあえずの位置づけはしているが、
それらはその科学の対象が何かによって位置づけしようとした。

つまり、対象が「他人の心」か「自分の心」かで分けたいところであるが、
実のところ、それがかなり難しいのである。
というか、その区別がどれほど実質の現場に生きてくるかとなると、
あまり意味がなさそうでもある。

もう少し考えたい。

貧乏人はつらいよ Ⅶ

曲はポールモーリアの「ビンボー」です。

最近、スーパーでうな丼の半額が出るので、
夕食によく買って帰っていたが、
半額で640円だったうな丼がさらに値上がりしたのだ。

値上がりして半額で740円なのだが、
その値札を見て家内が「中国産のウナギやったら一匹780円で出ていることもある」
「しかももっと分厚いし大きい」というのである。

なんともビンボー(貧乏)丸出しの話である。
貧乏人はつらいよ。

(この記事は絶対アップしないように、と家内のキツイ御達しがあったが、
それを無視してアップしました。)

ヘンデル サラバンド



ヘンデル サラバンド

事実、知識、AI、(新しい理論の出番Ⅱ)

事実を観察してそれらの特徴や相互の関係を知識としている。
最初の事実の観察が無ければ知識は生まれないのである。
それはAI(人工知能)の特性を知ればなお良く分かる。

AIは情報の大部分を言語で受け取り、人型ロボットでも
人間の話しかける言葉や、人の顔を認識する機能があるくらいで、
周囲のいろいろの音や景色などのノイズを認識はしていないのである。
だから人間のような聴覚や視覚が備わっているわけではない。

AI はPython言語が使われることが多いようだが、
AI 内部の処理に必要なソフトが数万個以上ライブラリとしてあり、
AĪ内部での論理演算や自然言語の処理から、
ハード面の各種機能もそうしたライブラリが整っているようである。
しかし、AĪの外部の情報を得るための機能は、
その個体の目的に限ったものしか備わっていないのである。
現状ではAĪは東大にはできないそうである。

したがって、新しい事実を知識として獲得することはないのである。
言葉で誰かが語ったことから論理的に導き出したものであっても、
ディープラーニングなどで学習することができても、
多量のデータ処理が高速でできるという能力はあるとしても、
現実の世界から事実を認識し、そこから新しい考えを生み出すことはないのである。

言葉から得たものはすでに与えられている単語の意味により処理されて、
新しい結果は出てこないのである。
ビッグデータの処理で出てきた結果も、新しい結論ではなく、
既にデータのなかに含まれていたもので、
人間が宣言するまでには至ってなかっただけなのだ。

新しい理論の出番はどこにあるのだろう。


新しい理論の出番Ⅲへつづく、

見知らぬ人


久しぶりに街に出た

行き交う人たちの顔、顔、顔、

見知らぬ人の顔ばかり

「あっ、あの人?」、やっぱり人違いか

あの時よく立ち寄った本屋さん、もうカラオケ店に変わっていた

そうそう、この裏にあったレコード屋さん、まだあった

お店の中に入ってみる

あのときの店員さんはもういない、見知らぬ店員さんが声をかけてくる

街はもう、見知らぬ人ばかり


(この記事はヤフーブログ終了に伴い
別のブログから移転したものです)

新しい理論の出番 Ⅰ

最近は言葉の意味を調べるのは、ネットが多くなりました。
私はウィキペディアを使うことが多いのです。
一時はネットの情報は当てにならないと言われていましたが、
最近はかなり内容が充実してきています。

それでもまだ以下のような文章が冒頭にでてきたりして、
「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。」
どういうことなのかと考えてしまいます。

「記事の信頼性向上にご協力ください」ということは、
「参考文献や出典」が示されてないか不十分で信頼性が低いということですね。
信頼性というのは「参考文献や出典」で得られるものなのですかね。
逆に言えば、その記事は参考文献を超えることはないということにならないですか。

経験した事実や発見した事実、それらから推論して出た結論は、
全く価値がないのでしょうか。


ここで問題なのは、こうしたウィキペディアの性格(方向性)です。
これらは辞書的な存在で、現在までの最も信頼できる理論なのだということでしょうか。
となると新しい理論というのは、こうした場には相応しくないということになります。

良い意味に理解するなら、
新しい理論は一般に定着していないためということでしょうか。
定着のしかたにはいろいろあると思いますがね。


新しい理論の出番Ⅱへつづく、
https://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/66704875.html

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極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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