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科学を信じる

ここでの科学とは、物理学に代表されるような自然科学を指しています。

科学の進歩は凄いですね。
「科学的」と形容されるだけで、そのことが信用されたりするくらいで、
科学は日常生活とも密接に結びついていて、
みんな科学を信じていると言ってもいいくらいです。

「いや、自分は科学を信じているのではなく、自分なりに納得をしている」
と言われる人もあるかもしれません。
確かに、学校で学ぶにしても、
実験をしたりして納得し、論理的にも矛盾がないことを自分なりに確認したのであれば、
もはやそれは「信じる」とは言えないでしょうね。

しかし、現在流布している科学のすべてを、
そういう方法で確認できるかというと、それは不可能ではないでしょうか。
自分なりに納得している科学というのは、極わずかではないでしょうか。
となれば、大部分の科学は信じていることになります。

もはや科学は、一人の人間が把握しきれないほど巨大なものになっています。
それを信じて生きるしかないのです。

もちろんそのことは、いかなる科学の利用方法も許す、という意味ではありません。
念のため、書き添えておきます。

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大人になるってどういうこと

子供は純心でいいですね。
でも、そのまま大人になったら気持ちが悪いですね。
この感覚はどこから生まれてくるのでしょうか。

子供のうちは社会生活をする上で必要な心構えが教えられます。
他人に迷惑をかけてはいけません。
嘘をついてはいけません。
社会の規則は守りましょう。
環境を汚さないようにしましょう。
清潔にしましょう。その他、いろいろ。

子供のうちは失敗をしながらも、それを一生懸命守ろうとします。
しかし、大人になるにつれて、それは難しいことに気付きます。
そして「それは理想論だよ」などと言いはじめるのです。
それは理想で、人間である限りは難しいことに気付くのです。
その気付きが大人になることなんでしょうか。


となると、親や学校の先生は無責任な人たちですね。
できもしないことを教えて、それを実現することは難しいことを悟らせるのですから。
どうして最初からそれを教えないのでしょうかね。

「理想を目指して生きること」を教えているのだ、と言われそうですね。
必ずしも到達できるとは限らなくても、それに向かって努力する必要性を教えているのでしょうか。
しかし、それが難しいことを知って大人になるというのは、なんとも回りくどい話ですね。

こういう方法の一番の問題は、大人になり切れなくて病んでゆく人があることです。
つまり、子供の心のままで体だけ大人になった人です。
傍から見れば気持ちの悪い存在になります。

何かいい方法がないものでしょうか。

他人を信じる

ここでの「他人」とは、自分以外の人のことです。

みなさんは、どのくらいの人を信じていますか。
親は信じていますよね。
夫や妻は信じていますか。恋人はどうでしょうか。
親友なら信じられる、という人もいるでしょうね。
まあ、このあたりまでは、絶対とは言えないまでも、たいていは信じていますね。

それでは学校の先生はどうでしょうね。
好き嫌いはあるかもしれませんが、教えられる内容は疑いませんね。
とりあえずは、そのまま信じますね。

病院の先生はどうでしょう。
病気になったとき、先生に診てもらいます。
「風邪ですね」と言って薬をくれます。
先生の診断や薬の内容を疑ったりはしませんね。信じてますね。

レストランに入って、注文して出てきた料理を疑いなく食べますが、
それは料理人やウエイトレスを信じているからです。
毒やその他、食べ物でないものが入っていないと信じているからです。

道に迷ったとき、近くにいる人に尋ねますが、
それもその人を信じているからです。
時には間違ったことを教えられますが、とりあえずは信じているのです。

車を運転していても、対向車はこちらには飛び込んでこないと思っています。
それは対向車の運転手を信じているからです。
その他、沢山の人を信じて生きています。


このように考えてゆくと、私たちは生きるために多くの人を信じていることが分かります。
たとえ哲学者と言えども、生活のためには知らず知らずに人を信じているものです。

自分が死んだ後も世界は存在するか

自分が死んだ後も世界は存在しているか。
つまり、世界を認識する自分というものが、存在しなくても、
世界は客観的に存在できるのか、ということです。
これは疑うことの大好きな哲学者の疑問の一つです。

普通、こんな疑問は本気では誰も持ちませんよね。
それが証拠に、自分が死んだ後の財産の処分の方法を、
遺言書に書いておいたりします。
それは自分が死んだ後も世界は存在している、と思っているからです。

自分が死んだ後に、自分の子供たちも消えてなくなるなんて、考えられますか。
とても考えられません。
死の間際に「お前たちは兄弟なのだから仲良くするように」とか、
「お前たちが立派に成長してくれたので、安心して死ねるよ」などと言うのも、
自分が死んだ後も、子供たちは生きつづけている、つまり世界は存在し続けていると思っているからです。

もちろん遺言書なんて書かない人もいますし、
中には「自分が死んでからのことなんてどうでもいいよ」なんて言う人もいるでしょうが、
それでも、自分が死んで後に世界が存在しなくなるなんて思う人は、ほとんどいないでしょう。


哲学者は、自分で直接確認できないものは、すべて疑います。
当然死後の世界の存在についても自分では確認できませんから疑います。
しかし、一般人は自分の親が死んだとき、自分(子供)は生きている、
つまり世界は存在していることを確認しているから、
自分が死んでも世界はなくならない、と判断しています。
この哲学者と一般人の違いはどこにあるのでしょうね。

哲学者は自分自身でその場で確認ができないと気がすまないのです。
つまり、死んだ自分が死んだ後の世界の確認ができなければ、
間違いなく自分が死んだ後も世界は存在するとは思えないのです。
そんなことは不可能なことで、出来るわけがないのです。

これに対して一般人は、自分も含めた人間のつながりを重視し、
自分だけではなく、他人の確認したことでも「信じる」ことによって自分のものにしています。
それでは間違える(騙される)こともあり、不確かなことである、言われそうですが、
それでも不可能なことを追い求めるよりは実りがあると思うのです。
現実にもみんなそのようにして生活しているのです。

哲学の最終目標が、人生観の確立にあるとするなら、
この現実を無視しては意味がないのではないのでしょうか

「信じる」とは

「信じる」を広辞苑で引くと「まことと思う」「正しいとして疑わない」とあります。
しかし、これではいろいろの場合があって、同じように扱うと問題を生ずる場合もあります。
少し具体的にみてみましょう。

「信じる」とは誰かの話を信じること、
あるいは、誰かが作ったものを信じることです。
その誰かの話(作ったもの)の信じ方にも、いろいろの場合があります。

①、その話が論理的に矛盾がないので信じる場合、
②、その話が具体的で信憑性があるから信じる場合、
③、その話が偉い人の話なので信じる場合、
④、その話が信頼できる人の話なので信じる場合、
⑤、その話が真面目そうな人の話なので信じる場合、
⑥、その話が自分にはとても及ばないことなので信じる場合、

などが考えられるでしょうか。

①②については、自分でも再確認をして納得できるものです。
③④については、親や先生などの人を信じていると言っても良いかもしれません。
⑤については、その人を信じてよいかを自分で判断した上で、話も信じているもので、③④とも通ずるものです。
⑥については、とりあえず信じるしかない、というような状況でしょうか。

私は、「信じる」とは自分では判断せずに、誰かの話をそのまま受け入れること、という意味に限定していますので、
①②は、そういう意味では「信じる」ことにはならないと判断しています。

これからの「信じる」についての記事も、この意味に使ってゆきます。

哲学者のパラドックス

哲学というのは疑える限りのものを疑って真理にたどり着こうとします。
したがって、「信じることにしておこう」なんてことは、
哲学者にとってはあり得ないことです。

それでは何が疑う余地のないものと言えるかというと、
自分で確かめたこと、ということになるでしょうか。
まあ、細かいことを言い出すと、それでも問題はあるのですが、
とりあえず、自分で確かめたことなら「間違いない」と思えます。

しかし、考えてみてください。
この世界で、自分で確かめたものってどれほどあるでしょう。
極わずかしかありません。
大部分は、親や先生などから教わったか、マスコミなどに教わったものです。

哲学者とて例外ではありません。
いかに哲学者と言えども、実際にこの世界で生きるためには、自分で確かめたものでなく、
したがって疑わしいものでも、信じて生きなければならないのです。
このパラドックスを哲学者はどう思っているのでしょうね。


それは単に情報量が多くて覚え切れないに過ぎず、
一つ一つは時間をかけ大勢の人間がコンピュータなどを使えば確かめられることだ、
と言われるかもしれません。

しかし、そのためには大勢の人を信じなければならないし、
コンピュータを信じなければならないのです。

実は私が言いたいのはそんなことではなく、もっと重要なことなんです。
人間は「信じる」ことなくしては生きられない、ということです。

人間がいかに多くのことを信じて生きているか、
そしてそれがいかに重要なことであるかを、
具体例で、これからの記事で書いてゆきたいと思います。

レスピーギ


上のジャケットは、レスピーギの作品ばかりを集めた2枚組です。
収録曲目は、次の通りです。

交響詩《ローマの松》
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮: マゼール(ロリン)

交響詩《ローマの噴水》
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮: カラヤン(ヘルベルト・フォン)

交響詩《ローマの祭り》
クリーヴランド管弦楽団
指揮: マゼール(ロリン)

リュートのための古風な舞曲とアリア 第3組曲
フィルハーモニア・フンガリカ
指揮: ドラティ(アンタル)

ブラジルの印象
ロンドン交響楽団
指揮: ドラティ(アンタル)

組曲≪鳥≫
オルフェウス室内(管)

日没
ルツェルン音楽祭弦楽合奏団
指揮: バウムガルトナー(ルドルフ)


レスピーギと言えばローマ3部作「ローマの松」「ローマの泉」「ローマの祭」が有名ですが、
私は「リュートのための古風な舞曲とアリア」が好きです。組曲≪鳥≫もいいですね。
この二つは、いずれも古い曲を現代風にアレンジしたもので、
親しみやすい内容になっています。

「リュートのための古風な舞曲とアリア」の「イタリアーノ」ゃ「シチリアーノ」は有名ですので、
どこかで聴かれたこともあるかもしれません。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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