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本当の親を知る権利

ドラマなどで、例えば「本当の父親を知る権利がある」などという台詞が出てくることがあります。
そして本当の父親を探すドラマが始まるのですが、この「知る権利」というのは何なのでしょうか。
広辞苑には「権利」とは「一定の利益を主張し、また、それを享受する手段として、
法律が一定の資格を有する者に賦与する力」とあります。
親を知るということに、どんな利益があるのでしょうか。疑問に思います。

「知りたいという断ち切れない思い」をレトリックに「知る権利」と表現したのかもしれませんが、
知らない方がよいこともあります。「知らぬが仏」という言葉がありますが、
知ったがために不幸になるということも有り得るのです。

世間にはいろいろの家族があります。たいていは父親がいて母親がいて、
時にはお爺ちゃんやお婆ちゃんがいて、兄弟姉妹もいます。
両親が揃っていないこともあるでしょうし、揃っていても再婚かもしれません。
兄弟姉妹でも同じ親とは限りません。

「知る権利」があるから探すのではなく、現状を受け入れられない何かがあるのでしょうか。
家族というものを型にはめて考えているから、現状を受け入れられないのではないでしょうか。
真実を探ることより、現状を受け入れることの方が大切ではないでしょうか。



                   この記事は2005/12/22に投稿したものを再投稿したものです。

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なぜ人を殺してはいけないか

「なぜ人を殺してはいけないか」という議論がありますが、答えは簡単です。
「誰も殺されることを望む人はいないから」というのがその答えです。
末期がんで死にたいという人や、自殺願望というような病的な人は除きますがね。
とりあえず、この社会で生きたいのなら、この社会の成員が望まないことはしてはいけないのです。

これは社会の約束事です。社会の約束事の多くは法律として定められています。
また、法律として定められていない約束事もたくさんありますが、
これら約束事は、この社会で生きることを望むのであれば、守らなければならないものです。

人間には誰にも欲望があります。その欲望を満たすために行動するのですが、
そのとき社会と衝突することもしばしばあります。
そのとき衝突を避ける方法が約束事を守ることです。
そのようにして社会の秩序を維持しているのです。

自分の欲望を満たすために、人を殺すことはできません。
人は殺してはいけないという約束事があるからです。



               この記事は2005/12/14に投稿したものを訂正して再投稿したものです。

テレビに振り回される人達

テレビの特にワイドショー番組というのは、話題の人を追跡するのが好きのようです。
事件の容疑者など視聴者が興味がありそうな人物など、
その生い立ちがどうだとか性格がどうだとかしつこいほどです。
そこまでプライバシーを侵害する必要があるのかと思いたくなります。

これまでコメンテイターとしてテレビによく登場した人でも、
例えば脱税などの罪に問われたら、手のひらを返したように、突然バッシングを始めます。
昨日まで仲間として働いていたその同じ人をです。
突然善人だった人間が悪人になるわけがないのです。どれも一人の同じ人間の姿です。

人間を善人と悪人に振り分けて報ずるマスコミのこの姿勢は問題ではないでしょうか。
もしそれを感情を交えて報ずるなら、人間の愚かさであり、人間の悲しさであり、
人間の弱さであり、人間の罪深さではないでしょうか。

テレビのお陰で有名になり、冨を築いてゆくひとがある一方で、
テレビのために社会的信用をなくして、どん底の生活を強いられる人もあります。
いったいテレビなどのマスコミに人を裁く権利があるのでしょうか。
みなさんどう思われますか。ご意見をください。



                   この記事は2005/12/11に投稿したものを再投稿したものです。

「戦争反対」と叫ぶだけでは戦争はなくならない

「戦争反対」と言ってプラカードを掲げて行進をするような人がいますが、
それが悪いとは言いませんが、それでは戦争はなくなりません。
もちろん私も戦争は反対です。戦争の好きな人はいないと言ってもよいでしょう。
みんな戦争は反対なんです。それなのに戦争は起きるのです。
戦争は好まないが戦わずにはいられない。そういう気持ちはあり得ることです。
だから、「戦争反対」と叫ぶのではなく、どうしたら戦争を防げるか考えなければなりません。

社会でも学校でも競争が常の世の中ですから、絶えず人と競い合って生きています。
進む方向が異なるために争いになることもあります。これらはすべて小さな戦争です。

戦争は好まないが戦わずにはいられない。戦争は好まないから「戦争反対」と言わずにはいられない。
この二つの考え方は進む方向は異なっていますが、どこか似ていると思いませんか。
自分の考えを押し通す。他の考え方に耳を貸さない。妥協することを知らない。
この二つの考え方に共通のものです。そこには争いが付きまといます。

戦争の直接の原因は、個々のケースで異なると思いますが、
個々の戦争の原因を手繰ってゆけば、そこには必ず、自分の考えを押し通す、
他の考え方に耳を貸さない、妥協することをしらない、人間のわがままなこころがあります。
戦争の原因は案外、自分の心の中にあるのかもしれません。



                   この記事は2005/12/9に投稿したものを再投稿したものです。

ウサギは鳥か

ウサギは一羽・二羽と数えると教わりますが、
実際に家でウサギを飼っていたときには、一匹・二匹と数えていました。
日本語の物の数え方には、100種類前後あるようですが、
一般的に使われているのは、20種類前後でしょうか。

辞書に出ている数え方で、珍しいものを拾ってみました。
遺骨を一体と数えるのは分からなくもないですが、
織物を一匹と数えたり、大砲を一門と数えたりすることは、ほとんど知られていません。
他にも、琴を一面、ちり紙を一締め、羊羹を一棹などというのも一般的ではありません。

ウサギを一羽と数えるようになったのは、
宗教的理由から四足の動物を食べなかった時代に、ウサギだけは食べても良いように、
食べても良い鳥と同じ数え方にすることで、ウサギを鳥扱いにしたのだそうです。
しかし、ウサギは鳥ではないのです。
それを牛や豚を食べる時代になった今でも、一羽と数えさせているのです。

ウサギを鳥扱いする理由がなくなった今、
ウサギを一羽と数えると学校で教えるのはどうでしょうか。
ましてや、他の数え方を間違いとするのは行き過ぎです。



             この記事は2005/11/28に投稿したものを若干訂正して再投稿したものです。

文学では善悪の判断はしない方がよい

人間はいつでも理性的で合理的に判断し、行動しているとは限りません。
笑いや涙に動かされて行動することも多いはずです。
だからこそ、文学や映画やドラマが成り立っていると思うのです。
人間は感情の動物と言われますが、案外、非合理で非理性的な動物なのでしょうね。
どんなに整然と論理的にまとめられた文章より、感情に訴える方が人を動かすことができるものです。
しかし、そこに落とし穴があるのです。

文学は物語として表現されることが多いです。
一般に小説などの物語は、作者がことの善し悪しを判断し、
その判断に合致するように物語を作り上げたもので、
その作者の判断が善いという保証は、どこにもないことが多いのです。
にもかかわらず、読者は主人公や登場人物の感情に惑わされて、
何が善いかの判断を見誤ってしまいます。

決して文学を否定的に位置づけするつもりはありませんが、
しかし、文学はその魔力的な魅力を悪用して、人を誤った方向に導くことがあることを、
頭に入れておかなければなりません。

よって、文学作品で善悪の判断はしない方がよいのです。



             この記事は2005/11/17に投稿したものを若干訂正して再投稿したものです。

視聴率が高ければ良い番組か

視聴率を高くすることは、制作担当者の至上命題のようですね。
視聴率を上げるために、視聴者に頼んで視聴率を操作していたという話がありましたが、
それほどではなくても、視聴率をあげるためのヤラセは普通に行われているし、
真実を曲げてでも番組を面白くすることを最優先する制作態度が見受けられます。

少し前までは「テレビが言っていた」と言えば「それは間違いない」と判断できたほど、
テレビに対して信頼感を持っていましたが、
最近はテレビも地に落ちたもので、週刊誌並みの評価しかできません。
「テレビが言っていた」と言っても、すぐには信用が出来ないのは、私だけでしょうか。

テレビ番組と言っても、いろいろのものがあり、必ずしも良い悪いに関係のないものもありますが、
視聴率の高い番組に限って問題の番組が多いように思います。
視聴者側も、もうそれを承知していて、そのように番組を見ています。
視聴者自身が良い悪いを判断し、真実かヤラセかの判断をしている状態です。

もうマスコミ崇拝の時代は終わりました。
視聴者自身が判断し、賢くならなければならない時代だと思います。



                   この記事は2005/11/27に投稿したものを再投稿したものです。

「客観的」とは

「客観的」という言葉は、一般的にもよく使われる言葉ですが、
その意味は、言われているほどはっきりしたものではなく、曖昧なものです。
広辞苑によると、客観的とは「特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつこと」とあります。
要するに、主観に支配されない考えや対象を言うときに使う言葉のようです。

一般的には「客観的」という言葉には二つの意味があります。
その一つは、人間の精神に関わりなく、外界に独立して存在しているもののことです。
もう一つは、自分の個人的な判断ではなく、第三者的な公平な判断のことです。

前者は哲学などで、「知る」という人間の行為に対して、「知られる」対象を言う場合などに用いられるもので、
あまり一般的な用法ではありません。
後者が、一般的に用いられている用法で、平たく言えば「世間一般で認められていること」です。
世間というのも人間の集まりですので、その考えも主観の集まりということになります。
そういう意味では、客観的の意味「主観に支配されない」とは言えないので、
客観的とは言わずに「間主観的」という言葉を当てることがあります。特に哲学などでは・・・。
しかし、「間主観的」という言葉はあまり一般的ではないので、ここでは用いないことにします。

この後者の「客観的」は、よく考えてみると、その判断基準が分からなくなります。
第三者的な公平な判断と言っても、どうなったら客観的と言えるのかが分からないのです。
世間一般に認められていると言っても、すべての人に聞いて確認することなどできません。
それでは、どうしてそれが客観的であると判断できるのでしょうか。
一般的には、その場に居合わせたもの同士が、「客観的」と認めたら客観的になるというのが通例です。
「客観的」とは、こんな曖昧な用い方がされており、それで通用しているのです。



                   この記事は2005/11/20に投稿したものを再投稿したものです。

宗教間の争い

宗教の目的には、いろいろのものがあると思いますが、
救いを求めたり、不安を解消したりするのが主な目的でしょうか。
その点では、どの宗教も同じだと思います。
異なるのは、救いを求めている人などへのアプローチの仕方と、
入信してからの生活および救われてからの生活の仕方です。

アプローチの仕方については、別の機会に述べるとして、
宗教間の争いに関係のある、生活の仕方について述べることにします。

生活の仕方については、その宗教が生まれた時代や地域と深い関係があります。
そして時代を経るごとに、さらにその地域の風習や習慣として根付いて行きます。
しかし、現代のように交通機関や通信手段が発達してくると、
狭い地域を越えて、異文化の交流が盛んになり、
風習や習慣の違いが社会生活に支障をきたす場合も出てきます。
それが時には紛争にまで発展するのです。

宗教が生まれたときは、その時代・地域の枠組みの中でだけ考えていたらよかったので、
絶対的な基準というようなものより、すでに存在しているものを流用する方が受け入れられ易すかったでしょうが、
現代はその当初の枠組みをはみ出し、交流が始まっているのであり、
どの時代・地域にも適用できる、絶対的な価値基準が必要なってきています。

いつまでも、何千年も昔に作られた教義に囚われることなく、
時代に合った世界に通用する大きな枠組みの教義が必要と思います。
それは現代の聖職者に課せられた課題ではないでしょうか。



                   この記事は2005/11/13に投稿したものを再投稿したものです。

人間は生まれながらにして不自由である

道路を車で走行するときは、左側を通行しなければなりませんね。
右でも左でも自由勝手に走行することはできないのです。
右側を走行することは可能ですが、そんなことをしたら事故になるか、
警察に捕まって違反切符をきられてしまいます。
要するに、反社会的行為として罰せられるのです。

会社勤めをしても、社内規則は守らなければなりません。
出社する時刻は決まっていますし、休憩時間も決まっています。
勝手な時刻に出社したり、勝手な時間休憩したりすることはできません。
商売をするにも、嫌いなお客に売らないなどと勝手なことは言えません。

スーパーなどに買い物にいっても、ルールがあり、そのルールに従わなければなりません。
買いたい品物は、レジに並んで買わなければならないし、
日本銀行が発行している紙幣を使わなければなりません。
店員さんに尋ねるでも、日本語を使わなければなりません。
どれもこれも自分の自由にはなりません。
とりあえず、社会生活というものは不自由なものです。

なのに学校では「人間は生まれながらにして自由で平等である」と教えられます。
どこかおかしいと思いませんか。
だから「自由」を履き違えた子供ができるのではないでしょうか。



                       この記事は2005/11/11に投稿したものの再投稿です。

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極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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