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心理学と言語学の位置づけ Ⅲ

学問で「位置づけ」と言えば、
何を対象にしているかというのは最初に思うところで、
「心理学」はその対象としては当然「心」があたる。

そしてその対象を捉える方法としては、
自分の「心」であれば、自分で分かるが他人の「心」は
その行動であるとか言葉などの感覚器官で観察できるものになる。

これまでは精神分析学が自分の「心」を(厳密には違うが)、
行動主義心理学が他人の「心」を対象としてきたが、
いずれも、発展することはなく、認知心理学に吸い込まれてきている。

認知心理学の方法としては、「実験」という言葉が浮かぶが、
認知科学の一分野として考えると、脳科学に代表されるような、
物理化学的な実験による検証が、その方法となっている。

この研究方法について、もう少し具体的に言えば、
内省で心を観察するとか、行動から心を推断するというようなものではなく、
脳からの微細な脳波や細胞間の科学的なやり取りなどの科学的変化を捉え、
それらの発信元(脳内の局所)を特定して、心にたどり着くという方法で、

「研究対象として脳内の分子構造から神経回路、認知・記憶・
学習の仕組み、健康と疾患等までを研究対象とし、
工学や計算理論、心理学までも含めた多彩な学問分野を背景にして、
学際的かつ融合的な研究を目指している。

近年では、分子や細胞といった微視的レベルを扱う神経生物学と、
認知や計算論のような巨視的レベルとをつなぐものとして
神経回路研究に焦点を当てている。」(以上ウィキペディア理化学研究所より)

こうした方法は「心」そのものを観察したものではないため、
どうしても、実験結果と心との関係が問題になる。
かつてのような隔たりはないにしても、絶えずそうした問題は付きまとう。

この方法の客観性について、あるいは何が事実に基づくものになるのか、
そのあたりの議論が見えてこないのは残念であるが、
最終的には、自分の「心」にたどり着かないと個人的には納得ができないのである。

クオリアでいうなら、実験結果をモニターに表示するというような、
他人のクオリアを自分でも確認できるようになれば、
もっと、この差は接近してくると思う。


心理学と言語学の位置づけⅣへつづく、
https://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/66694124.html

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哲学は役に立つか Ⅱ

「哲学は役に立つかⅠ」で、
哲学というのは「この世界はどういう世界か」を探求するもので、
だから哲学は役に立たないと結論した。

一般的には「役に立つ」とは、仕事の助けになるとか、
勉強が上達するとか、国が繁栄するとか、会社が再建できるとか、
とりあえず、順調に前へ進む力になることが
「役に立つ」ということのように受け取られている。

しかし、いつでも順調に前に進むときばかりではないのである。
会社が倒産することもあれば、受験に失敗することもある。
病気に倒れて働けなくなることもあるし、生きる気力を失うこともある。

こうしたときに、ふと振り返って、世界について、人生について考えることがある。
そういうときに「この世界はどういう世界か」を考え、
「生きるとはどういうことか」を考える。それが哲学である。

必ずしも「順調な歩み」とは限らないし、
立ち止まって考え、時には後退しながらも考える。
そんなときに哲学は「役に立つ」のである、と言いたいところだが、
そんなときでも役に立たないこともあるから問題なのだ。

決して科学の発展のために役立つことはないにしても、
必ずしも「哲学」という意識があるとは限らないが、
長い人生の間には哲学が役立つこともあるのである。


哲学は役に立つか Ⅲにつづく、

Libertango - Yuja Wang & Martin Grubinger


Libertango - Yuja Wang & Martin Grubinger
- Tel Aviv israel december 2016  

哲学は役に立つか Ⅰ

今、認知心理学を調べていて、
「科学哲学は科学には何の役にも立たない」という文章を目にした。
そこで考えたのですが「果たして哲学は役に立たなければならないのか」と。

現実の世界があって、人間はその世界で生きている。
「哲学が役に立つ」ということはこの世界の動きに何か変化を与えられるか、
ということではないのか。

先の「科学に役に立つ」と言えるためには、それこそ科学の新しい法則を生み出すか、
さもなくば、法則に変化を与えられるかである。
もし、それが「役に立つ」ということであるなら、おそらく哲学は役には立たないものだ。

哲学が未熟であるために役に立たないのではなく、
哲学というのは「この世界はどういう世界か」を探求するもので、
この世界をそのままの形で理解するものだからである。

だから科学もそのまま理解するだけで、付け加えることはないのである。
それを「役に立たない」というなら、確かにそうなのである。

この意見には異論があると思う。この世界を変えようとする考えもあるからで、
そうしたご意見は大歓迎です。


哲学は役に立つか Ⅱへつづく、

マーク・ノップラー

Mark Knopfler - Going Home: Theme of the Local Hero
 (A Night In London | Official Live Video) 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マーク・ノップラー
マーク・ノップラー OBE(Mark Freuder Knopfler OBE, 1949年8月12日 - )は、
ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第27位、2011年の改訂版では第44位。
音楽的にはボブ・ディランJ・J・ケイルハンク・マーヴィン等から強い影響を受けている 

貧乏人はつらいよ Ⅴ

本日、車屋さんから封書が届きました。
私はてっきり請求書が届いたものと勘違いして、
「まだ何か支払っていないお金があったのか」と思って、封を切ったところ
「ご購入御礼」というお礼の手紙が入っていました。

実は、先日車を乗り換えたのです。
凄く快適で気に入っているのですが、それが中古車で
まさかお礼の手紙を頂くとは思いもしなかったのです。

お礼を頂くほどの買い物でもなく、
苦笑しているところです。

貧乏人はつらいよ。

心理学と言語学の位置づけ Ⅱ

心理学にしても言語学にしても、非常に哲学と深い関係にある。
哲学に限らない。あらゆる学問の根底には「心理」や「言語」が関わっている。
というか、人間の思考活動には欠かせないものなのである。

学問をするのは「心」であり、それを人に知らせるのは「言葉」なのだ。
その「心」=「心理学」、「言葉」=「言語学」なのだ。
それらを抜きにしては学問はあり得ない。

私が構築した「世界の構造」の中に
「心理」や「言語」がどういう形で組み込まれているか、その話から始めることにする。
まずは下の図Ⅲを見てほしい。



世界を構成している部品の中には「心理」や「言語」という言葉は入っていないが、
「心」という部品は入れている。さらに「記憶」と「演算」という機能も。
この「心」「記憶」「演算」の中に「心理」は含まれている。

そしてこの「心」「記憶」「演算」は「自分」の中にあるが、
この「自分」というのが、この「世界の構造」の中にもう一つある。
それは外界の「社会」の中に小さく書いてある「自分」である。


最初に挙げた「自分」は「外界」と分けたときの「自分」で、
これが本来の「自分」である。
これに対して、もう一つの社会の中にある「自分」は、
上の「自分」から見たときは「他人」になる人間である。

本来の「自分」は直接「心」を感じることができるが、
もう一つの「他人」の「心」は直接感じることはできない。
当然ながら、この二つは違った方法で「心」を観察しなければならない。
このあたりまでは、これまでの記事でも触れてきていた。
しかし、その内容は現在大きく変化しているようなので、訂正が必要なようである。


それから言語学はソシュールとチョムスキーくらいしか詳しくは知らなかった。
それに私の関心のある領域からずれる項目が多くて、興味が湧かないのである。
しかし、最近「何々言語学」というのが増えてきて、
この際、勉強のし直しをしたいと思ってる。


心理学と言語学の位置づけⅢへつづく、


貧乏人はつらいよ Ⅳ

リサイクルショップでジーパンを500円で買ってきた。
いつも胴回りの寸法が合わずに失敗ばかりしていますが、
今回は合格でした。

ただ、丈が長いので「ハサミで切るわ」と言ったら、
家内が「そんなん寸法直しに出しても2000円くらいでやってくれる」
「安いもんやで」と寸法直しに出すようにと勧めるのである。

500円のジーパンを2000円で寸法直し、
考えるまでもなく、即ハサミでジーパンを切断した。

貧乏人はつらいよ。

心理学と言語学の位置づけ Ⅰ

認知心理学は、情報処理の観点から生体の認知活動を研究する
学問である。(Wikipediaより)

私が哲学をカジッていたころには、
心理学も言語学もまだまだ未開の学問で、どこへ分類するかにしても、
人文科学、社会科学、自然科学など、なかなか定まらなかった。

かと言って現在はしっかり位置づけされているかと言うとそうではなく、
かと言って未開のままかというとそれどころか、
非常に多くの分野に発展していて、また違った意味で混乱してきている。

冒頭で「認知心理学」というのを出しましたが、
認知心理学は哲学に取って代わるのではないか思えるほどの勢いで拡大してきており、
従来の哲学とは違って少しは科学的になってきているようである。


そこで、この心理学と言語学の位置づけを試みてみたい。
そんなことをここで書いても、見てくれる人はないと思うが、
私にとっては宣言することに意味があるのだ。

これは私には、とてつもなく大きな課題である。
できるかどうか、その先を考えると「止めとけ」という言葉が聞こえるが、
こうして宣言することで、
少しは意欲も湧いてくるのではないかと思っている。


心理学と言語学の位置づけⅡへつづく、
https://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/66685823.html

ボトムアップ処理とトップダウン処理

認知心理学につて調べていたところ
ボトムアップ処理とトップダウン処理という言葉が出てきました。
この二つの処理方法は全く逆の方法で、初めて聞く言葉でしたが、
私が「私の哲学の方法」で述べた
従来の哲学の方法と私の哲学の方法の比較がすぐに頭に浮かんで来た。
従来の方法と私の方法も全く逆の方法だからである。

ボトムアップ処理とというのは、の違いについて、
具体的にソフトウェア工学での例で説明すると、
(ここでは「処理」=「設計」と表現されているが同じである)

「トップダウン設計は、段階的に詳細にしていく設計技法である。
最初にシステム全体を定式化し、その時点では個々の詳細には立ち入らない。
その後、システムの個々の部分の設計を段階的に詳細化していく。
最終段階では、実装に移せるまで詳細化する。
内部構造に立ち入らずに設計を行っている段階では、
各部分をブラックボックスとして扱う。

これに対してボトムアップ設計では、
最初にシステムを構成する個々の部品を細部まで設計する。
そして部品群を組み合わせてより大きな部分を作っていき、
最終的にシステム全体が構成される。」(以上、ウィキペディアより)

トップダウン処理というのは全体を一つのシステムとして捉え、
そのシステムに個をはめ込んでゆく方法である。
私の哲学の方法はまず一つの全体を分けて行き、
分けて出た部品は捨てることなくシステムを構成するのである。

ボトムアップ処理というのは端的に言えば、部品を一個一個積み上げて行く方法で、
従来の哲学の方法というのも個々を積み上げる方式である。
ボトムアップ処理と従来の哲学の方法との違うところは、
ボトムアップ処理はすべての個を積み上げ、それぞれの個を位置づけするが、
従来の哲学の方法は確かな個だけを拾い上げて、他は捨て去るのである。

実際のコンピュータの仕事での経験では
ボトムアップ処理とトップダウン処理をはっきり分けて使う必要はなく、
二つを組み合わせて仕上げて行くのが普通である。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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