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心は「ある」か。

私たち一般人が「何かがある」と判断するときはどんな時でしょう。
見たり聞いたり触ったりすることができるものは「ある」と言えますね。
それから何か道具、顕微鏡とか望遠鏡とかその他計測器で確認できるものも「ある」と言えます。

物理学はこうした五感で感じられるものなど計器で捉えられるものを計測し、
そこにある数的規則性を捉えることで成り立っています。

それでは心は何で捉えるのでしょうか。
心は脳の働きですので脳波を測定して捉えられるという考え方もあり、
心は物に還元できるので「ない」という人もあります。

しかし、脳波と心がイコールであるかどうかは分かりません。
少なくとも、例えば今「胃が痛い」という心の状態は脳波では見えないでしょう。


私たちが心はあると信じているのは、こうした物理学的な捉え方ではなく、
もっと違った方法で心を捉えて信じています。
それは言葉です。

言葉で例えば「胃が痛い」と聞けば、その人は今胃が痛いのだと分かり、
この胃が痛いときの心の状態を理解できます。
これは物理学的に「胃が痛い」という声(音)を捉えているのではなく、
そこに含まれている意味を理解しているのです。
そこには数的規則性などはないのですが、はっきりと心の存在を感じることができます。

何かがあるかないかを物理学的な捉え方ができるかできないかで決めていいのでしょうか。
私は物理学的な捉え方がすべてではないと思いますし、
他の捉え方を否定する理由はどこにもないと思っています。
したがって、心は「ある」と言えると思います。

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今日この頃の心境

生きていると、腹の立つこともあるし、悲しいこともあるし、苦しいこともあります。
もちろん、楽しいこともあります。
そして、それを見ている自分がもう一人います。

もう一人の自分から見ると、
腹の立つことも、悲しいことも、楽しいことも、苦しいことも、
すべてが生きていることの証と見えてきます。

人間とはかくも面白いものかと思えてきます。
自分自身も面白いし、他人の姿も面白いですね。
生きているのはこんなに面白いことなんです。

負け惜しみで言っているのでもないし、
格好をつけて言っているのでもありませんよ。

いろんな人がいて、いろんなこと言ったりしたりしています。
その中に自分もいます。
これがこの世なんだと思えます。


自分の思い通りにしようとすると、思い通りにならないと腹が立ちます。
多くの場合の解決策は諦めることになりますが、
そうなる前に成り行きに任せて、与えられるままに生きていると、
多くのことは、腹も立たずに「それもいい」と思えてきます。

苦しいときは一歩引いて、もう一人の自分になって、自分を観察すると面白いですよ。
あまりあくせく生きるのも考えものですね。

個性を重視した教育

まずは、いかなる個性も認めるということが必要です。
ただし、病気(精神的な)の人は除きます。
しかし、いかなる個性も認めると全く正反対の個性が共存しなければならなくなり、
そうなると社会に矛盾が生じて維持が困難になりますので、
最低限「これだけは守ろう」という約束を作って社会を維持する必要があります。
その最低限の約束というのが今の社会で言えば法律になること。

そして、その他にも約束事はあり、
企業に就職すればその企業の就業規則があり、学校に入学すれば就学規則があり、
その他の集団にも、大なり小なり決まりがあって、
それを守らなくてはならないことは基本として教える必要があります。

法律とその他の約束事との違いは、
法律はだいたい国家単位で制定されていて、容易には国は変われませんのでほぼ強制的ですが、
その他の約束事は、気に入らなければその集団から抜けられます。
それだけ自由で個性を主張できるということです。


これだけだったら今の社会と何ら変わりませんが、
もっと積極的に個性の尊重を教える必要があります。
個性に関する教育は今はほとんどなく、細かく規範を押し付けています。
これではむしろ個性をつぶしてしまいます。

明るく元気な子は褒められますが、暗くて愚図な子は叱られます。
どちらかが良くてどちらかが悪いのです。
みんな良いところと悪いところがあることは教えられません。

自立することは人間が成長するためには必要なことです。
親などの力を借りずに自分一人で生きて行ける能力は必要です。
ですから「自立しなさい」と教えられます。
しかし、自立の程度は個性によって異なります。

自分でなんでもできる、悪く言えば人の言うことを聞かない。
世の中、こんな人ばかりになったらどうなりますか。
大将ばかりが増えてまとまりがつかなくなります。

人に言われたことを忠実に実行できる、そういう人も世の中には必要なんです。
むしろ、そういう人の方が多く必要かもしれません。

個性は、良い面と悪い面が裏腹で一つであること、
それを知らせる必要があるのではないでしょうか。

宗教の目的 Ⅲ

宗教の目的は、欲を取り去りもっと大切な神や仏の存在を知ること、と言いました。
しかし一方で、欲を取り去ることなんでできない、とも言っています。
それではどうしたらいいのかと思えてきます。

例えば、欲を取り去ることは出来ませんが「諦める」ことはできます。
一戸建ての家が欲しいがお金がないから「諦める」。
欲は有りますが「諦める」ことで取り去ったとも言えます。

もともと欲はなかったことにすることもできます。
赤ん坊を見てください。欲はあるのでしょうが、どうしようもありません。
生かすか生かさないかは親次第です。
つまり、欲があってもなかっても同じなんです。ないのも同然ですね。

赤ん坊は与えられて生きています。欲を持つ必要がないのです。
生きてゆくのに必要なものは親から与えられます。
私たちも生きるのに必要なものは神仏から与えられていると思うのです。
ですから感謝していただきます。
そうするだけで、欲は取り去られます。

それは自分が神仏に見守られ存在していることに気付れば自然に分かることなんです。
欲を捨てる=神仏に自分を預ける、ということとも言えます。
欲を捨てるのは苦しいですが、自分を神仏に預けるのは楽だと思います。
自分で何もしなくていいのですから。神仏にしたがっておればいいのですよ。
神仏から与えられるままに生きればいいのです。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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