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絶対的世界を求めて (私の哲学 Ⅹ)

死なないために食欲があり、滅びないために性欲があるのですから、
欲があるから生きてられるし、人類は滅びずにいられのです。

欲を悪として、禁欲生活をしようとする人や、
欲に根ざした文明を拒否しようとする人がありますが、
そんなことをしても無駄です。生きるためには欲は必要なんです。
そのような体に創られて与えられているのです。

ただ言えることは、私たちは対象を見るとき、
いつもこの欲を通して見ているということです。
よく言われますが欲で捻じ曲げられた世界をみているのです。
たったら、欲を通さないで見たらどう見えるか知りたくなりませんか。

欲を完全に取り去るためには死ぬしかありませんが、
一時的に取るとか少しだけ取るというのはできます。
そのようにして世界を見てみると、これまでとは違って見えてきます。


欲を通さない世界、結論を書きます。
欲を通した世界は相対的世界ですが、通さない世界は絶対的世界です。
相対的世界は例えば、「善」があるから「悪」があるというような、
すべてのものは相対的に存在しているというそんな世界です。
絶対的世界は、「善」とか「悪」というものがない世界です。
「生」も「死」もないし、「好き」も「嫌い」もないのです。

私もよく、事柄を欲抜きに見ようとしてみます。
今、苦しんでいることも、欲がなかったら何の変哲もない事柄だったりします。
こういう経験を重ねることで、徐々に欲を通さない世界を知ることができます。
いったん、この世界の心地よさを体験すると、この気楽さ加減はやめられなくなりますね。

あれが欲しいこれが欲しいと思っていると、その希望が叶わないとイライラしますが、
「欲しい」と思ってないと与えられた時は嬉しいものです。
与えられるままに生きる気楽さ、これは味わってみる価値はあると思います。
これが欲を通さないものの見方になります。


こういう世界の捉え方は、宗教特に仏教の捉え方になりますが、
宗教のように人間を「悪いもの」「罪深いもの」という捉え方を私はしたくないのです。
確かに人間は欲深い者ですが、そのように創って与えられているのですから、
そんなにそれを悪くいうのはどうかと思います。

そんなに人間が悪いものではない証拠というわけではありませんが、
人間は社会を作って助け合って生活しています。
自分を犠牲にしてでも他人を助けることもあります。

これが私の哲学です。    完。

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「時間」の正体 (私の哲学 Ⅸ)

自分は何者か、この世界は何なのか、という哲学的疑問に答えるために、
その疑問はどこから来たものか、その原因は何かについて、
[http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/62665415.html '''哲学的疑問の起源''']で述べました。

そこでは疑問の原因は「力」と「時間」を獲得したことにあると言いましたが、
そこで、特に「時間」について、もう少し分析してみたいのです。


「力」が働くためには「時間」の経過が必要ですが、
何のために「力」が働くかと言えば、自分の欲望を満たすためなんですね。
「欲望」つまり「[http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/62623846.html '''心''']」という記事で③番目に挙げたものです。

「時間」という実態はない([http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/19194848.html '''時間について''']参照)のですが、
欲望を実現するための道具として出来上がったもので、心の中には「時間」はあるのです。
つまり、欲望を手助けしているものが「時間」の正体なんです。

これまでに①事実判断②価値判断は述べてきましたが、
この①②の判断も③つまり欲望を通過して、自分の欲望に照らしてから行動に移ります。
そして行動することによって、外界からの情報が得られて世界が回る([http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/62601671.html '''世界は回っている''']参照)のです。


例えば、核分裂のときに巨大なエネルギーが出る、という事実判断を、
この巨大なエネルギーを爆弾として使えば、戦争に勝って領土を増やせる、
この巨大なエネルギーを使って発電すれば、安く電気が造れる、
こんな巨大なエネルギーはコントロールが困難で使うべきでない、とか、
いろいろ自分の欲望に照らして、発電に使ったり、原爆に使ったり、使わなかったり、
つまり、どれが得か判断して次の行動に移ります。

「欲望ではなく理性で判断することもある」と仰る方もあると思いますが、
[http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/9620262.html '''理性という心はない''']という記事でも述べていますが、理性という心はないのです。
例えば、原子力のような巨大なエネルギーはコントロールが困難、という判断でも、
コントロールできなくなって自分にも危害が及ぶという損得勘定が働いています。

まだ、「私の哲学」は続きます。
多分、次が最後の稿になると思います。

自分に正直

このテーマについて何度も記事にしていますが、
いまだに「自分に正直」神話がまかり通っています。
自分の感性を大切にし、感じるままに「自分に正直」に生きる、
それが理想の生き方である、という訳です。

確かに、自分を押さえて他人の顔色をみている人もいます。
そこまでしなくてもと思える人や、かえってこちらが気を使ってしまう人もあります。
それはそういう人の悪い面ですが、悪い面だけではないのです。

自分が苦労して作ったものを他人が喜んでくれることが嬉しい、なんてことありませんか。
「苦労」は「自分を抑えること」ではないのです。
他人に喜んでもらうことが嬉しくてしているのです。

その人にとってはそれが自分の生甲斐なんです。
この人も「自分に正直」ですよね。
人が喜んでくれることが嬉しいから、人に合わせるのです。


「自分に正直」神話を信じている人の悪いところは、
自分(人間)には色んな状態のときがあるということが分かってないことです。
「殴ってやりたい」と思うこともあれば、状況によっては「殺してやりたい」と思うこともあります。

自分に正直であろうとすると、
殺してやりたいほど憎いやつがいたら「殺すべし」という結論になるでしょうね。
実際にそう思っている人は、思うより多いと感じています。

「自分に正直」神話を信じていても、この世界の中に生きているのです。
自分の主張を通したいのもこの世界ででしょ。
だったら、この世の中を構成している他人と協調できなければ生き辛いですね。
それこそ仙人のように山奥で一人で生活するしかないですね。

「自分に正直」は絶対によいとは限らないことを知ってほしいですね。

お墓は生きている者のためにある

お盆なので、お墓の話でもしましょう。
ちなみに我が家にはお墓がないのですが、
お墓のあるお宅ではこの時期は墓参りのときですね。

お墓の前でどんなことをお参りなさるのでしょうね。
亡くなった方との対話でしょうか。
一年間の出来事のご報告でしようか。

私はしたことがないので分りませんが、
死んだ方の前では言葉が浮かんで来ないのです。
浮かんでくるのは命のはかなさででしょうか。
私の場合は、むしろそこから遠ざかりたい気持ちの方が強いかもしれません。


私は、お墓は生きている者のためにあると思っています。
生きている者が死を恐れ、死んだ人に「安らかに」と願っている、
生きている者の気持ちの表れでしょうね。

死んだ人は死ぬことですでに安らかなんです。
むしろ、生きている我らを案じていることでしょう。

同じようなものが、生きている者の世界には沢山あります。
いつも素晴らしい記事を書いてくださっている無言石さんが、
「天国も生きている人のためのもの」と仰いました。
そうだと思います。

皆さん、お墓参りは済まされましたか。

哲学的疑問の起源 (私の哲学 Ⅷ)

それを意識しているかどうかの違いはありますが、
大部分の人は、私の哲学Ⅰ~Ⅶで述べた認識の基に生きていると思います。
ここで「すべての人」と言わなかったのは、例外があるからです。
哲学好きの人などは「それはそうでもその理由が知りたいのだ」と言います。

そこで、その理由について、これまでにアップした記事を流用して、
若干訂正し加筆して再投稿しました。

自分が生まれたとき、自分には何の「力」もなく、すべては母親の手の中にありました。
生まれたときは感覚器官で感じられる範囲が世界のすべてであり、
「時間」の感覚はなく、只今現在があるのみでした。
それが成長するにつれて、自分に「力」ができてきて、その「力」で何かができるようになります。
そしてその「力」で欲望を満たすことができることを知ります。
「明日はあれをしよう」と希望が生まれ、「時間」の感覚が生まれてくるのです。

「時間」の感覚が生まれたことによって、自分には未来があることを知り、
その未来に希望を抱き、夢を描くが、同時にやがて死に至ることも知るのです。
希望や夢、そしてそれを可能にしている身体が、死によって失われることへの恐怖と不安が、
自分の目の前に現れてくるのです。
そしてこの自分は何者かを問い、この世界は何なのかを問います。

自分が成長することによって現れてきた「力」「時間」が、哲学的疑問の起源です。
哲学はあくまでも自分の「力」でその疑問を解こうとしますが、
宗教は、その疑問の起源・原因になっている「力」を取り除くことにより、
疑問自体を解消しようとするものです。

ここで「力」というのは、文字通り体力もそうですが、
知識や財力や人脈や、その地これまでに築きあげたものすべてのことです。

まだ、続きがあります。

今こそ無利子の国債を発行するとき

無利子ですので誰も買わないと思いますので日銀に買ってもらいます。
そして日銀はその金額の紙幣を印刷して発行します。

今、東日本大震災の復興に使う資金をどうして調達するかでモメていますが、
この無利子の国債分の紙幣を発行すれば、すべては解決です。

無利子ですから利息は払う必要はありませんし、
返済もとりあえずは棚上げにして、余裕ができるまで放置すればいいのです。

今、円高で苦しんでいますが、これも一挙に解決します。
円の価値が下がれば輸入品は高くなりますが、その分国内の企業は競争力ができます。
海外に生産拠点を移していた企業も、国内生産に戻しても成り立ちます。
失業者を少しでも救うことができます。


もちろん、いい点ばかりではありません。
一番心配なのはインフレです。

しかし、これだけの大震災に遭って何も損失がないなんてことはありえません。
低所得者に対しての配慮をすれば、
少しくらいのインフレは克服できると思います。

みなさんのご意見をお聞かせください。
これでこの手の記事は三回目のアップとなります。

自分の個性を見つける (私の哲学 Ⅶ)

この社会で法律の許す範囲で生きてゆくとしても、
その生き方には幾通りもあります。
その中のどの生き方を選ぶか、その選び方も問題です。

すべてこの世界は与えられてあるものです。
自分の性格も与えられてあります。
その性格は人それぞれで、それが個性です。

この与えられている個性を見つけて、
その個性に合った生き方を選ぶのが自然の成り行きでしょうね。

ギターが好きだからギタリストになりたい、
マンガが好きだからマンガ家になりたい、
野球が好きだから野球選手になりたい、

子供のころは、こうした夢を描いて生きていますが、
それが現実となるのは就職するときですね。
自分の個性に合わない職業は選びませんよね。

そうでもありませんか。
倒産しない大きな会社とか、仕事が楽な会社とか、
そういう基準で選んでいる人もあるようですね。
そういう人はそういう人で別の哲学(生き方)あるのでしょうが、
しかし、自分の個性に合っているにこしたことはないと思います。


どう生きるかは、単に仕事だけの問題ではないと思います。
他人との接し方にしても、自然との接し方にしても、
問題の解決の仕方にしても、個性があります。

これらも人それぞれですね。
こうしたことにもその人の生き方が表れます。
それらすべてを総合したものがその人の「生き方」ですね。

理想の世界の実現を目指して生きている人もあれば、
欲望のままに生きている人もあります。
仕事に生涯を懸ける人もあれば、余暇を生甲斐とする人もあります。
自分の家族の幸せを第一に考えている人もあります。

法律を守って生きている限りは、
どのように生きてもそれはそれで許されるもので、
大袈裟に言えば、それらどれもが一つの哲学になるでしょうね。

みんな自分の個性を見つけて生きているのではないでしょうか。
というか、その個性が正当でありみんなもそうすべきだ、とくらいに思っているでしょう。
中々それぞれの個性を認めるところにまではならないのが普通のようですね。

私の哲学はまだ続きます。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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