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もったいない廃鶏

比内地鶏の偽装問題がニュースになっていますが、
今日は偽装の功罪を記事にしようと思っているのではないのです。

偽装は廃鶏を比内地鶏と偽ったものでしたが、
その燻製は非常に美味しいものだそうですし、
生肉も地鶏のように弾力と歯ごたえがあって美味しいそうです。
だからこそ、偽装ができたのでしょうがね。

だとするなら、廃鶏をもっと生食用として利用しないともったいないですね。
偽装はいけませんが、もっとシャレたネーミングで安価に売り出せば私は買います。
地鶏の歯ごたえが好きですので・・・。

似たようなものとして、ミートホープの偽装もありましたね。
あれなんかも、内臓を牛肉と偽ってミンチにしたというのですが、
美味しいのであれば内臓でも何でもよいと思うのです。毒でない限り・・・。
ただ、ウソを言って売ってはいけませんね。

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間違いは指摘すべきか

ブログだけには限らず、人と会話していて相手の間違いに気付いたとき、
それを指摘して教えてあげるか、黙って面子を壊さないようにするか、難しい選択ですね。

よほど親しい間柄なら、指摘して教えてあげるのもいいでしょうが、
それほどの仲ではないような場合は、どうしたものか迷います。

会話の中身によっても変わりますね。
それが間違いであっても大勢に影響がない場合は、いちいち指摘することもありませんが、
それが間違っていては取り返しがつかないような場合は、やはり指摘すべきでしょうね。


それらは一般的な会話の場合ですが、それが議論となると、また話は別です。
議論というのは真理を見つけるための話し合いです。
ここで相手の面子を考えていては、真理にはたどり着けません。

また、議論の中の発言は、一つの提案であって、必ずしも自信があっての発言とは限りません。
その発言が土台となって、真理にたどり着けばいいのです。
ここでは発言者に遠慮して間違いを指摘しないというのは、むしろ不親切なのです。
もっとも、議論での意見の違いは、どちらかが間違っているからとは限りませんがね。

間違いに気付いていなから、それを指摘しないのは、議論が真理に至らないばかりか、
発言者に対して失礼ではないでしょうか。
私は、間違いは間違いとして指摘することが親切であると思っています。
また、間違いを指摘されても受け入れられる大きな度量がほしいものです。

「知る」と「分かる」の違い

辞書によっては「知る」の意味として「分かる」と書いてあるものがあります。
「知る」と「分かる」同じ意味なんでしょうかね。
でも、「知る」でないとおかしい「分かる」でないとおかしいということもあるように思います。

例えば、「新しい彗星が発見されたというニュースを新聞で知った」、
とは言いますが、「新聞で分かった」ではおかしいですね。
また「その彗星はガスで出来ていることが分かった」とは言いますが、
「知った」ではおかしいですね。
それはどこがおかしいのでしょうか。

実は「知る」というのは、もともとその対象が頭になかったとき、
新しく認識し頭脳に入ることが「知る」なんです。
これに対して「分かる」は、もともとその対象が少しは頭にあり、
その内容をより詳しく理解したときに「分かる」というのです。

だから、新しい彗星はもともと頭にはなかったものだから「知る」であり、
「その彗星」というときには、すでに彗星の情報は頭にあるから「分かる」なのです。

自分の生き方と他人の生き方2

他人の生き方(個性)は尊重しなければならないとしても、
それらの個性が共同生活するとなれば、価値観の違いによる様々な衝突が生まれてきます。
それらをどう調整しバランスをとるか、様々の個性が共存するためにはどうしたらよいか、
それを議論するのは意味があると思います。

自分の生き方(個性)を押し付けようとするとトラブルになりますが、
自分の個性を社会に提供し、他人の個性も提供してもらって、
自分も含めたいろいろの個性の社会への位置づけをすることで社会を構成する、
それは理想の社会ではないでしょうか。

しかし、例えば人を殺してもよいとする生き方と、
殺してはいけないとする生き方が共存することはできません。
それも議論は必要ですが、おそらく多数の意見(殺してはいけない)に従っていたたくことになるでしょう。
もちろん、特殊な場合は反対意見(殺してもよい)も認めるという形で・・・。

私たちは国家単位で法律を制定し、それを守ることで共同生活しています。
個性は尊重されなければならないが、それは少なくとも「法律を守る」という制限がついています。
国家間の問題については、国際法や国連というのが、法律になるのでしょう。

したがって、自分の生き方を押し付け主張するのはトラブルの元ですが、
国のあり方、国際間のあり方については大いに議論していいと思うのです。

自分の生き方と他人の生き方

自分の生き方というのが一方にあり、他人の生き方(個性)というのがもう一方にあります。
自分の生き方も他人の生き方も同じであればもちろん問題はありませんが、
異なっていてもどちらかが間違っているという性格のものではありません。
どう生きるかというのは言わば好みの問題なのですから・・・。

ただここで問題なのは、自分の生き方を維持し、他人の生き方を尊重するというのは、
一見すると矛盾しているように見えることです。

今、自分の生き方と対立する生き方があったとします。
自分の生き方の良さを説明するくらいはいいとして、
自分の生き方を押し付けようとすると喧嘩になります。
これが個人の話に止まっている間はまだいいのですが、
それが国家間の話になると、戦争になることもあります。

そこで相手の生き方(個性)は尊重しようという考え方が生まれてきます。
生き方というのは、どちらが間違っているという性格のものではないのですから・・・。
ま、どちらの生き方が良いかを議論しても仕方がないとも言えます。

なのに議論が絶えないのはなぜかと言えば、
人類にほぼ共通の価値観というのがありそうに見えるからです。
例えば「人を殺してはいけない」というような価値観です。
人類共通の価値観にみえます。

しかし、よくよく考えてみてください。
死刑は人を殺すことですが、死刑は賛成か反対かとなると意見は分かれます。
「戦争なら人を殺してもよい」という人もいるでしょう。
また、「末期がんで苦しんでいるなら殺してもよい」と思う人もいるでしょう。
だから、生き方(価値観)というのはどれが良いとは言えないのです。

とりあえず、生き方というのは人それぞれですので、他人がとやかくは言えません。
他人の生き方(個性)は尊重しなければならないわけです。
そうなったとき、自分の生き方との調和をどう取るかが問題になります。


(つづく)

差別の根

社会にはいろいろの差別がありますが、
そういう差別はどこから生まれてくるのでしょうか。
差別というのは、ある一定の基準をもとに、
そこから外れたものを特別扱いするところにあるのではないかと思うのです。

ある一定の基準=それはあるべき姿、と解釈するところに差別の根があるように思います。
極端な話が、ある一定の基準から外れると異常と言う訳です。
異常だから特別な目で見、差別するのです。

この世界での生き方に、ある一定の基準=それはあるべき姿などというものはないと思います。
いろいろの生き方があっていいのですよ。
「生き方」と言いましたが、考え方だけではなく、姿形も違うように、
片腕がなくても片足がなくても、それぞれに生き方があります。
家族あり方についても、いろいろの形がありますが、
片親だから、親がないからといって特別扱いは禁物です。

それらはすべて異常ではなく個性です。
差別されるいわれはありません。
あるべき姿、理想の姿を作り上げるということは、そこから外れるものも生み出すことになります。
差別の根はそんなところにあるのではないでしょうか。

夢はなぜ見るのか

心理学の本には、人間が夢を見るのは、
現実では満たされない願望を夢の中で実現しようとしているから、とあります。
これはフロイトとユングの理論に基づく考え方と思われますが、
凡人の私にはどうしてもそれが理解できないのです。
もっと素直に考えられないものでしょうか。

人間は目覚めているときは何かを考えています。
昨日の仕事のことを思い出しているかもしれません。
明日の旅行のことを考えているかもしれません。
そして、希望や夢などの自分の願望を思い巡らすこともあるでしょう。

眠ってはいなくても、目を閉じることができますが、
そのときも何かを考えています。
目を開いているときとの違いは、視覚情報が遮断される分、より考えている何かが明確になります。

寝るときはどうでしょうか。
寝床に入って横になり目を閉じます。やはり何かを考えています。
考えていることは、今日の出来事など目覚めているときとほぼ同じでしょう。
そして意識は朦朧してゆき、考えることにも一貫性がなくなり、最後には眠りに就きます。


人間が夢を見るのは、浅い眠りのレム睡眠のときだそうですが、
一晩で4~5回はレム睡眠があり、4~5回は夢を見ることになります。
おそらく眠りに就くときもレム睡眠状態にあるのでしょう。
このレム睡眠のときは、脳は目覚めているときと同じ状態に動いているそうです。

眠りから目覚める直前もレム睡眠状態にあり、そのときに夢をみるのですが、
これは眠りに就くときとは逆に、目覚めるための準備段階です。
何か特別なことがここで起きる必要はないように思います。
単に眠りに就くときとは逆のコースをたどるだけだと思います。

実際にも、見た夢を思い起こしても、
満たされない願望を実現しようなどという意図は読み取れないときが多いです。
まあ、人間が生きるということは大なり小なり願望を抱いて生きるのですから、
そういう意味ではいかなる思いも願望にはつながるでしょうが、
それなら取り立てて言うことではないということにならないでしょうか。

幽霊はなぜ夜に出るのか(存在するということ、番外編)

ちょっと幽霊のシーズンは過ぎましたが、
幽霊の存在について考えてみたいと思います。

幽霊といえば夏ですが、それも決って夜に出ますね。
幽霊とお化けは違うのだそうですが、お化け屋敷も暗くしてありますね。

夜は暗くなりますが、暗いと視覚が利かなくなり、
何があるか分からないから不安になります。

人間、不安になるとあまりいいことは考えませんね。
何かやわらかい冷たいものに触っても、明るいところではコンニャクと分かりますが、
暗闇では幽霊の手になってしまいます。
幽霊はそういう人間の心理に付け込んで夜に出るのです。

「幽霊を見た」という人がいますが、それを否定するつもりはありません。
しかし、もし本当に幽霊が存在すると人に言いたいのなら、
幽霊を連れて来るか、どうしたら幽霊に会うことができるかを示さなければなりません。
それが示され実際に幽霊を確認できるまでは、幽霊が存在するとは思えません。

存在するということ2

原子は五感では感じることができませんが、存在すると信じています。
他にも存在すると信じているけれども、五感では感じられないものがあります。
そんな中で代表的なものが「心」ですね。

この「心」というのは、確かに他人のものは感じることはできませんが、
自分の「心」は五感でではありませんが、感じることができます。
だから「存在する」という感覚はあります。


存在するとは思わなくても、例えば「未来に幸せがある」などという表現はしますね。
この「幸せ」というのは「ある」とは言いましたが存在するのでしょうか。
その他、「重力」とか「普通」とか「幽霊」とかいろいろの言葉ありますが、
すべて、それらの言葉に対応して存在するのでしょうか。


一般的には五感などの感覚で捉えられるものを「存在する」と言いますが、
「原子」のような例外もあるということです。
これは「存在」という言葉の用法の問題であって、
「存在する」という表現がしっくり来ないものでも、
同じように「ある」ことには違いがないと思うのです。


問題なのは、それでは言葉があれば何でも「ある」「存在する」と言えるのかということです。
でたらめに「ありろ」と言えば「ありろ」があるのかというとそうではありません。
また、幻覚などで感じたもの(名前があっても)も存在するとは言えませんが。

例えば、「カンパネ(と命名した)」という動物が存在することを証明するためには、
その動物を捕まえてくるか、どうしたら捕まえられるかを示せばいいと思いますが、
それと同じことが言えるものに「神」があります。
「神」も連れてきてもらうか、どうしたらその存在を知ることができるかを示さなければなりません。

抽象的な概念、例えば「普通」などの言葉ですが、
こういう抽象概念は、五感や心の感覚で捉えられる言葉で定義できることです。
それが満たされれば「存在する」「ある」と言ってもいいのではないかと思います。

すべてについて確認した訳ではないので自信はありません。
反論を期待しています。

なお、「幽霊」については、別に記事を書くことにします。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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