FC2ブログ

新、心の構造 Ⅳ

心の状態を表す言葉として先に代表的な用言挙げてきた。
しかし、それらだけでは複雑な心の状態を表すのには十分ではない。
特に文学的な表現となるとそれこそ作者の創作で生まれる言葉もある。

そんなときの工夫として、物の状態を表す言葉を借りてくる方法がある。
例えば「心が弾む」「心が沈む」「心が躍る」などという表現である。
「弾む」とか「沈む」とか「躍る」という言葉は、物の状態を表す用言であるが、
それでもなんとなく心の状態を推し量ることはできる。
見えない心を可視的な言葉で置き換えることで、より解り易くしている。

上の例で言えば、心の種類としては「感情」になるが、
ある種の価値判断なども可視的な言葉で置き換えることも可能である。

社会の状態を表す言葉も、物の状態を表す言葉を使うことが多い。
例えば「会議を開く」「会議を閉じる」「会議が流れる」などという表現である。
考えてみれば不思議な表現である。

開いたり閉じたりするのは心もそうで、ドアだけではない。
心を開いたり閉じたりするときは、相手に心を見せるか見せないかの行為で、
何を見せるか語られていない状態で、まだ心が見えていないので
先に挙げた八つの心の種類には入ってないのであるが、
こういう場合の表現にも借り物の言葉で表現できる。

会議も心も時には「流れる」こともある。
これも社会の状態という分かりにくいものを、
分かり易い可視的な物の状態を表す用言に置き換えているのである。

日常こうした表現は頻繁に使う。
だいたい物の状態を表す動詞や形容詞は、心の状態を表す言葉として使えるが、
ここで注意しなければならないのは、あくまでも借り物であるということである。

心(あるいは社会)の状態と物の状態は完全に一致しているわけではない。
物の状態を表しているときには通用することでも、心にも通用するとは限らない。
あくまでも一致している部分だけを借りて使用しているのである。
それを全部一致していると勘違いして使用すると、
大きな間違いを犯してしまうので注意が必要である。

一つ例を挙げれば、先に「会議が流れる」をさらに「心が流れる」とも使ったが、
これなどはちょっと危険な使い方になる可能性がある。


この記事は2006年6月3日に投稿したものを加筆・訂正して再投稿したものである。



新、心の構造Ⅴへつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1421.html

スポンサーサイト

Eye TV


Eye TV - One Day Ahead

凡人の条件

「凡人」を辞書で引くと「普通の人」とあります。
私はもっと厳密に規定して、こうありたいと願っています。

①、知識が乏しいこと、
②、プライドを持たないこと、
③、貧乏であること、
④、素朴であること、
⑤、難しい言葉は使わないこと、

以上5点を凡人の条件として規定し、ブログをしています。
時にははみ出すこともありますが、ちょっとした間違いです。



  この記事は2006/12/1に書いたものを再投稿したものです。

シチリアーナ


「シチリアーナ」としてレスピーギが
「リュートのための古風な舞曲とアリア」のなかで使用 しています。
 リュート演奏:永田平八
(YouTubeの解説より)

日常から科学へ Ⅵ


人の話や本などから教わることは過去の遺産を引き継ぐこととして
その重要性もどこかで書いている。

自分で直接事実確認できてないもの、本で読んだものなどは
そこに書かれているものを信じるか信じないかの問題である。

ボケかけた私の記憶をひっくり返して物理学や化学の基礎を語るより、
実際の例で分かってもらう方が分かりやすいと思うが、
STAP細胞の論文が話題になったのは、論文に書かれた通りに実験しても、
STAP細胞を作り出すことができなかったことである。
つまり、論文の真偽は再現が可能かどうかに掛かっているのである。


物理学や化学の歴史を見たら分かるが、多くの論文が書かれ、
その中で極わずかの論文だけが検証に耐えて現在まで残っているのであるが、
その極わずかな論文で現在の物理学の体系が出来上がっている。
その他の多くの論文のほとんどのものは忘れ去られているのである。

現在も残っている物理学は、いつでも誰でも定められた方法で実験すれば
誰でもその事実を体験することができるのである。
だから、物理学や化学は信じるに足るものなのである。
これらの過去の遺産を知識として学ぶことで、
無駄な時間を費やすることがなくなるのである。


もちろん、最先端の物理学や化学では、まだ未完のものもあるが。


(事実を語る、より移転)

貧乏人はつらいよ Ⅲ

京都市では高齢者用に病院前などに無料の駐車スペースが設けられている。
これは高齢者名で駐車ができるのではなく、車に与えられているのである。

したがって、駐車した車の登録番号と同じ番号が書かれた許可証が必要なのだ。
ところが車はいつまでも同じ車に乗っているとは限らず、
乗り換えると許可証と番号が違ってくるのだ。
だから、乗り換えるたびに許可証を書き換えないといけないのである。

本日、レストランで家内と二人で昼食を食べるのに、
病院前の駐車場に駐車し、許可証を掲示しておいたのだが、
食事から戻って見ると「駐車違反」のステッカーが貼られていたのだ。

「違反」と言えば許可証に書かれている車両登録番号と
駐車している車の登録番号が違うことである。
私は絶えず車を乗り換えるので、いちいち許可証を書き換えないのだ。

慌てて許可証を書き換えをして駐車違反のステッカーの署に行った。
そして事情を説明したが「駐車違反は駐車違反だ」と許されず、
やむを得ず、違反金17000円を納付してきた。

警察を出るときに「私は駐車違反はしていない。
許可証を書き換えを忘れていただけだ」と言って出てきた。
免許証不携帯と大差ないと思っている。

それにしても、違反金17000円は痛い。
貧乏人はつらいよ。

白い道 ビバルディ四季冬第二楽章より


『白い道』 海野洋司作詞・ヴィヴァルディ作曲

貧乏人はつらいよ Ⅱ

二・三日前にテレビで宝くじの話が出ていた。
宝くじの高額当選者が良く出る全国の店で、
十万円ずつ宝くじを二人が買うのであるが、
これ、宝くじを買わなくても二十万円のお金があるわけだ。
さらにそれを全国の人気店でやるのだから、掛ける二十万円になる。

私もたまに宝くじ買うが、最近は買わなくなった。
その理由は宝くじを買うより買わなくてはならないものがあるのだ。
つまり、宝くじを買うお金がないということだ。

以前に「宝くじは夢を買うもの」という記事を書きましたが、
その夢も買えないということだ。

貧乏人はつらいよ。

新、何が「事実」か Ⅵ

ここまで、どういう場合を「事実」と判断するかを書いてきた。
しかし、その「事実」というのは自分が一度だけ経験しただけでは
誰もそれを「事実」とは認めないものである。

例えば、よくある話でいうなら「UFO」とか「幽霊」とかがそれである。
私の哲学の中に出てくるものでは「悟り」がそれである。
こういう時に少しでも認めてもらうためにする方法の一つが、
どうしたらその「事実」を体験できるか、その方法を示すことである。

物理学や化学の論文なども、最初はその論文を書いた人か、
その周辺のごく一部の人しかその事実を知らないのである。
そして、論文発表後にその論文に書かれている方法で「事実」を確認されてゆくのである。

しかし、それもできないことがある。
例えば、アインシュタインの相対性理論などの理論物理学で出てくる論文などは、
どういう方法で事実を確認できるかが書かれているとは限らない。

理論物理学という名前の通り、理論的に論理的に
「こうでなければならない」「こうであるはずだ」と結論されたものだからである。
もちろん、最終的には検証されて「事実」であることの確認が必要である。


私の「悟り」の話で言えば、
実は、「力」=「欲.」が、観る対象の価値を歪めているのである。
もともと対象には価値などはないが、欲の目を通してみると価値が有ったり無かったり、
だから自分を苦しめているのは欲なのである。

それならばとその原因となっている「力」=「欲.」を取り去れば、
生老病死の苦から逃れられるはずで、「力」や「欲.」を取り去るために
内省や瞑想や座禅や禁欲や、時には滝に打たれたりして修行するのである。
言わば、そうすれば「悟り」を「事実」として確認できるということである。

しかし、実を言うとそうした修業は「悟る」ためには何の役にも立っていないのである。
むしろそれらが無駄な事であることを知るためにしているようなものなのである。
つまり、「力」=「欲.」を取り去るのに自分の「力」使っているのである。

矛盾している。自分が座っている座布団を
座ったまま自分で取ろうとしているようなものである。
そのことに気付くことが必要なのである。
自分ではどうにもならないことに気付くことが必要なのである。
そして、すべてをあきらめた時に仏の力で「悟る」のである。
これが自分の力ではなく「他力本願」と言われるものなのである。


何が「事実」か Ⅶへつづく、

新、何が「事実」か Ⅴ

人間は生まれたときから親など誰かに育てられて成長する。
何が成長するかといえば、体と頭脳である。
それは「事実」と誰も認められると思う。

成長して体(力)を使って何かができるようになる。
それは自分の可能性が成長することでもあり、
その可能性で自分の欲望を満たすことができる。これも「事実」である。

その可能性で「あれをしよう、これをしよう」と夢が芽生える。
このようにして未来が生まれ「時間」の感覚が生まれてくる。
それらも「事実」である。

大事なことは「力」と「時間」の関係である。
生まれたときには何の力もなかったことも「事実」であるし、
成長するにつれて「力」を獲得してゆくことも「事実」である。
その「力」が何かにとどく範囲が可能性の範囲である。
この可能性の範囲が「時間」の巾でもある。
これが「時間」という概念の生まれた瞬間である。これも「事実」である。

ここに挙げた「時間」は未来の時間であるが、
過去の時間は「新、何が「事実」かⅢ」で述べた「記憶」の中にある。
いずれも現在の自分のなかにあるものである。

人間の生きる目的はこの未来に向かうことなのだ。
そしてその目的を背後から押しているのが、
「あれが欲しい。これも欲しい」という欲望なのである。

考えてみれば「感情」というのは欲望につながっている。
「新、何が「事実」かⅡ」で述べた「青い空は気持ちがいい」
「笛の音はさわやかだ」「この臭いは耐えられない」
「この味は好きな味だ」「この肌触りは心地いい」というその人の感情、
また「胃が痛い」や「頭が痛い」「気分が悪い」という感情、
これらは積極的に求めるか、積極的に避けるか、
とりあえず「力」に直結して行動に結びついているのである。


新、何が「事実」かⅥへつづく、
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
ブロとも一覧
月別アーカイブ