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みっともないところに自信を持て

普通、自分の優れているところに自信を持つものです。
科学の知識とか、スポーツの技術とか、芸術の才能とかですね。

しかし、こういうものは上には上があるものですし、
科学は科学でも部門が違っていたりすると分からなかったりします。

そういう場面にぶつかったとき、答えられなくて恥をかいたり、
プライドが傷ついて立ち直れなくなったりします。

また、誰かと議論していても自分の優れた部分に自信を持っていると、
負けてもそれを認められず、意地を張ってしまいます。
宗教者の中にもそういうお方がいらっしゃいますね。

しかし、自分はまだまだ知らないことがあることを知っていて、
ある部分ではみっともないほど知らないということ、
また、知っている筈のところでも意外な落とし穴があることを知っていると、
そういう場面に遭遇しても、意地を張らずにすみます。

さらに徹底して、自分の知識の乏しさを知ることで、
いつでも新しい知識を受け入れることができて、
間違いや知識の無さを指摘されても、プライドは傷つきにくいのです。

むしろ、それは普通のことして受け入れられ、
すぐに指摘された部分は新しい知識として自分のものとできます。

議論していて相手の話が理解できないときにも、
「残念ですね。自分の誤りを正そうと思っていましたが、
理解できなくて正すことができませんでした」と、こういう返し方も可能になります。

もっともっと自分のみっともないところを見つけて
それに自信を持つと、気楽に議論ができるようになります。


続きます。

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遠まわしな言い方、使い方

言葉はコミュニケーションの道具ではありますが、
その使い方はまちまちで、会話の道具でもあるし、
書き物にして伝言や手紙や広告や、
はたまた、小説や論文や新聞やその他いろいろあります。

こうしたコミュニケーションの媒体もいろいろありますが、
コミュニケーションの仕方もいろいろです。
一般的には普通の使い方、
つまり本来の言語表現でそのまま伝えることが一番多いです。

しかし、中にはちょっと変わった方法も使います。
先の記事「どれが本当の気持ちか」で例にしたウソで騙すやり方もあります。
暗示をかけて思う方向に誘導することもあれば、
遠まわしに言って、気づいてもらうこともあります。

今日はこの最後の
遠まわしに言って気づいてもらう方法について考えてみたいと思います。


遠まわしに言うとしても、いろんな場合があります。
ずばり言っては傷つけるので遠まわしに、とか
ずばり言っては喧嘩になるので遠まわしに、とか
いやみのつもりで遠まわしに、とか、
カラカイのつもりで遠まわしに、とか、その他いろいろ

また、伝わり方にもいろいろありますね。
何も感じられず伝わらなくて目的を果たせない場合
間違って受け取られて目的を果たせない場合
伝わっていても無視されて目的を果たせない場合
伝わって目的を果たせた場合

その上に、受け取る側の精神状態や発言時の周囲の状況、
その他いろいろの要素が加わって、
その後の展開は予測が難しいですね。


私はこういう遠まわしな言い方はできませんし、
言われても鈍感で気づかないことが多いようです。
多分、不器用な人間だからでしょうね。

凡人のたわごとでした。

どれが本当の気持ちか

先の「完璧に伝わる必要はない」の続きです。

例えば、医師が患者に「胃潰瘍です」と言ったとします。
しかし、その患者さんは実際は末期のガンだったのです。
医師は患者にウソを言ったのですね。

この場合、医師の本心というか本当の気持ちは何なんでしょうね。
実際は末期のガンだったのですから、「末期のガンです」というのが本心でしょうか。
いや、それは違いますね。

医師は患者さんに胃潰瘍と思ってほしかったのですから、
「胃潰瘍です」というのが本当の気持ちなんです。


ウソとまでは言えなくても、こういうことってよくありますね。
「ちょっと、相談したいことがあるんだけど、明日空いてる?」なんて聞かれて、
用事があっても「空いてるよ」なんて答えてしまったり、
何か物をプレゼントするときも「こんなのもらってもいいの?」と言われて
相手に気を使わないようにと「まだ家に沢山あるから」なんて言ってしまったりします。

本当は自分にも負担になることであっても、
相手との関係を良好に保とうとごまかしてしまいます。
こういうケースも、相手に思っていてほしいことが本当の気持ちですね。

よく「自分に正直」なんていいますが、
それは「事実に正確である」とか「自分の都合に正直」とかいうのとは違います。
「自分に正直」とは相手に「思っていてほしいことに正直」ということですね。


うすうすウソと感じていても、
それを信じてあげるのが一番のようですね。





次回は、聞いた話だけでは判断が困難な場合とか、
遠まわしに言われた場合などについて記事にしたいと思います。
まだ、中身は全く霧の中ですが、これから考えます。

完璧に伝わる必要はない

他人の心は見えないので、
出てくる言葉で判断するしかありません。

しかし、言葉は心を伝える道具としては不完全なもので、
十分に伝わらなかったり、誤解されたりしますし、
時には、だまされたりもします。

でも世界は、この不完全な言葉でつながり、動いています。
つまり、世界が動くために、心が完璧に伝わる必要はないのです。


人に買物を頼むとき「ほうれん草一束買って来て」なんて頼みますよね。
別に、なぜほうれん草が必要なのか、
どういう料理に使うのかなんて分からなくてもいいのです。

とりあえず、ほうれん草を買って来てもらえばいいのです。
心が完璧に伝わる必要はないのです。

ガタっと、話が現実に戻りますが、ウチのカミさんによく買物を頼まれます。
カミさんはかなり大雑把な人で、私は私でかなりボーッととぼけているもので、
なかなかカミさんの心が伝わりません。

たいてい何かを忘れてもう一度買物に出ることになるのですが、
カミさんは「言った」と言い、私は「聞いてない」と言い、喧嘩が絶えませんね。
しかし、最後には目的のものがそろって、めでたしめでたしです。

一回で上手く伝わらなくても、何回かやり取りをすることで、
言葉の道具としての不完全さを補い、目的を果たすことができます。




だまされたりその他いろいろのケースについては、
次の記事で書きたいと思います。

人の心は変化する

「初志貫徹」なんて言葉がありますが、
こうと決めたら最後までやり通せ、ということでしょうか。
私はどちらかというと「臨機応変」という言葉が好きですね。

世界は絶え間なく動いています。自然も社会も人の心もです。
「初志貫徹」なんて言ってられないこともあります。
例えば、大学受験である大学を目指して勉強しているとします。
しかし、親が失業して学費が工面できなくなったら諦めなくてはならないですね。

でも、模擬試験の結果、その大学に合格する確率が30%とか50%とかいうときは、
「初志貫徹」するのかどうか微妙ですね。

いったん「初志貫徹」と宣言してしまうと、
多少無理をしてでも「やらなければ」となりますが、
「臨機応変」となると、それはかなり柔軟に対応できます。


よく、カミさんが私に「分かっている筈だ」と言います。
私のいつかの発言を捉えて言っているのだと思うのですが、
人の心は変化するもので、いつまでも同じ気持ちでいる訳がないのです。

社会も変化しています。それにつれて私の心も変化します。
「分かっている筈だ」と言われても分かりようがないのです。
その判断が曖昧な情報や不確かな記憶や無理な推測に基づくものであればあるほど、
心は揺れ動き変化しやすいものです。

「初志貫徹」 = カッコイイ
「臨機応変」 = 優柔不断
というイメージですが、私は後者「臨機応変」が好きですね。

27歳のときの自分

娘が27歳になった。
悩み事があるらしいのですが、
私に「お父さんの27歳のときってなにを考えていた?」と聞くのです。
私はとっさに「ボケーとしていた」と答えました。

そのときに何をしたいたかなど何も考えずに答えたのですが、
私は大体いつもボケーとしているのでそう答えたのです。

よく「あのころ何があってこうこうでこうした」なんて具体的に話す人がありますが、
私にはそれが不思議なんです。
言われてみればそうだったな、と思うことはありますが、
余程印象的な出来事とか、自分にとって大事なこと意外はあまり記憶に残らないみたいです。


「ボケーとしてた」といいましたが、
正確には今起きている事象には関心がなくて、別のことを考えていましたね。
たとえば、「何のために生きているのか」とか「宇宙の果てはどうなっているのか」とか
まあ、そんなつまらないことを考えていたようです。

その結果、授業中に先生の話がミミに入っておらず、
先生に質問されて答えられないことしばしばでした。
今でもそれは変わりがなくて、よくカミさんから叱られています。

これは、私の個性で悪いこととは思っていません。
世間の雑音もどのくらい聞こえているか疑問です。
悪く言えば「世間知らず」というやつですね。

なさけない。

「認める」ということ パートⅡ

先の「認める」ということでは、自分から相手の個性を認めるという形で書きましたが、
実は相手も同じように見ていて、相手にとっても同じことが言えます。
つまり、お互いに認め合うことが必要です。

ところが、その個性が多数派であると、それは個性というより一般化されて、
こうでなければならないとなってしまって、
少数派の個性が異端扱いされてしまいます。

「変わり者」とか「変人」とか、いろいろレッテルを貼られて、
その個性は改めなければならないものとなってしまいます。
大人の世界ならまだ「変わり者」が売りにできて、歓迎されることもあるでしょうが、
子供の世界ではそれが「いじめ」の対象になったりします。

子供の世界では「あの人はああいう人」とはならない、
というか、そういう理解がまだできない精神状態なのでしょうね。
そこが子供のイジメの難しいところですね。




ここまで書いたところで、「変わり者」とイジメられる人間とは、
あまり関係がなさそうなので、続きを書くのが嫌になりました。
これでアップしてしまいます。

たわごとですので、お許しを。
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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