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存在するということ

私たちはどういうときに「存在する」と言うでしょうね。
①今目の前にあることが目で見て確認できるとき、
②かつて目で確認しているのを記憶しているとき、
③マスコミやその他信頼できる人から聞いて信じているとき、
などでしょうか。

①と②は直接自分で見たことですが、
③は他人が見たであろうと信じていることです。
いずれにしても、視覚で見るということが大きなポイントになっているようです。

それでは音はどうでしょうか。
聴覚で確認して「存在する」と判断します。
即ち、人間の五感で確認できれば「存在する」のでしょうか。

「水」は目でも確認できますし、触っても確認できますから存在しますね。
それでは「流れ」も同じように、目でも確認できますし、触っても確認できますが、
はたして「存在する」のでしょうか。

「原子」は目では見えないし五感でも感じることはではません。
となると、原子は「存在しない」のでしょうか。


どうも、五感で感じられるかどうかで存在するかどうかを決めるのは問題がありそうです。

(今日はここまでにしておきます。ご意見あればお寄せください。)

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進化論への疑問

進化論によれば、生物は時間と共に進化するもので、
現在存在しているすべての生物は、
微生物から進化して生まれたものというのです。

私の疑問というのは、
もし生物が徐々に進化してきたのなら、
現在のように階層的に生物が存在せず、
もっと多様な形になっているのではないか、という疑問です。

例えば、ネコはヤマネコから進化したと聞きましたが、
ネコとヤマネコの中間の動物はいないのでしょうか。
どこかの島で発見されたと聞いたような気もしますが、
どうしてそんな特定の島にだけしかいないのでしょうか。
そのあたりにいてもいいと思うのですがね。

私は「神が一つ一つ創った」という創造論を支持するものではありませんが、
現在の生物の有様が、進化だけで出来上がったとは思えないのです。

合わない性格

合わない性格の人って、いるものですね。
「あの人どうしても苦手なんです。」なんていう人いますよね。
世の中にはそういう人っているもので、いわゆる価値観の違う人。
自分の価値観とは合わない。
だからよく意見が衝突する、そういう人です。

その苦手意識が強くなると、嫌いになってきます。
そのときどう思うかで、世間の見方が変わってきます。
自分の価値観が絶対で、それと合わない人は間違っていると思うか、
世の中にはいろいろの価値観の人があり、
それぞれがあり得る価値観なんだと思うかです。

自分を絶対と思うと、合わない人の存在が許せなくなります。
そういう人と接するたびにストレスが溜まります。
話をすると不愉快なので、その人を避けるか、
話を合わせば消化不良になってしまうし、
自分の話を通せば、時には喧嘩になります。

しかし、他の価値観もあり得ると思えば、存在を許せます。
あの人はああいう人だから仕方がない、と許せます。
もっと積極的に認められるようになれば、
その個性を尊重もできますし、その人の良さも見えてきます。
そしてその人の個性が羨ましくなり、憧れの対象にもなります。

それでも、どうしても認められないということもあることも確かですが、
自分の価値観が絶対ではないことに気付くことは大切だと思います。

「動物」は存在するか

「そんなもの存在するに決っている。あそこにもここにも居るよ。動物は」
とおっしゃるでしょうね。確かに居ますね。
しかし、「あそこに居るのは馬で、ここに居るのは犬ではないですか。「動物」なんて居ませんよ」
と言われたらどう答えますか。
「あれは「馬」でもあり「動物」でもある」とでも答えましょうか。

それでは「馬」には二つ名前があるということでしょうか。
それはちょっと違うような気がします。

「馬」というとき、そこには「犬」でもない「牛」でもない、
つまり、他の動物ではなく「馬」なんだという気持ちが含まれています。
「犬」や「牛」などいろいろ居る動物の中で「馬」なんだと特定しているのです。

「動物」という場合は、そこには「生物」でもない「物」でもない、
という気持ちが含まれています。

つまり、「馬」というときと「動物」というときとでは、
比較するものが異なっているのです。

そのときそのときの文脈で、何に対してのそのものかによって、
選ぶ言葉が「馬」になったり「動物」になったりするのだと思います。

そうすると、そのものが存在するかどうかということは、
あまり関係がないということになります。
もっと極端な例を言うなら「流れ」は存在するか、というような質問です。

存在するのは「水」であって「流れ」は存在しない、
などというのは意味がないということでしょうか。

「平等」ということの意味

国民は平等でなければならないとは、学校でも学びますが、
この「平等」ということの意味を
はっきりしないまま教わったような気がします。

「平等」とは辞書によると「差別がなく、すべて等しいこと」とありますが、
これをすべてに適用したら、おかしな社会になってしまいます。

運動会ですべてを平等にするため、
競走してもゴールは一列に並んで順位をつけないなどと、
おかしなことになってしまいます。
それなら最初から競走しなければいいのです。

平等なのは出発点だけです。後は実力で差ができると思いますが、
人間には個性があって、何か秀でているところはあるものです。

運動会の競走で言えば、
スタートラインは平等にしても、ゴールは実力どおり差をつける。
それでも、そのときびりになった生徒は算数は得意かもしれません。
たとえ学校の教科では優れたところはなくても、
その他のところで優れているかもしれません。
どこかで実力が発揮できればいいのです。

ゴールを平等にしては、実力は発揮できないですね。

悩み事は預けましょう

よく「ガンを苦に自殺」などというニュースを聞きます。
ガンと宣告されただけで自殺する人があるのですが、考えてみればおかしな話です。
ガンになって死が近くなったことを、苦にしての自殺ですが、
自殺をすればなお死が近くなるのです。
なぜ、こんな矛盾したことをするのでしょうか。

人間は、たいていの人は死ぬのが恐いものです。
ガンになったら必ず死ぬとは限りませんが、疑心暗鬼になって悪い方に考えてしまいます。
つまり、死と向かい合って生活することになります。それに耐えられなかったということですが、
それで自殺するのは、先にも言ったように矛盾しています。

その理由を考えてみるに、死と向かい合うことに耐えられないのではないでしょうか。
その耐えられない「自分」を無くすために自殺をするのでしょうか。
これは必然的な結末でしょうか。それは違うように思います。
同じ状況でも自殺する人としない人があります。それはどこが違うのでしょうか。

自殺して「自分」は無くすのではなく、苦しんでいる自分の心は預けることができます。
悩み事でも、人に話すと少し気持ちが軽くなります。
自分一人で悩まず、悩みを人に分けることです。悩みをすべて人に預けましょう。
病院の先生は一番頼りになる人です。自分の命を先生に預けましょう。
そして悩む心も一緒に預けましょう。
それでもまだ不安なときは、神仏にも心を預けてみましょう。

ガンだけに限らず、悩み事は全て預けましょう。
とりあえず、悩み事は自分一人で解決しようとしないことです。

犯罪はなぜ隠さなければならないのか

テレビを見ていると、
よく顔などをモザイクで隠して報道されることがありますが、
私はこれがどう考えても納得ができないのです。

どんな法律があって、
どんな根拠でそうされているのかは分かりませんが、
そうしなければならない理由が見つかりません。

例えば、暴走行為をしている現場の映像でも、
飲酒運転の現場を撮影して映像でも、
その他、どんな悪いことをしている現場を捉えた映像でも、
とりあえず、事実を伝えているのであり、隠す理由はないはずです。

単車にしても乗用車にしても普通に運転している分にはモザイクはされません。
モザイクするかしないかの区別はどこにあるのでしょう。
悪いこと、つまり犯罪は隠さなければならないのでしょうか。
凡人の素朴な感覚では、それは考えられない理由です。

どなたか教えていただけますか。その理由・・・。

ストレスをためない方法 その3

私のストレスをためない方法の三つ目は、
物事はほどほどにしておくということです。
自分に対しても他人に対しても完璧は求めないようにします。

物事には理想的な形というのがあり、
その通りに完璧にできるに越したことはないのですが、
そうならないことの方が多いものです。
それをどうしても完璧にしようとすると、ストレスがたまります。

理想から外れるということは、悪いことを認めることになると考えがちですが、
そうではないのです。
ここまでできれば上出来と思えばいいのです。
半分しかできなくても、半分は前に進んだのだと思えばいいのです。

第一、その理想というものだって、自分が勝手に思っているだけのものだったりして、
他にも良いものがあったりしますので、
成り行きに任せるのも案外良かったりするものです。

宗教なんて

先の「悟り」という記事の中で、
「悟るためには自我を取り除かなければならない」と書きました。
自我を取り去るなんて宗教というのは自分を捨て去るようなものだ、
と思われたと思います。

それでなくても宗教というのは、
「信じろ、信じろ」と主体性なんて認められないし、
第一神仏なんて見えないものを信じてなにになる、
と思われていますね。

宗教というのは、別の角度から言うと、人間(自分)を知るということでもあります。
自分のことは自分が一番よく知っていると言いますが、
人間というのは都合のいい動物で、自分に都合の悪いことは隠すことができ、
そのことにも全く気付かずにいらけるものなのです。

私も含めて一般の人は、このレベルで生活をしています。
「宗教なんて」と拒否する気持ちも、このレベルの心の表れです。

宗教は決して年寄りなどの弱い人だけのものではありません。
人間(自分)の本当の姿を知ることができるのです。
若さや力が溢れた元気な人にも必要なものです。

問題なのは現状の宗教と言われているものの有り様です。
真剣に布教活動をしているところは少ないようです。
単に信者を増やすための活動に終わっています。
求めている人、つまり年寄りなどの弱い人には働きかけても、
若い元気な人には無関心なのです。

悟り

「悟り」広辞苑によれば「まよいが解けて真理を会得すること」とあります。
この悟りを得るためには、どうしたらよいのでしょうかなかなか難しそうですが、
結論から言いますと、それは自分の自我や欲望を取り去ることだと思います。
それではどうしたら自我や欲望を取ることができるのでしょうか。
それは徹底的に自分の自我や欲望を知ることです。

その方法として最もよく採られるのが「内省」です。
自分の心をじっくり眺めてみることです。
これは簡単なようで中々できることではありませんが、根気よく続けることです。
そしてフロイトがいうところの深層心理にまでたどり着けば、「悟り」は近いです。

しかし、まだ超えなければならないところがあります。
今、自我や欲望を取り去ろうとしている「自分」というのは、いったい何なんでしょう。
それは「自我」そのものなんです。
つまり、自分すなわち自我で自我を取り去ろうという、矛盾したことをしているのです。
それを理屈でではなく実践して知る必要があります。
そして自分ではどうすることもできないことを悟ったとき、神仏があなたを救い上げてくれるのです。
これが仏教でいうところの「他力本願」です。これが「悟り」です。
これらはすべて心の中でのできごとです。しかし、幻想ではなく経験そのものです。

宗教や宗派によっては、こういう説明のしかたを嫌うところがあります。
例えば、
キリスト教は「そんな厄介なことはする必要がなく、イエス・キリストの話を受け入れるだけでよい」といいます。
また、仏教でも浄土真宗などは「釈迦の教えを聴くだけでよい」といいます。

しかし、こうした簡単そうに見える方法も、実はまったく同じなのです。
「話を受け入れるだけでよい」と言っても、簡単には受け入れられません。
自分の考え=自我が邪魔をするのです。
自分の考えに合わない教えは、すぐには受け入れられません。
つまり、ここでも自我を取り去るという作業が必要なのです。

自分に自信がある(すなわち自我が強い)うちは、なかなか宗教には接近できません。
ですから、宗教は悩める人、苦しんでいる人、死が近づいた人など弱い人に語りかけるのです。
しかし、自分に自信のある人にも必要なものです。
それについては、また稿を改めて書きたいと思います。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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