FC2ブログ

哲学の「時間」

私はここで哲学者が「時間」についてどう言っているかを書くつもりはない。
哲学者の発言の中にある隠れた「時間」についての観念を
分析してみたいのである。

自分が見ていなかったら対象のものは存在するのか、
こういう疑問が湧いてくるのは、その人にとっては「今」がすべてだからである。
そのものは「今」は見えてないからである。
そして「今」あるのは記憶という形で「過去」としてあるのである。

哲学者はこうした状況では「今」のその「対象」の状況に決着を付けたいのだ。
しかし、現実は「記憶という形で現在の自分にある」ものである。
普通現実の対象は感覚器官で捉えられているものがすべてで、
その他のものは記憶としてあるか、写真やビデオなどの記録媒体としてあるのみだ。

その記憶や記録媒体を認めるか認めないかなのだが、
無意識の一般人はそれを認めて受け入れている。
世界はそれで動いているのである。

哲学者はその記憶や記録媒体を受け入れられず、
過去の哲学は無駄な時間を過ごしてきた。
記憶や記録媒体を受け入れなくて何ができるのだろうか。
物自体として客体化しても何ができるというのだろうか。

哲学者は流れる現実の「時間」を止めて
過去も未来もすべて現在と同一線上に置いて、
鳥瞰して考えようとしているように思える。
鳥瞰と言っても感覚器官でではなく心で鳥瞰するのである。

こんな方法で何が見えるのだろう。
過去は「過去」として記憶にあり、未来は「未来」として希望の中にある。
人間には時間に関しては記憶することと
未来に希望を描いて夢を見ることしか与えられていないのである。

哲学者のするような鳥瞰が必要な時は、ちょっと思い浮かばない。
記憶を思い出せばいいことしかないように思う。


柱時計の「時間」↓へつづく、
スポンサーサイト

世界の構造 Ⅱ

世界の構造を築くため、まず、今与えられているこの世界を受け入れる。
そして、世界を分けることから始める。

最初に世界を「自分」とそれ以外の「外界」に分ける。
ここで言う「自分」は私にとっては私自身であるが、あなたにとってはあなた自身なのである。
体の内側から見ている人間は「自分」だけで、特別な存在なのである。
この特別な存在の「自分」を「外界」と対比して相対的に分けるのである。
これは「人間」と「外界」を分けるのとは違う、ということは分かってもらいたい。

「自分」と「外界」の二つに分けたが、この二つの確認方法は次の通り異なる。
「自分」に分けるものは「心」で確認できるものであるが、
「外界」に分けるものは「感覚器官」で確認できるものである。
それぞれ、他に確認できる手段はないのだ。
(後で提示する図Ⅲを参照。)

したがって、「物自体」というのは感覚器官では確認できないため
「外界」にはないし、また、何と相対的に分けたのかそれも問題である。
それでは「自分」には「物自体」が確認できる手段があるのかそれも問題である。

確認できる手段があるというなら、どういう器官で「物自体」が確認できるのか、
または論理的産物なのか、そしてそれでどういう構造の世界を築くのか、
そして築かれた世界は現実の世界をうまく説明できるのか、
そこが問題になってくると思う。図Ⅰ参照、

ここで、分けるときに何を分けるかを説明しておく。
一番考えやすいのは、見た目すなわち
物理的な見かけで分けているように受け取られそうだが、
これからさらに細かく分けて行くが、いずれも、見かけではなく
その「機能」を取り出して分けてゆくのである。

この「自分」と「外界」を分ける段階では、
それほど何を分けるかは問題にならないが、
さらに細分してゆくとなかなか分け目が分かりにくくなるのである。

いかなる場合も分けるという作業は「機能」を分けることというのではなく、
私の世界の構造を構築するのに都合がよい、というくらいのものである。

さらに付け加えますと、「機能」で分けると言っても素のままで世界を見ても
なかなかその分け目というのは分かりにくいもので、
どうしても現代の科学の知識と言うのが基準になってしまう。
しかし、それはあくまでも参考にしているだけで、
基本は科学以前の状態を分けるようにしている。


世界の構造 Ⅲ↓へつづく、

世界の構造 Ⅰ

ある日突然、体の内側から見ている人間は自分だけであることに気づく。
そして世界の中心は自分にあることにも気づく。
これはどなたも一生のうちには一度や二度は体験することと思う。
これが独我論の世界である。でもこれは「事実」なのである。

自分はこの世界で一人であり、
その取り巻きも含めて、一つの世界として与えられている。
そしてこの世界で生きていることに「なぜ」と疑問を抱くのである。

私はずーっとこの世界は「一つで全体である」と思ってきた。
これは私の独断ではなく、冒頭で述べた「事実」に基づくものである。
「一つで全体」ですので、その世界にはすべてのものが含まれており、
何も付け加えることはできないし、できるのは分けることだけである。

一つの世界を分けて行き、それを目的に従って
再度組み立てたものが後に構築する「世界の構造」である。
これは自分を中心にした世界の構造で、
この方法だと捨てるものがなく世界のすべてが表現できて全体を関係付けできるのだ。

哲学の存在論や認識論では認識主体と認識客体の二つに分けて
二項対立図式で考えることが多いが、二つに分けるまではいいとしても、
客体はそれ自体で存在するとかしないとかそんな議論を始めるのである。

そうではないのだ。「世界は一つで全体である」と言うことは、
そして「できるのは分けることだけ」とも言うことは、
分けられたものとしてはあっても、それ自体としては存在する必要はないのである。
それ(自体)を考え始めるともう一つ同じものを付け加えなければならなくなる。

この世界に入れ忘れていたものが見つかったときは、その時点で追加すればいい。
それからその分け方も人によって、目的によって異なってもいいのである。
どれが正しいと言うのではなく、どれが一番世界を単純に説明できるかなのだ。

日常生活に紛れていると、自分を他人と同じように並べて置いて
「独我論なんて特殊な考え方」というくらいに考えている。
「自分の「心」だけが確かな存在」というのは問題があり、私もそういう思わないが、
体の内側から見ている人間は自分だけというのは空想ではなく現実なのである。


世界の構造Ⅱへつづく、

人生観と世界観の違い Ⅱ

以前に「人生観と世界観の違い」という記事を書いているが、
そこでは世界観はすべての人に通じるもので
人生観は個個人で異なるものであるというその違いを基本に書いている。

その考えの基礎には「世界」と「人生」という言葉の解釈がある。
「世界」は「生きる場所」で、「人生」はその場所での「生き方」なのである。
「生きる場所」はすべての人に共通であるべきだし、
「生き方」はそれぞれの個性で異なるはずである。
ここで「生きる場所」というのは必ずしも空間的なものではなく、
生活の場であったり、働く場であったりするのである。


ここでもう一つ世界観と人生観の違いで大切なことを付け加えたいと思う。
それは判断の種類の違いである。
世界観は事実判断で、人生観は価値判断だという違いである。

世界観は事実判断をもとに築くものである。
物理学などと同じで人によって異なることはない。
人によって異なっては共通の世界にはならないのである。

それに対して人生観は、人それぞれの好みで選ぶものだ。
似かよった好みの人はあるが、集団でグループを作る必要はないのである。


哲学は世界観や人生観を築くものと言われるが、
私の世界観と人生観の意味づけからすると、
人生観というのは哲学には入れたくないものなのである。

だいたい価値観というのは人によって異なるもので
「絶対」ではあり得ないものだと思う。

You're Gonna Miss This - Trace Adkins

You're Gonna Miss This - Trace Adkins

CDのカスタマーレビューより

グレイテストヒッツ盤に収録された新曲

「You're Gonna Miss This」がナンバーワン、


トレイス最大のヒットになり、なんと2009年

 第44回ACMアワードでシングル・レコードオブザイヤーに輝きました。


出発点 番外編

あるブログでこんな話が出ていました。


「ある禅寺の座禅に参加した時のことです。
和尚さんから尋ねられました。
  和尚 「ここに来た目的は何ですか」
  私  「心を磨きに来ました」

私は、模範解答というつもりで、自信満々に答えました。
「それは良いことだ」と、褒めてもらえると思っていたのです。
ところが和尚さんはこうおっしゃいました。

  和尚 「心は磨けません。目に見えませんから。
      まず、目に見える物をしっかりと磨きなさい」
と言われた。」


こんな内容の記事でした。

一方で哲学者は「疑い得ぬ事を語る」と言います。
哲学者がまずすることは、心で「疑い得ぬ事」は何かを考えます。
現実に目に見える物をそのまま見ようとはしないのです。

多くの哲学者の出発点は自分の心なんです。
自分に与えられている感覚器官は二の次なんですね。
自分に与えられているものが出発点なんです。

和尚が言ったように現実の見えている物をしっかり磨きましょう。
そして、見えていることを語りましょう。
そこが出発点です。

物理学の「時間」

過ぎ去った過去はすでにないし、来るべき未来はまだない。
あるのは只今現在のみなのである、と言ってきたが、
物理学ではどうなのかを考えてみた。

物理学では時間という概念は重要な位置にあり、
過去、現在、未来はあるものとして扱われている。

しかし、物理学は人間を離れては存在しないとも言われる。
自然を観察し法則を発見し記述するのは人間なのである。
その人間が自然を見るとき、そして解釈するとき、
「どうなったらどうなるか」つまり因果律という法則性を求めようとする。

それは量子力学でも同じで、プランク時間というのも、
「プランク長に等しい距離を真空中における光速度で通過するのに必要な時間である。」
(戸塚洋二の科学入門より)とのことで、
プランク長に等しい距離を、真空中における光速度で通過するのに、
「必要な時間」はいくらだろうかという人間の気持ちの現れなのである。

只今現在を見るだけでは満足せず、
それが未来にどうなるかを関連付けて考える。
つまり、「未来」という届く先はやはり「考えられてある」のである。
時間は人間が考えた「未来」の中にあるのである。

時間は自然の中にあるのではなく、
自然を観察し法則を発見しようとする人間の心の中にある。

私たちは過去について懐かしく語り、未来について夢見て語る、
時間はその夢の中にあるのである。
物理学の「時間」も例外ではないのである。


哲学の「時間」↓へつづく、

1973

1973 - James Blunt

時は過ぎてしまったけど
僕はいつもきみといる
あの1973年のクラブに
"Here we go again"を歌いながら

シモーナ
冷静でいたいって思うんだ
そしたらはっきりとわかるだろう
雨はもう上がったってことが

(歌詞の一部です。ブログからお借りしました)

花粉症に劇的に効く薬のその後

0

.


先に花粉症に劇的に効く薬として
エドキサバンという薬を紹介しましたが、
その後の経過について報告します。

花粉症もスギ花粉からヒノキ花粉に変わって
家内の花粉症も少し症状が出てきました。
家内の話では「それでも症状は極軽いもの」とのことで、
やはり、薬の効果は間違いないようです。

今年はヒノキの花粉の飛散がひどくて
去年は症状がでなかったのですが、
今年は少し鼻水の症状が出ています。

それでも表へ出た時など、限られたときだけで、
室内に入ってしばらくすると症状は消えてます。


以上ご報告まで、

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
ブロとも一覧
月別アーカイブ