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世界の構造 Ⅹ

ここまでは私の「世界の構造」について述べてきた。
この「世界の構造」は「構造」という言葉の通り、システムを意味しており、
あらゆるシステムについても通用することなのである。

一つ例を挙げると、自動車を例に考えてみよう。

自動車は沢山の部品からできている。
そしてその組み立てられた部品は物理法則にしたがって運動する。
しかし、自動車は右にも左にも自由に動く。

つまり、自動車は個々の部品の動きの総計ではなく、
一つのシステム(構造体)として運動しており、
個々の部品の動きの総計に、何かがプラスされたとみてよいと思う。
このプラスされた何かというのは、いったい何なのだろうか。

自動車は速く楽に目的地に行くための道具である。
しかし、個々の部品にはこの自動車としての役割は含まれていない。
自動車として出来上がったときに付け加わるものである。
これがプラスされた何かである。

それでは誰がそれをブラスしたのだろうか。
それはその自動車を設計した人である。そしてそれを運転する人である。
(以上、2005/8/18(木)に投稿した「未来は決まっているか(決定論)」の一部である)


人間は誰が「目的」をプラスしてくれたか考えるのは置いておいて、
システム(構造体)として「目的」がプラスされて生きていることを受け入れて、
未来は決まっていないと思っている。

一方で、人間を含む生物の科学は遺伝子情報を操作するまでに発達し
化学的に処理が可能な状況が生まれてくると、
人間行動もすべて物理学的(化学的)に処理できて、
行動分析や意味づけも物の変化として捉えられると考えたくなる。

それでも、化学で学んだ化学変化や物理学で学んだ電気信号と
工学で学んだショベルカーのアームの動きの間に、
どういうつながりがあるのか、すっきりした関係が浮かんでこないのだ。

確かに、ボタン一つを押せば動くし、レバーを回せばショベルは動く。
先の自動車を含むこれらの道具も人間の「目的」に従って動いているわけで、
システム論で解釈すると上手く説明ができそうである。

人間行動の意味づけは、その「目的」によってなされる。
そしてその行動のパターンは「世界の構造」で理解が可能なのだ。


「世界の構造」はこの「Ⅹ」で完結とするが、
以降は、「目的」はどこから来るのかその問題を、
書きかけの「目的」のシリーズに引き継ぐこととした。

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年寄りはつらいよ Ⅻ

ウチのカミさんの仕事の手伝いで、車の運転をよくしますが、
よく運転の仕方について注意されます。
「前から人が歩いて来たはるえ」と注意を喚起してくれるのだが、
そんなときは「ワシは目くらとちがで」「ちゃんと見えてる」と返事をする。

まあ、この程度は問題ないのですが、
「あ、危ない!!」とか「自転車危ないで」とか大きな声で言われると、
どうしたらいいのか分からず、気持ちだけが焦るのです。

運転しながら、自分なりに状況を判断し、安全運転していると思っているし、
危険は避けたい気持ちは当然あります。
しかし、声だけで「危ない」と言われてもどう危ないのか分からず、
当然どうしていいかも分からないので、かえって危険な状況が生まれます。

だから私は「何も言うな」と言うのですが、なかなか分かってもらえません。

年寄りはつらいよ。

世界の構造 Ⅵ

システム論は、部分部分をバラバラに理解していても
世界全体の振る舞いを理解できるものではないという。
部分や要素の理解だけではシステム全体が理解できず、
システム論は全体の大きな流れの中で理解するものである。

この「世界の構造Ⅵ」では、「目的」のさらにダイナミックな動きをとらえる。
実は、人間は「世界の構造Ⅴ」で述べたような
自分だけの世界で動きが終わっていることはまれないのである。

人間は他の人と共同して社会を作り、その社会として活動していることが多い。
自分で何もかもするのではなく、他人の力を借りたり、
自分も他人に力を貸したり、そのようにして社会を作る。
それを可能にしているのが「目的」のやり取りである。

哲学者自身の哲学する姿勢は、自分の世界だけで終わっていることが多く、
他人の力を借りるなんてことは、実生活ではあるのだろうが、
哲学によってはほとんど他人は登場することがなかったりする。


例えば、食事で牛乳が欲しくなって「冷蔵庫から牛乳持ってきて」
と妻に頼んで持ってきてもらうというようなことがある。
牛乳を取りに行くという「目的」を私に代わって妻がして、
牛乳が私に届いてからはまた私がカップに牛乳を注ぐなどして
私の「目的」に戻ってくる。二人の人間で一つの「目的」が達成されたのである。

会社は会社で得意先と取引して仕入れたり納品したり、
すべて何かの「目的」のために動いているわけだが、
最終目的が洋服を作ることだったとしても、いくつもの会社が関わり、
ある会社は洋服を入れる箱を作ることだけかもしれないのだ。

これらの過程でどれだけの人が関わっているだろう。
そしてそれぞれの人の「自分」がそこにいる。
まるで宇宙に浮かぶ島宇宙のようにある。
そして世界はこの一人一人の島宇宙が連携して
システムとして構造体としてダイナミックに動いているのである。

分けられた世界は単にあるのではなく、
「目的」という人間の意思が、
ダイナミックな動きの中に関連してあるのである。



世界の構造Ⅶ↓ へつづく、
https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-998.html

 2015/10/24(土)に投稿した記事を加筆・訂正して再投稿したものである。

今日までのブログを振り返って  Ⅴ

今日までのブログを振り返って
過去記事のチェックをしている段階で
「世界の構造」とシステム論の関係について
ほとんど触れていないことに気付きました。

それで新しく記事を書くつもりで用意をしていたのですが、
過去記事の中にシステム論を組み込む方が
過去記事が生きてくることに気付き、
「世界の構造」のⅤ~Ⅹまでを大幅に加筆・訂正することとしました。
出来上がり次第、新しく記事を投稿してゆく予定です。

ほとんど、記事を読んでいただいてないとは思いますが、
このように宣言すると記事を書かなければという
気持ちになれるのです。

そんな訳で、また「宣言」しておきます。

今日までのブログを振り返って  Ⅳ

トップページで私の哲学を体系的に読んでいただく順序を
タイトルの頭に数字を書いて示していますが、
最初は無計画に記事を書いて、次々足らないものを継ぎ足していて、
体系的にみたとき、必ずしも適当とは思えないものもありました。

今回、その点も見直して、順序を変更したものがあります。
一番大きな変更は、
「私の哲学の方法」の後に「何が「事実」か」を持ってきました。
したがって「世界の構造」その後の三番目になりました。

現時点でチェックが完了しているのは「何が「事実」かⅤ」までですが、
まだ、これからも変更は出てくると思います。

私の哲学の方法(Ⅲ相対的位置づけ)

何かを位置づけするためには、
その何かと比較できる少なくとももう一つの何かが必要である。

何も比較できるものがなくては位置づけすることはできないし
位置づけする意味もない。
何かと比較することで位置づけは可能になるのである。

下の図Ⅱを見てください。赤いスプーンがあるのだが見えるだろうか。
図Ⅱ

赤いスプーンなど見える訳がない。
背景もすべて赤いのだから、区別はできず見えないのだ。
触って触覚で確認するという方法は可能であるが、
ブログの画面ではそれもできない。


それぞれが異なるものと区別され位置づけされる。
例えば、空間を形作るとか、ある種の世界観を構成されたりする。
位置づけするものの中身はこの際問題ではなく、外身が問題である。
他のものとどこが違うか、どういう関係にあるか、それが重要なのだ。

中身は専門家がそれこそ専門的にそのものの研究をし、
また、技術を磨いていてくれてもいる
それらは科学技術の世界であり、哲学ではないのだ。

私にとっての哲学の方法は、
こうした専門的な知識や技術の中の一つではなく、
沢山あるこうした専門的な知識や技術を対比して、
関係づけし位置づけするのが私の哲学の方法なのである。

私の哲学の方法はそれぞれのものやことを
全体の中に位置づけ関係づけするやり方である。
その対象の位置づけ関係づけがはっきりされることで
誤った判断を避けることができるのである。

そうしてその中で自分がどうあるべきか、
その選択をする手助けにもなるのである。


私の哲学の方法(Ⅳ専門家)へつづく、
    この記事は2017/1/19(木) にアップしたものに加筆・訂正したものである。

年寄りはつらいよ Ⅺ

先日、ウチのカミさんが「断捨離や」と言って洋服の処分を始めました。
片っ端からゴミ袋に詰め始めていたのです。
見たところどれもまだ着られる新品同様の物ばかりなのです。

そこで私が「ダメモトで売りに行ったら」と言ったところ、
これから冬に向かってコート類などは需要があると思って、
五点ばかりリサイクルショップに持って行ったのです。

計算していただいてる間、十五分くらい店内を見ていて、
いろいろ商品の価格を見ながら、持ってきたコートの値踏みをしていました。

これなら1000円は下らないと思っていたところ、
買い取り価格はなんと5点合わせて 14円 というのです。
この半端な金額を算出する手間賃がかなり引かれていると思いました。

年寄りはつらいよ、

価値観は一人個人のもの

渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」という本はベストセラーになったそうで、
その考えに賛成の人が多いということですね。
私はこの本は読んでませんが、タイトルから判断して私もそう思っています。

渡辺和子さんについて調べようと思ってネットで検索していると、
「「置かれた場所で咲きなさい」なんて、
ブラック企業で働いている者に「死ね」と言っているようなものだ」
というご意見が目に入りました。同感です。

「置かれた場所で咲きなさい」という考えは、渡辺和子さんの価値観なのです。
渡辺和子さんの置かれている立場、渡辺和子さんの生きた時代、
渡辺和子さんの個性などが言わせた言葉なのです。

実は、渡辺和子さんのことを調べようと思ったのは、
学校での学生の答案メモにこんな文章が書いてあったと紹介されていたからです。

「最近、こんなCMがありました。「いのちは大切だ。いのちを大切に。」
こんなこと何千回何万回言われるよりも、
「あなたが大切だ」と誰かにそう言ってもらえるだけで生きてゆける」

この答案メモを読んで、私はショックを受けました。
価値観は個人のものなのだと思いました。
そして、それでこそ生きたものになるという事です。

世間でいかに騒がれようと、テレビでどんなに叫ばれようと、
本でいかに書かれていようと、心には響かないのです。
一人の人でいい、たった一人の人でいいのです。
私に直接言ってくださる言葉があれば伝わってくるのです。

私の哲学の方法(Ⅱ出発点)

私がよく例に出すコーヒーカップの話であるが、

自分が後ろを向いた時もあり続けているか、
死んだときもあり続けているかという疑問である。

ここが哲学の出発点として、そこは同じでも向かい方は哲学者で異なる。
凡人の私にはそれらを語る資格はなさそうだが、
私の向かい方は、一口で言えば人間に与えられている能力を知ることである。

哲学者はまず状況を頭に描く。
対象のコーヒーカップがあって①、それを感じている感覚器官があって②、
さらに感じたコーヒーカップを心で受け止めて③、何らかの判断の上記憶する④。
そしてさらに、自分が観ている時のコーヒーカップを思い描く⑤。
そしてさらに、自分が観ていない時のコーヒーカップも思い描く⑤。

カントによれば,現象は認識主観によって構成されるものであり,物自体ではない。
物自体はむしろ現象の根源にあるもので不可知物であるが,思惟可能な仮定であり,
カントはこれを現象の背後に仮定せざるをえない思惟の要請であるとした。(コトバンクより)

上記状況を図にすると 図Ⅰ になる。
図Ⅰ


①~④までは、世界を捉えるときの普通の流れである。
図Ⅰの⑤はいわば記憶に残っているものなのであるが、
「心」から「記憶」に向かっている矢印とは別に、
その逆方向にも「思い起こす」矢印が必要である。

カントの「現象は認識主観によって構成」と言う言葉から判断すると、
図Ⅰの②③④をまとめて「認識主観」という言葉で表現されていると思う。
そして「物自体」⑥は「不可知物」であるが「思惟可能」と、
感覚器官では捉えられず人間が考えて初めて「ある」ものであることをも認めている。

⑤は自分の世界に入れずに客観的に捉え直されたものとして、別の世界に入れた。
つまり、⑤の位置で①②③④を思い起こして空想しているものだ。

空想と書いたが、①②③④の関係についてみるのは客観的にみることでいいのだが、
その位置で①から②の再現をするのは空想でしかありえないということである。


私は哲学するとき、最初から疑問に立ち向かうのではなく、
その疑問を解くために人間にはどういう能力が与えられているか、
それを知ることがとりあえずの出発点としている。

例えばコーヒーカップの疑問について言うなら、
哲学者のように自分の「目」だけで疑問に答えようとはしない。
人間には前向きには目があるが、後ろ向きにはないのである。

でも、後ろに回せる手があり、それでコーヒーカップを触って確かめることができる。
また、後ろを覗ける鏡などの道具を作る能力もある。
また、他の人に聞いて見えないところを教えてもらうこともできる。

このように自分の目だけではなく、自分の他の感覚器官や
他人の力を借りても疑問を解くことができるのである。

逆に言えば、その与えられた能力以上のことはできないということだ。
カントの言う「物自体」(カントは後にその存在を否定しているが)は、
考えることつまり空想はできるが、その存在を確認する能力がないのである。
図Ⅰを見れば分かるように「物自体」を確認する感覚器官はないのである。

だから、人間に与えられている能力は何かを知ることが出発点なのである。
それでも人間行動のすべてを捉えることができるようになるのである。
もちろん、それは新しい能力の発見をさまたげるものではない。


私の哲学の方法(Ⅲ相対的位置づけ)へつづく、
         この記事は2017/1/13(金)にアップしたものに加筆・訂正したものである。

嘘は罪


自動ピアノの演奏です。
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極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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