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投票結果

自分の気持ちはどこまで出すか、という質問に答えていただきました。
その結果は次の通りです。

 選択肢                           比率  人数
1 相手の心を傷つけないように自分の気持ちを抑えることもある 63.6%  7人
2 相手の考えが間違っていると思うときは自分の気持ちを出す   27.3%  3人
3 相手の気持ちも立てるが自分の気持ちも出す          9.1%  1人
4 法律を犯さない限りは自分の気持ちを出す           0.0% 0人
5 相手と喧嘩しても自分の気持ちを押し通す           0.0% 0人

4と5はどなたも投票がありませんでした。
選択肢の設定がまずかったのか、投票数もすくなく、投票も偏ってしまいました。

私が投票するとしたら 3 になりますが、
もっと、そういう雰囲気が日本に根付いて欲しいと思っています。

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人間はなぜ「自由」という言葉に引かれるのか

自由であればあるほど、自分が増えますね。
変な言い方ですが、不自由であればその分自分が表現できないのですから、
自分が減ったと言ってもおかしくないでしょう。

だから人間は自由を求め、自分であろうとするのでしょう。
だから「自由」とは何かを問い、その言葉に引かれるのです。

「自由」と言ってもいろいろあります。
行動の自由、心の自由、表現の自由、生きる自由、死ぬ自由、
その他、いろいろの自由があります。

一方人間には「欲望」というのがあります。
この「自由」というのは、その欲望を満たす自由です。
ああしたいこうしたいという欲望を満たすための自由です。


人間の欲望というのは限がないもので、
鳥のような翼が欲しい、という欲望があって飛行機が生まれました。
そのようにして、現在の文明社会というのがあるわけですが、
これは言わば欲望の塊です。

これから先も欲望を満たすために自由を求めてゆくでしょう。
そして欲望が満たされないと「自由とは」と問い始めるのです。

このあたりで、少し冷静に「自由」について考えたいものですね。

そんなこと分かってるって



上の写真は京都のJR東海道線を潜る国道24号線のガードです。

もう10年以上も前から工事していたのですが、

やっと工事が最終段階にきたようで、外壁の塗装などをしています。

二枚の写真はそれなんですが、おかしいと思いませんか。

ガードの下り坂に掛かる付近に「ここから下り坂」、

下って上った付近に「ここまで上り坂」と書いてあるのです。

そんなこと運転していたら分かることでしょ。

しかも、走行中にはその字は(角度的に)ほとんど読めないのです。


まったくこれはペンキの無駄遣いです。

いや、工事費の無駄遣いですよね。

どう思います?、皆さん・・・。

一人でも殺人鬼がおれば物騒な町になる

かなり以前に教育のあり方について、
批判めいた記事を書いたことがありましたが、
そのときに次のような内容のコメントをいただきました。

「私は今の教育で進学もし就職もした。
他の大方の人もそれで良かったのですから、
今の教育で良いのではないか」

というような主旨でした。

しかし、タイトルにも書きましたように、
一人でも殺人鬼がおれば物騒な町になるのです。

今の教育の方法では落ちこぼれる子供が出てくるのです。
みんな違った個性を持って生まれているのに、
画一的な教育で良い訳がないのです。

そして落ちこぼれた子供のうちの何人かは、
犯罪を犯すようになります。

あなたは如何に良い大学に進学し、
一流企業に就職したとしても、
その町から犯罪者はなくならないのです。
絶えず危険にさらされていることになります。

どんな子供にもできることがある筈です。
もっと個性を重視した教育を考えて欲しいものです

自分で自分を見る Ⅱ

他人の良さが見えてきて、自分の位置づけもできる、
ちょっと出来た大人だったら、そのくらいは当たり前のことでしょう。
しかし、このくらいでは神仏から見るとまだまだなんです。

このくらいならまだ自分と言うものがあります。
実は、自分というのは欲と自我の塊なんです。
この欲と自我の塊を取る必要があります。
なぜかと言えば、欲と自我がこの世界を見る目を捻じ曲げているからです。
つまり、まだ本当の自分を見ていないのです。

この欲と自我の塊を取り除くのも、自分で自分を見ることでできるのです。
自分というものがある限りは自分で自分を見ることを続けます。
それでは、どうなったら自分がなくなったと言えるかと言えば、
簡単に言えば「信じる」ということです。

「信じる」というのは、自分では判断せずに誰かの判断に従うということです。
信じているときは自分はないのです。あるのは他人の判断です。
だから自分と言うのはなくなっています。

日常、信じるなんてことはよくありますが、
でも、どんなに沢山のことを信じていたとしても、
その信じるという行為は自分がしているのです。
つまり、まだ自分というのが残っています。

この信じている自分を取り除くのも自分で自分を見るという方法です。
と言いましたが、この自分で自分を見るという行為が問題で、
これ自身、自分の行為なんです。
自分の力で自分を取ろうとしているのです。これは矛盾です。
不可能なことをしようとしていたことに気付かなければなりません。
そのことに理屈ではなく体験で知る必要があります。

そうして自分の力ではどうにもならないということに気付いたとき、
神仏の方から自分を悟らせてくれるのです。
これがいわゆる他力本願というものです。

悟ってどうなるのかは、また次の機会に書きたいと思います。

投票結果発表

議論していて負けそうになったらどうします?
という質問に対してお寄せいただいた投票結果の発表です。

 選択肢                    比率  人数
1 悔しいので意地を張って煙に巻く     23.1%  3人
2 相手の間違いを指摘して引き下がらない 7.7%  1人
3 黙って立ち去る               15.4%  2人
4 「見方の違い」と自説を正当化する    15.4%  2人
5 間違いを認めて自説を訂正する      38.5%  5人

思ったより皆さん正直に答えていただいたと思っています。

ただ、投票数よりコメント数の方が少ないのが気になります。
多分、大っぴらには言えなかったのかなと思っています。

私がもし投票するとしたら5番ですね。

自分で自分を見る

そんなこと簡単なことだ、と思っている人も多いと思います。
だって自分ならいつも見ているではないか、と仰るでしょう。

それがそうでもないのです。
以前に「自分で自分をだます」という記事を書いたことがありますが、
自分にとって都合の悪いことは、心にフタをして分からなくしたりします。
つまり、本当の自分はなかなか見えないものなんです。

それでは本当の自分はどうしたら見えるのでしょう。
内観とか内省とかいいますが、それですね。

もう少し具体的に説明しましょう。
自分を突き放して、遠くから眺めてみるのです。
難しく言うと、自分を客観視するのです。

悲しんでいる自分、怒っている自分、その他を
冷静に眺めて見るのです。

そうすると、自分の欲とかプライドとか、
そういうものに拘っているのが見えてきます。
表面上は、いいことを言っていても、心の底では欲のためだったりするのです。

そういうことが重なってくると、
誇りにしていた自分、自信を持っていた自分が、だんだん崩れてきます。
自分を自分で見る、というのはそういうことです。


しかし、なぜそこまでして誇りを失い、自信を失わなければならないのでしょう。
それは本当の自分を知るためであり、
そしてそれは他人の本当の姿を知ることでもあるのです。

これをさらに押し進めてゆくと、宗教でいう悟りにいたるのですが、
それについては、またの機会に書くことにします。

キリスト教と仏教の違い

キリスト教と仏教の違いは、
教義をみればいくつも見つけることができますが、
もっとも基本的な部分の違いというのは、
やはり救い方でしょうか。

神仏の存在は自分の「自我が砕かれた時に感じられるもの」です。
仏教もキリスト教も自我の砕き方や神仏の存在も教えますが、

どちらかと言えば、
仏教の場合は主にその「自我の砕き方」を教え、
キリスト教は「自我がすでに砕かれて迷っている人」に
「神はここにいますよ」とその存在を教えているように思うのです。

そういう意味で仏教は、真理を探究している人向きで、
キリスト教は行き先に迷っている人向きと言えそうです。

わが町はどこまで

もう10年以上前になると思いますが、国道も鉄道もない市町村が集まって、
国に要望書を出したり、いろいろ活動をしていたようですが、
今はどうなっているのでしょうか。

いずれにしても、現在のように市町村合併が進むと、
国道も鉄道もない市町村というのは少なくなったと思います。
国道が新設されて減ったというのもありますが、

市町村合併したからと言って状況はなんら変わっていないのです。
にもかかわらず、国道も鉄道もない市町村から国道か鉄道がある市町村に変わったのです。
おかしな話です。


こういう問題は、地域を細分すればするほど起こってきます。
「ウチの村にはスーパーマーケットがない」とか「ウチの町には病院がない」とか、
小さな地域には、大きい地域にはあるものが無かったりします。
でも、隣の町に行けばスーパーマーケットも病院もあるのです。

日常生活には何ら影響はありません。
遠い近いの問題はあるとしても、あるかないかの問題はないのです。

現在のように交通手段が多様化・発達してくると、
わが町というのもどこまでか分からなくなってきます。
狭い地域で物事を考えずに、できるだけ大きな地域で考えるべきです。

無駄をなくすという意味だけでなく、
そういう意味でも市町村合併はもっと進めた方がいいし、
道州制というのも真剣に考えて欲しいものです。

1+1 はなぜ 2 か

答えは簡単です。
そのように決っているからです。
そうなんです。これは人間が決めたことなんです。

現実の世界がどうかは、この際関係ないのです。
よく「1+1は2とは限らない」なんていいますが、
それは現実にはその規則が当てはまらないこともある、というだけのことで、
1+1=2を現実に照らして検証するものではないのです。

これは人間の思考の規則であって、
もし検証しようというなら、
人間の脳を開いて検証するしかありません。

難しい数学の定理などは、紙の上で検証するでしょうが、
それも脳で考えている内容を紙の上に移してしるだけです。

一般的に、数学や論理学というのはそういうもので、
現実とは直接関係のないものです。

しかし、哲学は世界や人生について語るもので、
現実と深い関係があります。
哲学は、もっと現実を観察する必要があるようですね。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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