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価値観を哲学へ Ⅳ

 価値観には二種類ある。
その一つは制度としての価値観で、法律とか就業規則とか会則とか、
特定の集団の秩序を維持するための制度である。

もう一つの価値観は、個人の価値観で、
それぞれの個人の個性を形成するものである。
当然ながら個人によって価値観は異なるものである。

この個人の価値観と法律などの制度としての価値観は
必ずしも一致はしないものである。
長崎県佐世保市の高校1年の女子生徒が殺された事件の加害少女は、
 「人を殺してみたい」という気持ちを実行したのだが、
いわば「自分に正直」に個人の価値観で行動したわけである。

 「人を殺してみたい」という人はちょくちょく耳にする。
病気かそうでないかの区別はどこでするのだろうか。
それは医学の問題ではあるが哲学としての見解はあり得ると思う。

私は人間の個性は尊重されるべきだとは思う立場である。
しかし、それなら「人を殺してみたい」という個性も
尊重しなければならないのかというと当然ながらそうではない。

この社会で生活したいのなら、まずは法律を守らなくてはならない。
これは個人の価値観より優先しなければならないものである。
必ずしも自分の価値観が通るとは限らないのである。

個人の価値観は尊重されなければならないが、
その社会に帰属したいのなら少なくとも法律は守らなくてはならないし
その会社で仕事したいのなら、就業規則は守らなくてはならない。
「自分に正直」がいつでも良いとは限らないのである。

二種類の価値観に優位差をつけるべきで、実際にも優位差がついている。
この限定付きで「個性の尊重」も大手を振って位置づけできる。



この記事は、2015/7/31(金) 午後 10:17 にアップしたものに
加筆して再投稿したものである。
価値観を哲学へⅤにつづく、
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年寄りはつらいよ Ⅸ

インフルエンザがそろそろ流行しそうですが、
いつもワクチンをするかどうかで悩みます。
つい四・五年前まではワクチンなんて打ったことがなかったのです。

家族は「もう年やから甘くみたらあかん」と言います。
しかし、そんなこと言われて風邪のような症状があって病院へ行ったら、
出された薬で食欲不振・体力減退に陥り、死ぬ思いをしたのです。

確かに、体温が37度を超えているし、咳などの症状もあるのですが、
これまではそのまま放っといても、知らない内に治っているのです。
「年寄りだから」と無理強いするのは止めてほしいものです。

年寄りはつらいよ。

今日までのブログを振り返って Ⅱ

最近の記事のほとんどは読み返しました。
とりあえず、本とか論文を書くのではないし、
ブログの記事として書いていますので、
飽きずに一回で読み切ってもらえる量しか書いてないのです。
それでとりあえずまとまっておればいいという、安易な書き方です。
そんな記事がダラダラと何回にも分けて出てくるのです。
我ながら読むのが嫌になりました。

論文でも書こうというのであれば、
もっと計画的に予め書く内容を整理しておくなりするのですが、
それもせずに寝ぼけ眼で書いているのですから、当然と言えば当然です。

そこでこれまでに書いていた幾つかのシリーズの記事を、
「世界の構造」を中心にまとめて、
補足的な説明として「私の哲学の方法」「心の構造」「何が事実か」にまとめました。
これまであった「目的」「出発点」「分けたものの位置づけ」などは上記に吸収し削除しました。

その他、追加・訂正も含めて、これまでの記事は大幅に変わりました。
まだまだ訂正途中ですが、完成に向けて努力しています。

価値観を哲学へ Ⅲ

ちょっと話がそれたが、元に戻そう。
哲学が価値観について発言をするなら何が可能かだった。

息子が幼稚園のころの話だが、車に乗っているとき黒人の人が歩いているのを見て、
息子が「あの人どうして黒いの」と質問したのである。
私はとっさに「犬でもいろいろの種類があるやろ」と答えた。
それで息子からの質問はなかったので納得したのだと思う。

とっさによくそんな答えが出たものだと思うが、
外見上のことではあるが、「そういう個性だ」と言うことである。
外見に限らず、いろいろの性格(個性)の人がいるということだ。

いろいろの個性があり、中には合わない個性もあるということである。
ですから「私は黒人は嫌いだ」という人があっても不思議ではない。
それは認めるしかない。言い方を替えると尊重するしかないのである。
重ねて云っておくが尊重=同意ではない。

誰でも性格が合わない人というのはいるもので、
また「全ての人に好かれることはできない」ともよく言うが、
自分も誰かを嫌っているし誰からかは嫌われているものである。

だからお互いに相手の個性を尊重し合うことが必要になる。
そして、嫌いな相手を責めるようなことは避けて、
「あいつはあいつ」と認め合うことが争いを防ぐ方法である。


人それぞれが持っている個性を位置づけ、
相互の依存関係や対立関係、それらを調整してゆくこと、
それを哲学することは可能ではないかと思う。


価値観を哲学へⅣへつづく、

Mark Knopfler - The Long Road



マーク・ノップラーとは、ダイアー・ストレイツのリーダーであり、ギタリストである。

 彼が映画のサントラの音楽を手がけていると知ったのは、「クロスオーバー・イレブン」で、
この「ザ・ロング・ロード」や「アイリッシュ・ボーイ」がかかったからであった。
(以上、グーブログよりお借りしました)

トルストイの名言

トルストイの名言

   過去も未来も存在せず、あるのは現在と言う瞬間だけだ

一般庶民の言葉

   未来が無ければ死んだも同然だ

その手はないよ - ベニー・グッドマン


その手はないよ -  ベニー・グッドマン

まともな??スウィング・ジャズをアップするのは初めてのように思いますが、
私はこうしたスウィング・ジャズが大好きなんです。
タイトルが「その手はないよ」となってますが、頭にレッツ・ダンスが付いてます。
このレッツ・ダンスの原曲がクラシックで、
ウエーバーの「舞踏への招待」だということを知らない人が
かなりあるようですね。ウチのカミさんもそうでした。

価値観を哲学へ Ⅱ

相対的な判断、例えば「これは美味しい」とか「今日は暑い」とか
そう言った判断は価値観で、人によっては「美味しくない」と思うかもしれないし、
「暑い」と思わないかもしれない判断である。

私はこの世界は相対的に存在していると言っいるし、
だからすべての判断は絶対的ではないと思っている。
幸福感というのも相対的で、幸福かどうかはまあ心の持ちようと言うところである。

宗教的に「悟った」と言えるときに見えてくる世界は「絶対的世界だ」とも言った。
私は悟っているわけではないが、
相対的な価値観には振り回されないようにしている。

不思議なものでそう思うようにしているとそのようになってくるものである。
もちろん、私にも欲はあるが、なるようにしかならないものである。

議論は価値観を哲学に引き上げることでした。
本来の議論に戻します。


価値観は相対的なもので、宗教的に悟れば絶対的世界が見えるわけだが、
そういう解決は哲学としてはあり得ないものなのである。
現実にもそうするにはいろいろの問題がある。

「悟り」に至るその方法や、
絶対的世界が確かに絶対的であるということの確認方法、
それでこの世界がどう展開してゆくのか、その展望なども分からないのである。

それから、悟った人と悟ってない人が混在している状態で、
どういう世界ができあがるのか、それも分からない。
こうしたことを論じるには、私はまだまだ力不足である。


価値観を哲学へⅢへつづく、

今日までのブログを振り返って

最近、よく自分の過去の記事を見ることが増えました。
何とも「恥ずかしい」思いがこみ上げてきます。

心理学ではないですが、癒し系の記事などは
読んでいると気恥ずかしくなってきますし、
哲学の話などは「何回同じことを書くのか」というくらい
何度も出てくるのです。もう少し工夫はないのかと思います。

でも、だんだん私の頭も進化してきているようで、
何回かの記事を寄せ集めて一つにまとめると、
そこそこいい記事ができあがるのです。
最近はその作業に凝っています。

とりあえず、ブログという性質上、使う言葉や書く文章の長さなど、
狭い範囲の少ない読者を対象に書いていますので、
そのあたりの批判的なありがたいコメントもいただいてます。

自分一人で書いていると、自分の記事の客観的な見えが分からず、
批判的なコメントはそれが見えて大変うれしいのです。
コメントのやり取りでは一生懸命反撃をしていますが、
後で考えてみると、客観的にはそんな風に見えているのかと
反省の材料になります。

ブログはボケ防止のつもりで続けるつもりですが、
だんだん理屈をこねるのがシンドクなってきました。
ボケとの闘いと思って理屈はこれからもこねるつもりではいます。

世界の構造 Ⅲ

分けた二つの内「自分」をさらに分ける。

自分のうち「五感」と総称されている「感覚器官」を分ける。
それから手や足やその他「行動器官」を分ける。
脳はいろいろの機能が一緒になっているので、
その中から「記憶機能」と「演算機能」を取り出して分ける。
そして生命を維持するための機能・器官もあり、それも「生命維持器官」として分ける。

以上、五つの機能を「心」がマトメているわけだが、この「心」も分ける。
「心」の働きには八つの判断があるが、
これについてはさらに「心の構造」↓という記事にも書いている。

世界の構造の「自分」の側は、中心に「心」があって、
この心がすべてを束ねているように関係づけた。
(後に構成する「世界の構造」図Ⅲを参照)

「心」が中心に据えられるということは、心が世界の中心で、
その心が哲学の出発点になると思われても不思議ではない。
過去の哲学の多くはそういう視点で作られているのが多い。

しかし、私の世界の構造は、その構成単位のどれにも優劣はない。
もともと一つだった世界を分けたもので、どれが欠けても世界は成り立たないのである。

考えてみてほしい。この自分の心があるのは、
感覚器官で感じられるものがあってこそあるもので、
それらが全く無くなったときは、もう死の世界である。

「生命維持器官」は自分を支えている本体であり、重要な存在でありながら、
世界の構造の中では目立たない位置にある。
しかし、「心」「感覚器官」「行動器官」「記憶機能」「演算機能」は、
この「生命維持器官」に支えられて成り立っているものである。

「生命維持器官」は「からだ(体)」ではないかと思われそうだが、
そうではなく「自分」を分けるとき物理的な見た目で分けたのではなく、
それが持っている機能で分けたので、
生命維持に携わっている部分だけを指している。

構造上は「心」と出入りがあるだけで、この「生命維持器官」は
「心」の指示で動き、「心」に危険を知らせる役割である。

少し具体的に考えてみると、例えば、手が痛い時は「痛み」として、
この場合は「感覚器官」からの情報として「心」に伝わる。
空腹のときなどは「空腹感」という「内臓感覚」として「心」に伝わる。
図Ⅲでは「内臓感覚」というのは分けていないが、
分けた方がよい場合もあると思う。

「心」からの指示が「生命維持器官」に働くときは、「病は気から」と言いうが、
心理状態が生命維持器官に伝わるような場合である。
他にも「生命維持器官」としての役割は多分あるであろうが、
医学や生理学などの科学にお任せできる分野である。

このように「心」とのやり取りで「生命維持器官」が動くのとは別に、
「生命維持器官」が独自に無意識のうちに、
生命を維持する機能をもっている器官でもある。


感覚器官と行動器官は、はっきり区別できそうでそうでもないのである。
先にも言ってる通り、物理的な身体の位置で分けたのではなく機能で分けているので、
見た目では分けられないものである。

例えば「見る」と言う行為は感覚器官としての働きのように思えるが、
にらみつけて相手を威圧するときなどは行動器官でもある。

例えば、橋脚の強度を検査するとき、確かに橋脚を目で見る。
ハンマーでコンクリートをたたいて音を聞くが、
しかし、これらは同時に行動器官として強度があるかどうかを診ているのだ。

例えば、マラソンで走っているときでも、単に走るという行動をしているだけではなく、
足で地面を蹴っているときの皮膚感覚も、風を切って走るときの皮膚感覚もある。


「記憶機能」と「演算機能」について、先にも書いているが、
この二つの機能は「心」との区別が難しいのである。
ここでも「機能」だけを分けたものなので、とりあえず、割り切って分けてほしい。

「記憶機能」というのは、生まれたときから休まずに働いている機能で、
成長とともに記憶は蓄積されてゆく。

この蓄積された記憶は、自分自身を形成する重要な部分を占めており、
感覚器官から得られる外界からの情報と、
この記憶情報は「心」でのあらゆる判断のもとになっているのだ。


もう一つの「演算機能」の位置づけであるが、
ここでは加減乗除はもちろん、物事の大小や良い悪いの程度などを、
演算して割り出す機能で、ここには判断する機能は含めていない。

この機能も「心」との区分が難しいものであるが、
これも「機能」だけと割り切って分けて考えてほしい。



世界の構造 Ⅳへつづく、
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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