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遺跡の保存は必要か


京都という街は遺跡の上にあるような街で、中心部の方の建物を建て替えるときは、
遺跡の発掘・調査から始まります。ですから新しい建物が建つまでにはかなりの時間がかかります。
京都に限ったことではありません。
日本は国土が狭く、しかも平坦な土地が少ないため、人の住む場所は限られています。
その限られたところに先祖代々が生活してきたのですから、
生活できそうなところを掘れば何なりと出てくるものです。
遺跡が出てきたからと言って、それらすべてを保存していたら、我々の住むところがなくなります。

遺跡だけではありません。古い神社仏閣から明治大正の洋風建築、町並み保存などなど、
保存しなければならないものが沢山あります。
これから千年二千年と時代を重ねて行ったらどうなるでしょう。
それぞれの時代の遺物を保存して行ったら、日本中遺跡・遺物で埋まってしまいます。

最近は映像媒体など記録保存する技術が発達してきており、
現物を保存しなくても、記録する手段はいくらもあると思います。
現物を保存するに超したことはありませんが、
現実的にそれは不可能になってくることを考えると、
遺跡の保存は果たして必要なのかと思ってしまいます。
みなさんはどう思われますか。



                    この記事は2006/4/17に書いたものを再投稿したものです。

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変えられるのは自分だけ

この世界は自分を自然や社会が取り巻いています。
そしてその自然や社会と係わり合いながら生きています。
できれば自分の都合の良いように、自然や社会を変えたいものです。
しかし、そうしようと行動しますが、思うようにならず苛立ちます。

私たちは自然や社会は自分の力で変えられるものと思っています。
だから自分の思うようにならないと、相手つまり自然や社会が悪いと思ってしまいます。
しかし、変えられるものはもう一つあります。
それは自分です。自分の心です。
あれが欲しい、これが欲しい、ああして欲しい、こうして欲しい、
と言っている自分の心を変えることができます。

自分の思い通りにならないのは、本当は自分の心なのではないでしょうか。
「変えられるのは自分だけ」と思っていれば、苛立つことはありません。
苛立つのは誰のせいでもないのです。自分のせいです。



                    この記事は2006/4/15に書いたものを再投稿したものです。

歴史に方向性はあるか

人間は個々ばらばらに主体的に行動しており、だから人間の歴史というのは、
ばらばらの行為の寄せ集めであり方向性はない、という主張が一方にあります。
もう一方に、マルクスに代表されるように、
「労働者は資本家に勝利し資本主義は滅びる」というように方向性があるという主張があります。

まず、「ばらばらの寄せ集め」という考え方に対してですが、
それはばらばらの寄せ集めではなく、個性の集合体であると思えます。
個々人が個性を出し合い、社会の歯車となって、社会全体としてある方向に向かっていると解釈され、
この点から言えば、歴史に方向性はないとする根拠はありません。

もう一方の歴史に方向性があるという考え方に対してですが、
社会科学の発達にともなう社会科学からのアプローチや、
グローバリゼーションにともない社会と社会が干渉し合い、その方向性が崩れてきている現状をみれば、
容易にその考え方に疑問が生じます。
実際にも、マルクスが予測したような方向には進んでいません。

結論としては、歴史はばらばらの寄せ集めではないが、ある種の方向性はある。
しかし、決まった方向に向かうものでもない、ということになります。



                    この記事は2006/4/12に書いたものを再投稿したものです。

親の責任


子供をつくるなら、親はその子供を成人するまで育てる責任があります。
親は子供に、何不自由なく、ひもじい思いをしないように育てなければと思いです。
しかし、そのようにして育った子供は、必要なものは苦も無く与えられるものと思ってしまいます。
そんな子供がそのまま社会に出たらどうなるでしょうね。

子供が怪我もせず、受験に失敗もせず、健康に育てばそれで良いというものではないように思います。
むしろ失敗もし、ひもじい思いもし、苦労もして育った方が、
社会に出たときに適応力があって良いように思うのです。

親の責任というのは一体何なんでしょうね。
何もかも無事に育て上げれば責任は果たせたといえるのでしょうか。
ふと自分の子育てを振り返って、あまりにも無事に育てすぎたのではないかと反省しています。
まだ少し子育てが残っていますので、びしびし苦労をさせようと思っています。



                    この記事は2006/4/10に書いたものを再投稿したものです。

ロボットは人間になれるか


最近はいろいろのロボットが登場して、話題になっていますが、
まだまだおもちゃの域をを出ていませんね。
このロボットが将来人間と変らないまでになれるのでしょうか。

まずロボットが人間になるために問題となるのが、
人間サイズにコンパクトにできるかということです。
それから、一番問題なのが、人間と同じ能力を持つ脳をプログラミングできるかということです。

ナノテクノロジーなどが発展すれば、人間サイズにはなりそうに思いますが、
脳をプログラミングするのは、かなり難しいように思えます。
コンピュータが原因で、混乱したというニュースは日常茶飯事ですが、
脳とは比較にならないほど簡単なシステムで、この状態ですから、
脳ほどの複雑なシステムとなれば、そう簡単にはゆかないように思います。

そしてそれは最も重大なことかもしれませんが、
人間の心は身体と密接に関係しているということです。
トンカツを食べて美味しいと思ったり、食べすぎて胃が痛いという感情を抱いたり、
美しい女性に恋をするというような心は、ロボットでは持ちようがありません。
それを可能にするためには、もうバイオテクノロジーの世界になってしまいます。

よって、ロボットは人間にはなれないのです。・・・・・・と思います。



                     この記事は2006/4/8に書いたものを再投稿したものです。

凡人は恥をかかない

「そんなことはないよ。わしは凡人やが恥はかくよ。」
と言われる方もあると思いますが、まあ、それは考えようで、
そういう方は、その部分だけは凡人ではないのでしょうね。

恥というのは、何か基準があって、その基準から外れたことをしたり、
言ったりしてしまったときに、感じるものですが、
凡人はその基準が最も低く設定されています。だからこそ凡人なのです。
凡人には誇りにしたり自慢したりするものがありません。つまり、普通の人なのです。

恥は、知らなかったら恥ずかしいと思うから恥になるものです。
凡人は、知らなかったら尋ねることでその場をしのぎ、恥だとは思いません。

自分に誇りがあり、それを知らなかったら恥と思うようなことがあれば、
その人は、その部分だけは凡人ではないのです。

人間誰でも凡人の部分とそうでない賢人の部分を持ち合わせています。
凡人の部分を多くしておけば、恥をかくのも少なくてすみます。
自分のどの部分を凡人と思うかは、心の持ち方しだいだと思います。



                     この記事は2006/4/2に書いたものを再投稿したものです。

知ったこと、考えたこと

知っていることというのは、親や学校の先生などから教えられたり、
本を読んだり、インターネットなどで学習して知っていることで、考えたことではありません。
親にしても学校の先生にしても、本を書いた著者にしても、
たいていは自分よりは偉い人であり、「偉い人の言う事であるから間違いはない」と、
そのまま間違いの無いものとして受け入れることが多いです。
「どうしてそうなの」と聞かれて「誰それが言っていた」と偉い人の名前を出すと、たいていは納得します。

しかし、それでは自分の考えというものが何処にもありません。
たとえ偉い人の考えに賛成でも、自分なりに納得して、賛成したいものです。
科学者などの偉い人は、我々凡人などがとても敵うものではありませんが、
それでも、新しく出てきた科学知識などは、間違っていることがよくあり、鵜呑みはできません。

人間生まれたときは丸裸です。脳も白紙の状態です。
そこへ知識を蓄え、考える能力も習得してゆきます。
それは無視することはできませんし、学んで得た知識は、自分を支えている土台です。
しかし、学んだ知識を土台にして、それを出発点にして、自分の考えを積み上げることが大切です。
それでこそ、主体的な自分を作り上げることができるのではないでしょうか。

私の知り合いに、本ばかりを読んでいて「誰それがこう言っていた」とは良く言うのですが、
「自分の意見は・・・」と聞かれてもはっきり答えられない人がいます。
知っている他人の知識より、考えた自分の意見を持つように努めたいものです。



                    この記事は2006/3/31に書いたものを再投稿したものです。

食品の栄養価、気にしますか

食品の栄養価についての情報番組が増えています。
ある食品が健康に良い、美容に良いと放送されると、
翌日には店舗からその商品がなくなる、というような騒ぎが、しばしば起きています。
最近では寒天がダイエットによいと放送されて、しばらく店舗から姿を消しました。
皆さんは、こういう話を信用される方ですか。

私はコーヒーが好きでよく飲みますが、あまり身体に良くないと思っていましたので、
「少し減らさなければ」と思っていましたが、
最近、活性酸素を抑制する効果があり、ガンや老化を抑える効果があるというので、
コーヒーを減らすという気持ちも少し薄れてきました。
しかし、私はまだこの話は半信半疑でいます。信じ切れません。

というのは、こういう話はくるくる変るからです。
栄養価がないとされていた食品が、こういう栄養素が含まれていた、などという話はよく聞きます。
アガリクス茸のように制ガン効果があるとされていたものが、
発ガン性があることが分かったなんていう食品もあります。

だから私は、こういう話は気にせずに、
美味しいと思うものをバランスよく何でも食べるようにしています。



                    この記事は2006/3/22に書いたものを再投稿したものです。

人間って面白い


人間の姿、それも自分の姿を見ていると面白い。
つまらないことに腹を立てて怒ってみたり、
つまらないことで喧嘩したり、
つまらないことに感激して涙を流したり、
つまらないことに喜んだり、
ちょっと距離を置いて見てみると、犬がじゃれている姿に似ています。

人間から見れば、犬のじゃれごとなどは他愛も無いものですが、
それと同じように、
神仏からみれば人間のすることなどは、他愛もないことだと思います。

生きてゆく上では、苦しいことも辛いこともあると思いますが、
少し距離を置いて自分を眺めてみる余裕があれば、
苦しいことも辛いことも「面白い」と思えてきます。
そう思えるようになったら、生きることは楽しいものです。



                    この記事は2006/3/20に書いたものを再投稿したものです。

タイム・マシーンは造れるか

凡人の私には、タイム・マシーンを造るための技術的背景を論ずるだけの知識はありませんが、
タイム・マシーンを造ることが原理的に可能かどうか、凡人的な疑問を書いてみたいと思います。
タイム・マシーンは、現在から過去のある時点へ行ったり、
現在から未来のある時点へ行ったりするための機械ですが、少し具体的に考えてみましょう。


ある受験生が受験に失敗したとします。
もう一度試験をやり直すため、タイム・マシーンを使って受験の前日までタイム・スリップしたとします。
そこで一つ問題なのは、タイム・スリップしたときに、そのままでは、
過去の自分と現在の自分が同時に存在することになります。それは不自然なことです。
ですからタイム・マシーンは過去の自分に戻るように造るか、
現在の自分に入れ替わるように作らなければなりませんが、今仮に過去の自分に戻るように造ったとします。
そうすると、受験をやり直しても同じ結果になってしまい、タイム・スリップした意味がなくなります。
なぜなら、また同じ人生をたどるだけであり、タイム・スリップしたという自覚すら有り得ないのであり、タイム・マシーンを使ったということ自体、自覚がなくなります。

よって、タイム・マシーンを造ることは原理的に不可能とは言えないまでも、
タイム・マシーンがタイム・マシーンでなくなってしまうことになります。
つまり、現在の人間が過去に行ったことにはならないのです。


それでは現在の自分に入れ替わるように造ったとしたらどうでしょう。
前の試験で間違ったところは、間違わずにできるでしょうから、試験には合格します。
その後の人生は前とは違ったものになるでしょう。
自分が違っている分、他の人たちも違った人生を歩むでしょう。

ところで、自分がタイム・マシーンでタイム・スリップしたとき、
タイム・スリップしなかった人たちはどうなったのでしょう。そのままの人生を過ごしているはずです。
例えば自分の親は、息子が受験に失敗したので、それを苦にして自殺したかもしれません。
しかし、もう一方のタイム・スリップした先では、親は長生きするかもしれません。
二つの矛盾した状態があることになります。
タイム。マシーンで何人ものひとがタイム・スリップしたら、何通りもの世界が存在することになります。
これも原理的に不可能とまではいえませんが、
そんなことはあり得ないことではないでしょうか。



                    この記事は2006/3/18に書いたものを再投稿したものです。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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