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発達障害 Ⅱ

かなり以前に「何でもかんでも病気にするな」
というような趣旨の記事を書いたことがありますが、
そのころから「個性」と「病気」の区別が必要と思っていたようです。

「特に手が掛かる」というのが「障害」とする理由のようですが、
それは昔から手のかかる子供(人)はいたし、
親や先生は大変だったかもしれないが、
現在ほどには気にかけられずに育っていたように思います。
そのまま放任されていて、そのまま社会に出ることもありました。

人の性格というのはいろいろの個性があって、
みんな一緒ではないのですが、
最近は「みんな一緒にしなければならない」かのような
教育の仕方が目立ってきています。

なぜ一緒にそろえなくてはならないのか疑問に思いますが、
それは親の希望なのでしょうか。
人より劣っているというのは親としては許せないのでしょうね。

しかし、性格というのは良いか悪いかは裏表で、
その性格の良い面というのは必ずあるものです。
それを伸ばすという考えには至らないのでしょうか。

とりあえず「障害」という言葉は使ってほしくないですね。
「この子はこれが苦手なんです」「私はこれができないのです」
それは「個性」ですよ。

私の「個性」ですか。寡黙です。落ち着いて静かなのはいいのですが、
見ようによっては鬱陶しい人間です。よろしく。


発達障害Ⅲへつづく、
https://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/66625938.html

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発達障害 Ⅰ

最近「発達障害」という言葉がテレビなどでよく登場する。
聞いていると社会生活に影響するほどの適応障害のことのようです。

考えてみれば誰にでも得意不得意というのはあるわけで、
それは「個性」でもあるわけですが、それが本人にとっては苦痛であったり、
社会からすれば多少面倒な人間だったりするのです。

それを「発達障害」と名付けているのですが、「障害」というのはどうでしょう。
子供のころは「あれが苦手だった」とか「これができなかった」というものが、
今は思い出話として話をすることは普通にあることです。

子供のころの苦手は徐々に克服して
大人になるころは「障害」ではなくなっていることが多かったと記憶しています。
年を取って性格が丸くなるのはそのためだと思っています。

ところが、最近は大人になってから発症するのだそうです。
いろいろの種類の「発達障害」があるようで、
聞いていると、「自分も障害者だ」と思えるような話が出てきます。

これから自分の「障害??」の話をしてみます。

バッハ ・ フルートソナタ E Minor


バッハ ・ フルートソナタ E Minor

年寄りはつらいよ ⒗

一年に一回受けている人間ドックで
毎年、心電図の異常が出る。
そして、精密検査の指示がつてい来るのです。

最初、何回かはまじめに精密検査を受けていましたが、
いつも「心電図が異常でも実際は異常はありません」で、
その内、精密検査は受けなくなりました。

現実にも何の症状もないし、あまり気にはしていないのですが、
最近はたまには精密検査も受けるようになりました。

今回は不整脈の異常で精密検査を受け、
不整脈を抑える薬とニトロの処方を受けました。

薬局で、薬を受け取るとき「胸の痛みがあるのですか」とか質問があって、
私は「何もないのです」と返事をし、
「ときどき脈が乱れますか」と聞かれて、
私は「何もないのです」と返事するのですが、
「なぜニトロが出ているのですか」と聞かれて、
私は「念のためだと思う」と返事したのです。

薬剤師さんは薬の説明がしたかったようですが、
私が「何もない」と言うものですから、困った様子でした。
何か悪い気がして、私は「すいません」と謝って薬を受け取ってきました。

年寄りはつらいよ。

エドワード・エルガー

世界の構造 Ⅴ

これまでに「世界の構造ⅠⅡⅢⅣ」で、
自分を感覚器官、行動器官、記憶機能、演算機能、
生命維持器官、心、の六つに分け、
自分以外の外界を自然、社会、道具の三つに分けて、合計で九つに分けた。

これら九つは平面的に並んであるのではなく、
互いに関係しあって動いているのである。
その関係を図示したのが、下の図Ⅲである。

    図Ⅲ



この図Ⅲは世界を構造体として捉えたもので、一つの系(システム)を形成している。
「あるシステムは、その部分の算術的総和以上のものである」という
ホーリズムの考え方があるが、もっと分かり易い例で言うと、
ゲシュタルト心理学で知られるウェルトハイマーが例とした
「音楽のメロディーは個々の音の総和ではない」 という考え方である。

個々の総和に何かプラスされるものがあるということである。
個々の音を聴いてもメロディーにはならないが、
ある音から次の音へ移って行くときにメロディーが生まれてくるのだ。

図Ⅲの「世界の構造」をシステムとしてみたとき、何がプラスされているのか、
個々にはなかったものとしては、「目的」がある。
人間の意思が次の機能や次の誰かに移って行くのである。
言い方を替えると何らかの「目的」が移動しているのである。


具体的には、たとえば、朝、目を覚ます。
太陽の光が差し込んでいることが「感覚器官」⑫で感じられる。
今日はいい天気だと「心」②で判断し、「今日は公園に出かけよう」と「心」①で判断する。
そして「行動器官」⑨で公園に出かける。
公園では木々などの「自然」を「感覚器官」⑫で感じて「心」②をリフレッシュする。
全体としてみたとき、この流れには「心身をリフレッシュする」という「目的」が流れている。

何か買い物に出かけたときの流れなら、まずは「心」で、
価値判断や感情や欲望に基づいて、買いたいものを決め、行動器官②に伝達する。
そして車という道具⑪に乗ってスーパーマーケットに行く。
もちろんこの流れは「買い物」という「目的」が流れている。

この流れは大まかな流れで、実際はもっと複雑である。
車に乗るにしてもその前段階で視覚で当然車を確認⑭するだろうし、
運転中も道路の状況や景色などあらゆる視覚情報を受け入れ、
それに適切に反応するように心で判断し行動器官で⑪運転する。
会社という「社会」では、電話という「道具」で⑳得意先という「社会」に注文し、
時にはどちらが安いか「演算機能」で⑤計算もする。
その時、計算機という「道具」を使う⑪ことも有るのだ。

もっと大きな流れもある。
例えば、企業などはある「目的」のもとに複数の人間(自分)が集まり、
分業して仕事をしている。さらに他の企業とも取引して「目的」を果たそうとする。
その広がりは、その地域にとどまらず、世界中にも広がって行く。
こうした人間行動も、一つ一つの「自分」がつながり合って動いているのである。
こうした当たり前の日常が構造的にシステムとして備わっているのである。

このように人間行動をシステムとして捉えると、
その底に「目的」が流れて動いていることが分かってくる。

人間の日常を抜きにしては、その本質を逃してしまう。
現実の私たちの生活がこんなものであることには違いはないのだから、
それを捨て去ってしまってはいかなる哲学も創る意味がないと思う。


世界の構造Ⅵ↓へつづく、

Close My Eyes Forever


Lita Ford Duet With Ozzy Osbourne ‎– Close My Eyes Forever (Remix)
レーベル:
RCA ‎– 8899-7-R, Dreamland Records ‎– 8899-7-R, BMG ‎– 8899-7-R
シリーズ:
フォーマット:
Vinyl, 7", 45 RPM, Single
国・地域:
リリース済み:
ジャンル:
スタイル:

プライバシー

毎日、誰かと話はしているもので、
私ならカミさんとブログでコメントしてくれた人くらいが話し相手です。
他には、宅配便の兄ちゃんとスーパーの店員さんと、
事務的な話をするくらいのものです。

普通の方はもっと広い範囲の方と話をされていると思いますが、
話をする相手によって同じことでも話し方は違ってくると思います。
つまり、「ここだけの話」とか「内緒の話」は誰にでも言えないし、
言う場合でもその言い方は相手によって工夫して伝えます。

家族には言えても向かいのオバサンには言えないこともあると思いますが、
そんなことがオバサンの口から知っているような口ぶりで出てきたら、
どんな気持ちになりますか。
「伝わる訳ないよな」と思って収めることが多いでしょうね。

ところが、そんなことがあちこちで起こり始めるとあなたはどうしますか。
自分の精神を疑うか、自分の取りまきの人間を疑うか、
そうですね。誰も疑わないというのも選択肢に入りますね。

そのままを受け入れるという選択肢ですね。
自分にやましいことが無ければ、この選択肢は有りだと思います。
そうそう、忘れてました。この記事は「プライバシー」というタイトルでしたね。

年寄りはつらいよ ⒖

ちょっと遠方に買い物に出かけたときのことです。
遠方で道が不案内でどこで左折したらいいか迷いながら走行していました。
ところが「これは行き過ぎた」と分かる地点まで来たとき、
カミさんが怒り出したのです。

私が「このくらいの事でそんなに怒ることはないやろ」と言い返し、
すったもんだの末にカミさんは「自分が道を間違えたのに謝ってない」と言うのです。
そして謝ってもフザケタ謝り方で、謝っているとは思えないというのです。

そのときカミさんは具体的な私の言い方を真似たのですが、
それを聞いて私は「ホンマに謝っているかどうか分からないな、その言い方」と言うと
カミさんはやっと機嫌を直しました。

それでそのことを記事にしようと思ったのですが、どうしても私の言い方が思い出せず
カミさんに聞いたところ、カミさんも思い出せないというのです。

年寄りはつらいよ。

目的 Ⅷ(移動)

「目的」が積極的に生きることから、
その終末へ向かっての生きながらえることが対象になってくる。
若い時は前向きに「目的」が見えるが、
ここまでくると「目的」が後ろ向きになってくる。
後ろ向きな「目的」、それは迷いの心である。

そういう迷いからの脱却が課題になってくる。
「目的Ⅵ」でも書いたように、日常に紛れていると忘れていることもあり、
たまに振り向くくらいで通り過ぎている。

この脱却をどれだけ真剣に考えるかで取る行動にも違いが出てくる。
もちろん、大きな借金で悩んでいる人も、命に関わる病で悩んでいる人もである。
人によっては、自ら命を絶つことで悩みを消し去ろうとするが、
宗教は、悩みの原因を自らの心の中に見出し、それを取り去ろうとする。

これまで述べてきた事実から、すべての悩みの原因は、
獲得した力にあることが分かるが、宗教は表現はいろいろだがその力を取り去ることを勧める。
そして、その力を取り去るために瞑想や禁欲的な修行などをする。

無理やりに欲望を封じ込めて耐えることで取り去ろうとする。
宗教の最終目的は、自分の心から欲望をそぎ落とすことである。
そのそぎ落とされた状態が悟ったと言われる状況なのである。

悟った人の話では、欲望がなくなったので対象の見え方が変わったとのことで、
これまでは欲望の対象として見ていて、見方が相対的であったが、
悟ったときはそれらが絶対的な姿として見えてくる、とのことである。
「死」についても同じで怖い対象ではなくなるとのことである。

もちろん人間である以上は、生きるために完全に欲望を取り去ることはできない。
取り去ることはできなくとも、心は生まれたばかりの状態になるのである。
その心の状態をいつまでも維持するために、祈りの時を持ち、内省の時を持つが、
日常生活の内に、徐々に相対的世界に戻って来るとのことである。

ここまで、宗教という言葉で仏教での悟り方を述べてきたが、
キリスト教などにおいても、例えば「欲望」を「罪」と言うなど、
形は違っても心の在り方を問題とし、自分を捨てて主イエスキリストに使える、
基本的な部分は同じことを心に求めていると判断できる。
異なることろは、日常生活の仕方を規定している派生的な部分である。


目的 Ⅸへつづく、
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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