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無限について

「無限」というと何か特別なことのように思いますが、
日常的に無限には接していると思います。
というか、無限について考えていると言っいもいいと思います。

あの丘の向うに何があるか、この海の向うに何があるか、
そしてさらにその先は、と無限に興味がわいてきます。
それが無限の始まりです。

毎日接している世界は、必ずその先があります。
だから何時までもその先を追いかけたくなるのです。

しかし、大地は無限ではありませんでした。
人間の感覚というのも精度には限界があるのです。
大地が曲がっていることを感じられる精度がなかったのです。


人間が感じられる範囲の世界、しかも精度の悪い感覚器官で感じられる世界、
そこから判断できるものも、おのずと限度があると思います。

「無限」という考えは、その限られた判断から出てきたもので、
現実には存在しないものと、私は思っています。

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「思う」の使い方

文の終わりによく「・・・思う」とか「・・・思います」と書きますが、
考えてみれば、文に書く内容というのは、心で思ったことですので、
わざわざ「思う」とか「思います」と言うこともないように思えます。

しかし、現実には「思う」とか「思います」という言葉をよく使います。
人にもよるかもしれませんが、私はよく使います。
言わなくても分かっていることを、どうして書く必要があるのでしょうか。

具体的に見てみましょう。

①地球は丸い。
②地球は丸いと思う。

この①と②はどうちがうのでしょうか。
現在では「地球は丸い」は常識ですので「思う」と言うと「常識知らず」になってしまいます。
だから普通なら①でよく②は使いませんね。

③明日の天気は晴れだ。
④明日の天気は晴れだと思う。

気象予報士なら③でないと困りますが、
一般人なら④でも自信のなさが伝わってきていいですね。

この記事から例を取ってみましょう。
⑤わざわざ「思う」とか「思います」と言うこともない
⑥わざわざ「思う」とか「思います」と言うこともないように思います

⑤は断定していますが、実際にはそうとは言えないこともあるので、
ここでは⑥の方が、あくまでも自分の意見であることが分かって、
適切な表現になっていますね。

このように、「思う」とか「思います」を使った方が良いこともあるのです。

宗教者の生き方 2

前回の記事で「いつ死んでもいい」生き方といいましたが、
これは命を粗末にするということではないことを、まず申し上げたい。
「いつ死んでもいい」と言っても、今すぐに死ぬわけでもないし、
死期を速めるわけでもありません。
生きてゆく上での心積もりを言ったまでです。


悟った人は、もちろん幸せですし、神仏に守られているという自覚もあるでしょうし、
与えられるままに任せておれるのですが、
ところが、時間が経つにしたがって、そういう気持ちというのが薄れてくるそうです。

悟ったらそれだけで生きてゆけるものではありません。
食料を得なければ死んでしまいます。
だから働いて食料を得なければなりません。
つまり俗世間で生きてゆかなければならないのです。

与えられるままに任せていては、仕事にならないこともあるでしょうし、
神仏を振り返る時間のないこともあると思います。
だから、いつでも神仏を忘れないように祈ります。
これは宗教者の生き方に大きな比重を占めていると思います。

祈りなんていうと、一般の人たちは何かお願い事をするくらいに思っていますが、
そうではなく、神仏への敬虔な気持ちを確認することなんです。



(この記事は、私にはかなりきついものでした。
私の独断で書いたことですので、これはすべて私の考えだと思ってください。
ご批判をお待ちしています。)

宗教者の生き方

牧師さんや僧侶さんはもちろんですが、
信仰を持っている人が、日常どんな心構えで生活しているのか、
なかなか知る機会がありません。

私ももちろん、詳しいことは知りませんが、
ある宗教者から聞いたところでは
「いつ死んでもいいように生きる」ということでした。

どの宗教者もそうしているとは思えないのですが、
この言葉は宗教の本質をついていると思うのです。

どういう状態だったら「いつ死んでもいい」状態なのか、
少し考えてみたいと思います。


「いつ死んでもいい」言葉を変えると「思い残すことない」とも言えます。
仕事でも趣味でもいい、何かやり残したことがあると、心残りですよね。
何か使命感のようなものがあって、活動をしていたら、
それも心残りでしょうね。

「いつ死んでもいい」ということは、将来に達成するものがない、
つまり、希望や夢が残っていない、ということではないでしょうか。
あるいは希望や夢を捨ててしまったのかもしれません。


希望や夢というのは、生きてゆく上では大切なものです。
特に若い人にはなくてはならないものです。
しかし、この希望や夢というのが、ときに苦しみや悩みの種になるのです。
だから、その苦しみや悩みを逃れて宗教者になるわけです。

「いつ死んでもいい」すなわち「希望や夢がない」
すなわち「苦しみや悩みがない」ことなんです。
そして、与えられるままに生きる訳です。

信仰を持たないものには理解は難しいことですが、
人それぞれで性格も違うし経験も違います。
一概にあり得ない世界ではないと思います。

ちなみに私は「いつ死んでもいい」とまではいえませんが、
一日だけ未来(希望や夢)をもらっています。

裏切られる

よく人に裏切られたなんていう人がいますが、
どういうことを指して言っているのでしょうね。

いろいろ世話をしてやったのに、恩を忘れて去っていったとか、
生涯の友を誓ったのに、再会しても冷たい態度だったとか、
絶対返すという約束で金を貸したのに、返さずに逃げたとか、
その他、いろいろあるでしょうね。

いずれも与えたのに、
それに見合う返礼がないことを「裏切られた」と言っています。
見返りを期待していると、見返りがないと裏切られたとなるのですが、
相手にもいろいろの事情があるもので、
聞いてみれば「そうだったのか」と納得のできることもあります。

見返りを求めるということは、
損をしたくないという思いが心の隅にあるからです。
見返りを求めるのではなく、
お役に立てればいい。それで自分も嬉しいのだから、
と思っておれば、腹も立たないと思います。


お金を借りて、返さずに逃げるというのは、
考えてみれば、それだけ困っていたということですよ。
それに引き換え、自分はお金を貸すだけの余裕があるのです。

たとえお金に困ってなくても、返さずに逃げる人もあります。
しかし、そういう人はもう普通のプライド(神経)を失った人です。
もう自分は悪人であることを世間にさらけて生きている人です。


自分が悪人であることをさらけられる、
私にはマネができません。
私はときどき思います「どちらが仏の近くにいるのかな」って、

神におべんちゃらを使うことはない

毎日、体裁を繕って、欲望を抑え、自我を抑えて生きています。
まともに欲望のままに生きたとしたら、とても世間からは許されません。

社会の中で生きるためには、社会の規範がありますし、
人との付き合いも相手の気持ちも考えてしなければならないし、
運悪く、仕事に行き詰まることもあります。
それでも、体裁を繕って生きてゆかなければなりません。

言わば、本当の自分は隠して、
悪い自分は隠して生きているわけです。
もっと言い方を変えれば、良い自分を演じているわけです。
その上に、神の前でも「良い行いをします」と誓っているのです。

でも、私は思うのです。
神におべんちゃらを使うことはないと思いますよ。
神の前くらいは正直に振舞っていいのではないでしょうか。

神に怒ってもいいのではないでしょうか。
神に甘えてもいいのではないでしょうか。
神に自慢をしてもいいのではないでしょうか。

神は人間のすることなどみんなお見通しですよ。
神は許してくれますよ。きっと。

倫理と宗教の違い

倫理は、人と人との約束事です。

他人に対してしてはいけないことを規定します。

だから、倫理は行動に対する規範です。


宗教は、自分あるいは神仏との約束事です。

もちろん、宗教も他人に対しての規定ですが、

自分に課したというか神仏から与えられた規範ですので、

宗教は自分の心に言い聞かせたものです。

だから、心で思うことも規範の対象です。

人間は自由なのか不自由なのか

私は以前に人間は生まれながらにして不自由であるという記事を書いたことがあります。
この世界で生きてゆくためには、法律も守らなければならないし、
いろいろの規則も守らなければなりません。
だから生きるということは不自由なものなんです。

しかし、考えてみれば、
法律や規則というのは絶対に守らなければならないものではありません。
実際、守らない人もいますね。
ということは、不自由と言いながらも自由に選んでいるとも言えます。

自由には行動できないが、自由には選べるのですから、
それも自由と言えなくはないでしょうか。
もう一方の方を選ばなかっただけですよね。


生きるということは、この世界で生きるということです。
この世界がなかったら生きる場がありませんね。

この世界でどう生きるか、ということは、
この世界をどう選ぶかでもあると思うのです。
嫌なものは選ばないという自由がありますし、
好きなものを選ぶという自由もあるのです。

人間は生まれながらにして自由なのです。
なんか矛盾していますね。
みなさんのご意見をお願いします。

論理的判断の欠点

物事を判断するとき、人間は二種類の仕方があります。
一つは論理的判断で、簡単に言うと理屈で考えることです。
もう一つは感情で判断することですが、
今日は一つ目の論理的な判断の欠点についてです。

論理的な判断というのは、前提になる条件があって、
その前提から導き出された答えに従うことですが、
その前提が曖昧であったり、不確かであったり、時には間違っていたりしても、
その導き出す過程だけに気を取られて、前提を確かめない、
欠点と言えばそんなところでしょうか。

ゼノンのパラドックスも前提になっているものが、
間違っているために生じているもので、
パラドックスでもなんでもない話のようですね。


私は実はこの論理的判断を重視するタイプの人間ですが、
ウチのカミさんは感情で判断するタイプの人間です。
私がいくら理路整然と説明しても、カミさんは納得しないことがあるのですが、
理由を問い詰めてみると「理屈がそうでもそうは思えない」というのです。

そういうとき、じっくり私の前提を考え直してみると、
不確かな前提があることに気付いたりします。
私の記事にもこういうのが沢山あると思うのですが、
なかなかそこを突いて来る人は少ないですね。
そこを突かれるとお手上げですが・・・・。

犬派か猫派か

犬派か猫派かという話題でよく盛り上がっていますが、
この記事を書こうと思ってネットで調べてみたところ、
純粋に、犬が好きか猫が好きかの話のようですね。
私はてっきり、犬的性格が好きか猫的性格が好きかの話と思っていました。
で、この記事は犬的性格が好きか猫的性格が好きかの話を中心にします。

猫はあのしぐさの可愛さで得をしていますが、
性格的に好きかどうかということにしますね。

猫の性格は一言で言えば「わが道を行く」という感じで、
良く言えば「自分に正直」と言えますが、
悪く言えば「わがまま」ですね。

犬の性格は一言で言うのは難しいですが、
良く言えば「従順で義理堅い」ところでしょうか。
悪いところは「顔色を伺うようなところがある」ところでしょうか。


人間社会も同じことで、
犬的性格の人もいれば猫的性格の人もいます。
これはどこまで自分を出すかの差だと思います。

人間社会ではいろいろの規範がありますが、
最低限守らなければならないのは法律ですね。
それさえ守っておれば自由です。

だから猫的性格の人は自由気ままに振舞いますが、
場合によってはそれがはた迷惑になります。

一方、犬的性格の人は他人の顔色ばかり気にしていて、
自分自身を出さないため、不信感を持たれてしまいます。


犬派か猫派かどちらがいいか決着をつけるのは困難でしょうね。
どちらも一長一短ですから・・・・・。
好みの問題でもありますので、決着をつける性質のものでもないと思います。

どちらにしても、極端は嫌われますので、
バランスの問題かもしれませんね。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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