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現実を見て確認する作業が必要

学問をする上で一番大切なことは
誰れそれがどう言ってるかではなく、
現実はどうなっているかです。
これは冒頭のトップページで述べたことです。

ある事について色んな人がいろいろ仰ってます。
それらをまとめていい結論が出てくればいいのですが、
なかなか難しいですね。

しかし一方で私は、過去の賢人が残した遺産を
引き継ぐのも大切なことと思っています。
となると遺産は先に否定された「 誰れそれがどう言ってる」ことではないのか
と言われそうですが、それはその通りです。

確かに遺産は、直接自分が確認したものでないことは確かです。
だから最終的には自分で確認できれば一番いいのですが、
いつでもそんなことができるとは限りません。
例えば物理学の様々な理論などがそうです。

多くの科学の理論や、自分が行けない外国の事など、
誰かに教えてもらったり、映像で確認したりします。
そしてそれを信じているのです。

それらには信じるか信じないかという問題があります。
大学の先生が言ってたことは信じる。
自分が信用している人が言ってたことは信じる。
テレビが言ってたことは・・・・・信じときます。

もう一つ信じるか信じないかの基準として、
論理的な整合性があります。
誰が言ったことでも、どこで知ったことでも、
論理的に矛盾がなく、事実に基づく発言であれば信じられます。

それからこれまでの実績などから判断することもあります。
例えば、科学でも栄養学などは、
これまで栄養がないと言われていたものが、
後で、実は栄養があるとなったり、
発がん性がないとされていたものが発がん性があったり、
くるくる言う事が変わったりすると信用できなくなります。

いろいろの考え方があっても、
検証されて残るものと捨てられるものがあり、
諸説が整理されるようになっておればいいのですが、
検証する手段をもたないものはいつまでも残ります。

そんなときは頭で考えているだけでなく、
検証する手段をもたないという件も含めて、
現実を見て確認するという作業が必要と思います。
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アリア


バッハ G線上のアリア

緑のトンネルを抜けると
草地の広場があった
太陽の光がまぶしい
それから先は三つの小道に分かれて
また、林の中に潜り込む
何があるのか、何が見えるのか

時間について Ⅴ

あるブログに「時間」についての面白い記述かありました。
その記述というのは、ある書籍からの引用で次のものです。

「時間は、過去から未来へと流れていくのではなく、
未来から現在を経て過去へ流れていく」
解説 「走行する車の前には「未来が見えている」、
   その未来がやがて「現在になり」、
   そして「過去という記憶」になっていく。
   こう考えてみると、時間は、未来から現在、過去へと流れていく」 


この時間についての二つの考え方について、
私なりに解釈してみました。

前段の「過去から未来へと流れていく」時間は
視点が第三者にあり、
実際に時間を感じている自分にはありません。

後段の「未来から現在を経て過去へ流れていく」時間は
正に時間を見る視点は自分あります。

前段は、誰かが時間の流れ乗りながら進んでゆく様を
側面から見ている第三者の目に見えた「時間」です。
第三者が側面から、時間に乗って流れてゆく人を見ているときの
第三者から見た「時間」の表現です。

後段は、時間の流れに乗っている自分自身に見えている
「時間」の流れなのです。
時間を感じて時間について考えている本人の表現です。




「時間」も見る視点によって
表現が変わってくるものですね。

なぜ「物自体」は世界に入らないか

この世界は「一つで全体」で
すべてのものが含まれています。
だから、何も付け加えることはできないし、
できるのは分けることだけです、と言ってきました。

しかし、一方で「新しいもの」が見つかったときは、
その時点で追加すればいい、とも言っています。

何か矛盾しているように聞こえますが、
詳しく説明したいと思います。

生まれたときから世界は与えられている、と言いましたが、
生まれたとき感覚器官で確認できる範囲は限られています。
成人してからでも、
世界の隅々まで確認できているわけではありません。

宇宙の果てまで確認した人はまだ誰もいませんし、
この地球上だって分からないことは沢山あります。
確認はできていなくてもそれでいいのです。
「新しい発見」は追加できますから。

よく哲学で出てくる「物自体」ですが、
その物はすでに感覚器官で確認済みの物で、
さらに「物自体」としてこの世界に
再登場させることはできないということなのです。

すでに感覚器官で確認されたものを、
再度「物自体」として確認しているのは心です。
心で何が感じ取れたのでしょう。

それは「新しいもの」でも何でもないのです。
すでにあるもので十分世界が説明できるのであれば、
もう一度その物を登場させる理由が見当たりません。

そういう特殊性を考慮した上で、この世界に物自体を据えるなら、
どういう位置づけが可能なのでしょうか。
そしてその結果、何が表現できるようになったのでしょうか。

相対的に見る Ⅲ(改訂版)

物理学はというより物理学が対象とする世界も、
相対的であることを示す例をあげてみよう。
量子力学で「真空」という概念があるが、
この真空の世界では、物質が出現したり消滅したりするそうである。

出現するのは、現在の我々の住んでいる世界と同じ物質と、
もう一つ、我々の世界とは電荷が全く逆の反物質である。
すなわち、電子はプラスの電荷を持ち、
陽子はマイナスの電荷を持つ反物質なのである。

そして物質と反物質が衝突すると、エネルギーに変わって
物質は消滅してしまうのだそうだ。
つまり物質と反物質が対で出現するのである。

私は詳しいことは分らないが、
反物質でできた世界がブラックホールに存在していて、
物質を吸い込んでいるというようなことを、どこか読んだ記憶がある。


もう一つ物理学の相対的である例がある。
その名も「相対性理論」である。

日常私たちが経験している世界は、
ほぼニュートン力学で説明ができる絶対的世界である。
しかし、アインシュタインの特殊相対性理論の世界は、
その名の通り相対的世界なのである。

何が相対的(絶対的)なのかというと、時間と空間である。
特殊相対性理論では比較するもので時間や空間が
伸びたり縮んだりするのである。

ニュートン力学では、時間や空間は一定で絶対的なのである。
厳密には、ニュートン力学と言えども相対性理論の適用を受けるが、
現実の私たちの生活ではそれを無視しているだけである。

このように物理学の対象としている世界も相対的存在なのである。


相対的に見るⅣ↓につづく、

Melina Mercouri & Vangelis


Melina Mercouri & Vangelis - Athina (Greek version) (1973) 

メリナ・メルクーリΜελίνα Μερκούρη ,
 Melina Mercouri, 1920年10月18日 - 1994年3月6日)は、ギリシャアテネ出身の女優、政治家。

ヴァンゲリス(Vangelis、Βαγγέλης

過去の哲学Ⅰ(社会科学)

社会科学は「こうあるべき」と言い始めると哲学になる。
科学というのは、対象を客観的にみて法則を見出すものであるが、
社会科学などは人間の希望や欲望に左右されて、
「こうあるべき」という気持ちが科学に侵入してくる。

そうなると、客観的な事実に基づく法則ではなくなってしまう。
それでは、もう科学ではなく思想(哲学)になってしまうのである。

「思想」は人生や社会についての一つのまとまった考え・意見と辞書にはあるが、
例えばある思想は「こうあるべき」を超えて「こうあるはずだ」と、
そうでない思想と争う形になって、時には戦争にまで発展することがある。

社会科学も事実を観察することに重点を置いた科学にもどって、
客観的に研究する姿勢が必要と思う。

なかなか自分の気持ちを抑えるのは難しいが、
どうすれば、科学的であり得るか。その方法の検討が必要である。
厳密に科学であることを目指すべきではないかと思う。

もちろん「こうあるべき」と思う思想は一つの価値観なので、
あっていいと思うが、それは科学的な土台の上にあるべきである。
ところが、社会科学の特に経済学ではその土台がアイマイなのである。

人間は自然と違って法則の先を読むというか、
その法則を利用して自分にとってよりよいように法則を裏切って行動してしまう。
そこに「こうあるべき」「こうあるはずだ」の思想が入り込むのである。


過去の哲学Ⅱへつづく、

論より証拠

最初に「間違いない」と思われるものを決めて、
そこから演繹的に世界を考える、というものに、
物理学では理論物理学というのがあります。

先のノーベル物理学賞は重力波の存在を証明した人に与えられました。
この重力波の存在はアインシュタインが理論的に予測していたもので、
(アインシュタインはこの重力波の理論ではノーベル賞は受賞してない)
その正しさが証明されたのですが、
それを検証する手段があったから証明ができたのです。

もし、アインシュタインが生きていたら
今回のノーベル物理学賞にアインシュタインの名前があったでしょう。
それだけ、現実の世界で証明されることが
物理学では必要なことなんです。


これは物理学に限ったことではありません。
よく「論より証拠」と言いますが、
その言葉が通用しないのが哲学です。
かつての哲学は今でもファンがおられて議論されていますが、
証拠がないため結論がでず、
最後は「どちらが好きか」の話になってしまいます。

ピアノ協奏曲第五番 バッハ

バッハ:ピアノ協奏曲 第5番 ヘ短調 BWV1056 2. ラルゴ, アリオーソ

バッハのチェンバロ協奏曲のピアノ版です。
多少音が悪いですが、
映像が楽しめるのでこちらを取りました。

注、聴くのは中ほど(2分50秒)までにしてください。
それ以降は途切れ途切れで聴けません。

人は信じられるもの

人の心は見えないので、信じるか信じないかという
厄介な問題が生じてきます。
しかし、凡人は信じています。

例えば、自分が誰か(他人)に
何かを作ってくれるように頼んだとします。
そして数日後に、その何かが出来上がって届けられたとします。

形も色も機能も自分が思っていた通りに出来上がっています。
それは自分が作ったものではありませんが、
自分の心が思っていたものです。

自分の心が思ったものを他人に頼んで作ってもらったのです。
自分と同じ心を持っていると信じて作ってもらったのです。
そう考えないと辻褄が合いません。

つまり、他人の心を直接確認はできませんが、
他人にも心があると「信じる」ことで
日常生活が成り立っています。

人の心は見えないから疑うか、
言葉が伝わり自分の目的を預けられるから信じるか
どちらを取るかです。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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