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ギロック 冬の風景~音もなく降る雪

ウィリアム・ギロックWilliam L. Gillock1917年7月1日 - 1993年9月7日)は
アメリカ合衆国 の音楽教育家、作曲家
ギロックは音楽教育分野の作曲の第一人者で、
メロディーの美しさから「教育音楽作曲界のシューベルト」と呼ばれている。
Wikipediaより

私は「セレナード」が好きなんですが、季節がら「冬の風景」にしました。


Gillock - Winter Scene / The Silent Snow 
ギロック/冬の風景~音もなく降る雪
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私の哲学の方法(Ⅳ専門家)

先に「中身ではなく外身が私の哲学の関心事だ」と言った。

ここで大事なのは中身と外身の区別も相対的だということである。

例えば、物理学は生物学とか化学とか工学とか、
そういう自然科学との違いとか関係から位置づけするが、
そのときは物理学、生物学、化学、工学などの外身が私の関心事である。
しかし、それらは中身を対象にするのは科学者つまり専門家の仕事なのである。

ところが物理学をさらに細かく、ニュートン力学とか素粒子物理学とか、
原子核物理学とか電磁気学とか熱力学とか量子力学とかその他に分類すると、
それぞれがそれぞれの違いなどの外身から位置づけするのである。

他に専門家と呼ばれる方として技術者という人がいる。
いろいろの仕事には技術に長けた方がいるもので、そういう人たちも専門家である。
家庭にも料理の専門家がいるし、趣味の世界にも専門家がいる。
技術の差はあるとしても、大方の大人の人は何らかの技術をお持ちで、
それによって生きる糧とし、それによって心の癒しとしているのである。

私は科学の専門知識もないし、特別に秀でた技術もないが、
それぞれの違いや関係については興味がある。
例えば科学でもその対象とか方法などには興味があって少しは勉強はする。

しかし、例えば細かい計算方法とか、記憶力に頼らなくてはならないような勉強はしない。
それらについては必要があれば、それこそ専門家に教えてもらうとか、
辞書で調べるとか、ネットで調べるとか、いろいろ目的を果たす方法はあるものである。


一人の人間にできることには限界がある。
考えてみてほしい。何もかもを自分でしている人、知っていますか。
自給自足の生活をしている人もあるかもしれないが、
何もかもができている訳ではないと思う。
正確には、他人の世話にはなっていないということである。

自分の個性に合った得意分野だけを勉強していても、
問題視することはなく、すべてについて知識を得ようとは思わない。
自分の得意は人に提供すればいいし、不得意な部分は人に教わればいいのである。
そのようにして人と人は協力しあい、社会を形成しているのだと思う。


私の哲学の方法(Ⅴ学びの場)へつづく、

私の哲学の方法(Ⅲ相対的位置づけ)

何かを位置づけするためには、
その何かと比較できる少なくとももう一つの何かが必要です。

何も比較できるものがなくては位置づけすることはできないし
位置づけする意味もありません。
何かと比較することで位置づけは可能になるのです。

下の図Ⅱを見てください。赤いスプーンがあるのですが見えるでしょうか。
図Ⅱ
赤いスプーンなど見える訳がありませんね。
背景もすべて赤いのですから、区別はできず見えません。
触って触覚で確認するという方法はありますがね。

それぞれが異なるものと区別され位置づけされて、
例えば空間を形作るとか、ある種の世界観を構成したりします。
位置づけするものの中身はこの際問題ではなく、外身が問題です。
他のものとどこが違うか、どういう関係にあるか、それが重要なんです。

中身は専門家がそれこそ専門的にそのものの研究をし、
また、技術を磨いていてくれてます。
それらは科学技術の世界であり、哲学ではありません。

私にとっての哲学の方法は、
こうした専門的な知識や技術の中の一つではなく、
沢山あるこうした専門的な知識や技術を対比して、
関係づけし位置づけするのが私の哲学の方法なんです。

私の哲学の方法はそれぞれのものやことを
全体の中に位置づけ関係づけするやり方です。
その対象の位置づけ関係づけがはっきりされることで
誤った判断を避けることができます。

そうしてその中で自分がどうあるべきか、
その選択をする手助けにもなるのです。


私の哲学の方法(Ⅳ専門家)へつづく、

Hunter Hayes - Somebody's Heartbreak

ハンター・ヘイズ英語Hunter Hayes 1991年9月9日[1] - )は、

Wikipediaより


Somebody's Heartbreakは
2013年発売のアルバムにボーナストラックとして入っていた曲のようです。

ビギン・ザ・ビギン アーティー・ショー

アーティー・ショーのビギン・ザ・ビギン、懐かしいですね。
コール・ポーターが作曲した曲ですが、どなたがオリジナルなんでしょうね。
そのくらいいろいろの人が歌ったり演奏したりしています。
比較的新しいところでは、フリオ・イグレシアスが歌って大ヒットしました。


映像は白黒ですが、音も映像も綺麗ですね。

私の哲学の方法(Ⅱ出発点)

私がよく例に出すコーヒーカップの話ですが、
自分が後ろを向いた時もあり続けているか、
死んだときもあり続けているかという疑問です。

ここが哲学の出発点として、そこは同じでも向かい方は哲学者で異なります。
凡人の私にはそれらを語る資格はありませんが、
私の向かい方は、一口で言えば人間に与えられている能力を知ることです。

哲学者はまず状況を頭に描きます。
対象のコーヒーカップがあって①、それを感じている感覚器官があって②、
さらに感じたコーヒーカップを心で受け止めて③、何らかの判断の上記憶します④。
そしてさらに、自分が観ている時のコーヒーカップを思い描きます⑤。
そしてさらに、自分が観ていない時のコーヒーカップも思い描きます⑤。

カントによれば,現象は認識主観によって構成されるものであり,物自体ではない。
物自体はむしろ現象の根源にあるもので不可知物であるが,思惟可能な仮定であり,
カントはこれを現象の背後に仮定せざるをえない思惟の要請であるとした。(コトバンクより)

上記状況を図にすると 図Ⅰ になります。
図Ⅰ


①~④までは、世界を捉えるときの普通の流れですが、

カントの「現象は認識主観によって構成」と言う言葉から判断すると、
図Ⅰの②③④をまとめて「認識主観」という言葉で表現されていると思います。
そして「物自体」⑥は「不可知物」であるが「思惟可能」と、
感覚器官では捉えられず人間が考えて初めて「ある」ものであることをも認めているのです。

図Ⅰの⑤はいわば記憶に残っているものなのですが、
本来なら「心」から「記憶」に向かっている矢印とは別に、
その逆方向にも「思い起こす」矢印が必要です。

⑤は自分の世界に入れずに客観的に捉え直されたものとして、
別の世界に入れました。


私は哲学するとき、最初から疑問に立ち向かうのではなく、
その疑問を解くために人間にはどういう能力が与えられているか、
それを知ることがとりあえずの出発点とします。

例えばコーヒーカップの疑問について言うなら、
哲学者のように自分の「目」だけで疑問に答えようとはしません。
人間には前向きには目がありますが、後ろ向きにはないのです。

でも、後ろに回せる手があり、それでコーヒーカップを触って確かめることができます。
また、後ろを覗ける鏡などの道具を作る能力もあります。
また、他の人に聞いて見えないところを教えてもらうこともできます。

このように自分の目だけではなく、自分の他の感覚器官や
他人の力を借りても疑問を解くことができます。

逆に言えば、その与えられた能力以上のことはできないということです。
カントの言う「物自体」(カントは後にその存在を否定していますが)は、
考えることつまり空想はできますが、その存在を確認する能力がないのです。
図Ⅰの「物自体」を確認する感覚器官はないのです。

だから、人間に与えられている能力は何かを知ることが出発点です。
もちろん、それは新しい能力の発見をさまたげるものではありませんが、
それでも人間行動のすべてを捉えることができるようになるのです。


私の哲学の方法(Ⅲ相対的位置づけ)へつづく、

私の哲学の方法(Ⅰ言葉)

哲学とは限らないが、どんな学問でも
できるだけ多くの人に理解してもらうために
できるだけ易しい言葉で表現されることが望ましい。

一方で学問は正確である必要性から、
使う言葉の定義がなされることが多い。
例えばユークリッド幾何学では、「点」とは部分に分割できないものである、
「線」とは長さがあって幅のないものである、といった具合である。

定義以外にも公準なんてのもあり、
それらはすべてワザワザ言うようなことでもない
当たり前のことが書かれている。
その定義や公準を組み立てて定理を導いているのである。

哲学というのも当たり前のことから出発して
それらをどう組み立てるかだと思う。
だから私の哲学には当たり前のことが書かれている。

ここでも定義に用いる言葉はできるだけ易しい言葉を使い、
定義に難しい言葉を使うと、またその難しい言葉の定義が必要になり、
その作業が際限なく続くことになる。

物理学においても用いる用語を易しい言葉で定義が試みられた。
詳しいことは不勉強で分からないが、結果は易しい言葉に定義することは「困難」だった。
そこで、これ以上は定義しない「無定義概念」というのがいくつか決められて、
すべてはこの無定義概念に集約できるようになっている。

無定義概念と言ってもそれほど難しいものではなく、
「空間」「時間」「質量」「熱」「電荷」などで、
定義がなくても現実の対象を指し示されれば理解ができるものである。

私は哲学をするとき、特に哲学専用の言葉を使うことはせずに
人類が長い歴史の中で作り上げてきた生きた言葉の中から
出来るだけ易しい言葉で単純に表現できるものを選んで使っている。

物自体とか客体自体とかそういう厄介なものを取り込まなければ、
難しい哲学用語は使う必要は感じない。
日常使っている言葉でほとんどは通用する。
具体的には、「世界の構造」で使った言葉などがそれである。

世界の構造で使用した用語も無定義概念としたいところである。
ユークリッド幾何学も近年では用語の定義を廃し、
無定義概念とされるようになったようである。

ちなみに、ドイツの哲学者カントの哲学は
田舎のオジサンでも使っているような言葉で書かれている。
私はもちろんドイツ語は分からないが、えらーい哲学者がそう言ってました。
ドイツを旅行した人が、「哲学用語をみんな使っている」と言ってましたが、
正確には哲学者が日常の易しい言葉を使っているのである。


私の哲学の方法(Ⅱ出発点)へつづく、

ラフ カヴァティーナ

ヨーゼフ・ヨアヒム・ラフ(Joseph Joachim Raff, 1822年5月27日 -
1859年に発表したヴァイオリンとピアノのための6つの小品の中の
「カヴァティーナ」が人気となる。
長い間、その全体像を知ることが難しい忘れられた作曲家であったが、
近年、再評価の機運も高まり、マルコ・ポーロ、チューダー、cpo、シャンドスなどから
交響曲全集がCD化され、室内楽作品のCD化も進んでいる。

Wikipediaより



ウィーンの音楽時計

コダーイ作曲の組曲「ハーリ・ヤーノシュ」は
ほら吹きの初老の農民(私のことではありません)の話だそうですが、
その第二曲に「ウィーンの音楽時計」というのがあります。
何となくお正月向きの曲と思ったのですが、
そう思うのは私だけかも。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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