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コミュニケーション

コミュニケーションの大切さは分かります。
コミュニケーションの取り方は人それぞれで、
また周囲の状況・環境にもよりますので、
これと言った決まった方法はないと思います。

基本的に日本語で相手に伝わるように発信されていれば、
方法は何でも最終的には伝わります。

リーダーもいろいろの個性の人がありますので、
その個性で集団をリードすればと思いますが、
何もしゃべらないと伝わりようがありませんね。
だから話の出来る「場」が必要です。
話をする「場」はどこでもいいと思いますが、
提案箱でも懇親会でも研究会でも、とりあえず、
「もっと考えて意見を出してよ~」というリーダーの言葉が切っ掛けになって
話が進んでゆけば、それでもいいと思います。

だから、そういう「場」がないというのは論外ですね。
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現代の哲学Ⅴ(思考実験)

哲学と言えば、頭を抱えて考え込むというイメージであるが、
この思考実験というのは、仮説を立てて
その仮説を実験で検証するという科学の方法に近いものである。

哲学的ゾンビ、逆転クオリア、メアリーの部屋、チューリングテスト、
中国語の部屋、水槽の脳、スワンプマンなどの実験がなされていて、
それぞれに実験する内容は違うのであるが、共通の課題がある。

哲学的ゾンビでその課題について考えてみたいと思う。
哲学的ゾンビとは、「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、
意識(クオリア)を全く持っていない人間」と設定されている。

デイヴィッド・チャーマーズが1990年代にクオリアの説明に用いた思考実験であり、
「哲学的ゾンビは存在可能なのか」「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」などが
心の哲学の他の諸問題と絡めて議論されている。

「物理的化学的電気的反応」の裏付けとして、
神経細胞の構造とか神経の伝達方法などについては
現在科学的に分かっているのであるが、その神経細胞がどういう構造に結合されていて、
システムとしてクオリアの形成にどういう形で関与しているかなど分からない現状である。

この現状で「普通の人間と全く同じ」ゾンビを作り出すことができるのか、
あるいは「普通の人間と全く同じ」と言えるためには
どうでなくてはならないかという課題として浮かび上がってくる。

哲学的ゾンビに限らず、クオリアを作り上げるシステム論的課題は、
思考実験には避けて通れないものと思われる。

North Sea Gas --- Caledonia

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ニュートンの言葉(一般庶民の言葉Ⅶ)

ニュートンの言葉

私は真理という大海の前の砂浜で遊んでいる子供にすぎない

一般庶民の言葉

私は現実を前に「真理」とは現実だと気づいた。

年寄りはつらいよ Ⅴ

カミさんの話では、娘が明日来るという。
娘の連れ合いが26日に、我が家の近くの大学に試験を受けに来るという。

「ところで今日の日付は何日だったかな」とカミさんに聞くと、
怒りながら「何を聞いてたん」さらに続けて
「○○さん(娘の連れ合いのこと)が試験勉強で邪魔になるので、
子供を連れて我が家に来るということ」という。

事情が分かれば、前後関係が分かるが、
事情を知らない者は、送り迎えのことや、我が家に来るのか来ないのかなと、
分からないのだが、
カミさんの言うには「そんなもん、状況で分かるやん」という。

年寄りはつらいよ。
年寄りでなくてもつらいかもね。

イタリアはトスカーナの風景

André Rieu - Once Upon A Time In The West

現代の哲学Ⅳ(自由意志)

自分が自由か自由でないかは何を基準に考えたらいいのか、
いろいろの考え方があって、また、自分自身がどう思うかも問題である。
自由を妨げるものは、この世界にたくさんある。

自然も私の自由を妨げることがある。
国家も、してはいけないことを法律で定めて私を縛っている。
勤め先に行けば就業規則があるし、
我が家には怖~いカミさんがおる。

とりあえず、社会生活というのは不自由なもので、
自分一人で生活しているのではないので、他人との関係は無視できない。
相手の気持ちを気遣い、自分の立場も主張してバランスをとる。

相手が私の立場を損なおうとするなら、私は抵抗するだろう。
相手は私を不自由にしようとしても、私にはそれに抵抗する自由がある。
このように、自由と不自由は相対的であることが分かる。
自然も国家もあってこそ自分もあるのである。

もう一つ、重要なものがある。それは自分の欲望である。
あれが欲しい、これが欲しいという欲望が自分を動かす。
欲望を満たすためには自由でありたいのである。

「力」は欲望を満たすための道具である。
欲望を満たそうとしても自由が無ければ「力」は使えない。
不自由であればその分「力」を発揮できないのである。

このように欲望と自由は、深い関係にあるのである。
欲望が満たされないことによる悩み苦しみが自分を襲い、
自由への強い憧れが沸いてくるのである。

自由を求める意思の起源は自分の欲望にあったのである。
この欲望が物の価値を設定し、その価値の高いものに力を注ぐわけである。
価値が高いか低いか、それは欲望の度合いで決まってくる。

社会生活は他人との関係を抜きには考えられない。
自分が自由になろうとすると他人には不自由を与えてしまう。
自由と言うものは相手との相対関係で決まる。

対人関係だけでなく、すべてのものは相対的にある。
大きいか小さいか比較するものがあって決まる。
それらの後ろには欲望が隠れていて比較しているのである。

宗教は欲望を嫌う。
私は「力」を取り去ることが仏教の目的だと言ってきたが、
それは「力」が欲望を満たすための道具だからである。

この欲望が物事の大小を決めているのである。しかし、それらは相対的なものなのである。
ところが、この欲望を通さずに世界を見たら、絶対的な世界が見えてくるという。


現代の哲学Ⅴ↓へつづく、

棚から牡丹餅(一般庶民の言葉Ⅷ)

ことわざ

  棚から牡丹餅

一般庶民の言葉

  押し入れからネズミ

力の論理と民主主義

体育会系的考え方=力の論理です。
それは当然で、だいたいスポーツというのは力を競うものだからです。
中には芸術的な要素も加味されますが、基本は力を競うものです。

最近スポーツ界の不祥事が続いていますが、
どれも、リーダー的立場の人物による不祥事と思われるものです。
相撲、レスリング、アメフト、ボクシング。
内部の詳しいことは分かりませんが、
力の強い人物が力の弱い人を指導の名のもとに「イジメ」るものです。

スポーツは喧嘩ではありませんのでルールがあります。
それを守って力を競います。
しかし、そのスポーツの競技を離れたときには、
当然の事ですが、法律は守らなければなりません。

しかし、一方で、
スポーツクラブの部員が、練習が厳しいと思うなら、
クラブを辞めればいいという考え方もありますし、ケースによっては、
そこまで思っているなら「辞めたら」と言いたくなることもあります。

クラブを辞めない理由には
そのスポーツを「続けたい」という気持ちがあるのだと思います。
続けたいがイジメられたくもない、だから悩むわけです。

指導する側とスポーツをしたい側の、
気持ちのギャップがあるから問題になるわけで、
このギャップをどう埋めるかですが、信頼関係や話し合いも必要でしょうが、
それがそもそも壊れてしまっているときは、
第三者が調停に入る方が上手く行くように思います。

年寄りはつらいよ Ⅳ

最近、物忘れがひどくて困ります。
例えば洗濯物の干しものをしていても、
家内からお呼びがかかってそちらに行っていると
もう物干しの途中であったこと忘れるのです。

そしてまた物干し場を通りかかって、
物干しの途中だったことに気付くのです。

特に朝は、私の係りの用事が多くて、
仕掛の用事が二つ三つ重なることがあり、
物干しが終わるのが昼前ということも稀にあるのです。

もう、忘れっぱなしで、そのうちそのこと自体を忘れて、
放置されていることもあります。
その必要性が失せてしまっていることもあります。

そのうちに、生きることの必要性もなくなり、
生きることを忘れる時がくるように思います。

年寄りはつらいよ。
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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