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神も仏も同じもの2

以前に「神も仏も同じもの」という記事を書きましたが、
そのときに寄せられたご意見などを参考に、
反対意見の典型的な形を考えてみました。

それは、神というのは天地を創ったこの世界の創造主であるのに対して、
仏は人間が例えば死んだときに成るもので、
この二つは似ても似つかないものという印象です。
同じものであるのにどうしてこういうことになるのでしょうか。


神も仏も一人ひとりの心の中にあるもので、
私たち人間を見守っているものです。
そこからどうして「世界の創造主」や「死人の成るもの」になるのでしょうか。

先の「神も仏も同じもの」でも説明しましたが、
やはり見えない神や仏を説明するときの説明の仕方にあると思います。


「人間を見守る」というのは単に見ているだけではありません。
親が子供を見るような目で見ているのです。
子供のころ、親は何でも叶えてくれる大きな存在でした。
親は何でもできる力を持っており、世界の中で一番頼りになる存在でした。

そこから神は世界を創造した者でなければならない、という考えが生まれたものと思われます。
それでは仏はなぜ世界の創造主にはならなかったのでしょう。
それはおそらく他の教義との関係で、その必要性がなかったからだと思います。


仏教ではなぜ死んだら仏になるのでしょう。
私は「神も仏も一人ひとりの心の中にある」といいましたが、
もう一つ心の中にあるのは欲望です。

死んだら人間の欲望は消えてなくなります。
そして神や仏だけが残るのです。
それを仏教では「仏になる」と表現するのです。
キリスト教では「神に召される」といいます。
どちらも同じことを言っているのだと思います。

このように神も仏も同じものなのです。

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哲学者よ聞け

哲学者というのはよく言えば好奇心が強く、あらゆる疑問に答えを求めます。
しかし、人間にできることには限界があるように思います。
人間に出来ることは、感覚器官で自然や社会などの外界からの情報を受け止めること、
つまり、大雑把に言えば、感じてそれに対する判断をすること、
それから論理的に推理すること、そして行動器官で外界に働きかけることです。

いま、私の机の上にはコーヒーカップが置いてあります。
哲学者は、机を背に後ろを向いたら、机の上のコーヒーカップはあり続けているのかと疑問を発します。
凡人なら、疑問に思うなら振り向いてコーヒーカップがあることを確認します。
ところが哲学者は、後ろを見ずに腕組みをして「解らない」と嘆くのです。
腕組みをして何をしているのでしょうか。論理的な推理でしょうか。
詳細は省略しますが、論理は、経験を超えることはできません。
したがって、人間にできることでコーヒーカップの疑問を確認するには、
振り向いて(行動器官で)コーヒーカップがあることを確認(感覚器官で)するしかありません。
そうして見てないときもコーヒーカップは存在していると信ずるしかないのです。

もう一つ例を上げましょう。
フランスという国があることはたいていの人は知っています。
けれども、私はフランスに行ったことがなく、その存在を疑えば疑えます。
しかし、私はフランスは存在すると信じています。それは色々のことを総合的に判断してのことです。
それではまだ地理を習っていない小学生はどうでしょうか。
先生から教えられ地図を見てフランスという国があることを知り、やはり信じます。
もう少し高学年になれば、インターネットなどで調べて、フランスの存在をこれも信じます。
自分が今知っているものの中で、自分が直接確認したことがらは、ごく僅かです。
ほとんどは親から教えられたり先生からおしえられたりインターネットで調べたりして、
間接的に知って信じているものです。
人間が今信ずることを止めたら、生活が成り立たなくなります。
それほど人間にとって信ずるということは大きな比重を占めています。

ところが、哲学者は疑うことばかりしていて、
人間にとって非常に重要な部分を占めている信ずることを忘れているのです。


                    2005.7.30.投稿のものをタイトルを変えて再投稿しました。

悪の心理

この際、何をもって「悪」とするかが問題になりますが、
とりあえずは「故意(積極的)に法律を犯す行為」とでもしておきましょうか。


私たち人間には欲望があります。
食欲・性欲・名誉欲が三大欲望と言われますが、

食欲はお金があれば何とか満たすことはできます。
ですから何らかの理由でお金がなくなれば、物を盗むなどの法律を犯します。

性欲もお金で何とかなる部分もありますが、
相手がいなければ満たすことはできません。
ですから特に若い人などは、法律を犯してでも欲を満たそうとします。

名誉欲もお金で買えることもあり、
本来の手段ではなく、お金で地位を買い取るという、法律を犯すこともあります。

欲望が満たされなければ、誰でも法律を犯すかと言えば、そうではありません。
たいていは切羽詰った状態になる前に、何らかの対策を立てるか、
そうでなければ諦めるかして、法律を犯さないようにします。
法律を犯す人と犯さない人、その差はどこにあるのでしょう。

私は思うのですが、プライドが高いか低いか、
もっと言い方を変えれば、世間体を気にするかしないかが関係しているように思います。
つまり、切羽詰った状態のときに、
法律を犯すような恥ずかしいことはできないと思うかどうかの差だ思います。


法律を犯すことを恥ずかしいと思わない極端な例に、
「悪は人間本来の姿」という考え方があります。
確かに、人間は欲望を満たさなければ生きてゆけません。
心の奥を覗けば、その欲深さがわかります。
善行を施すことが人間のあるべき姿、などというのはウソで、偽善にすぎないという訳です。
自分の気持ちに正直に行動すれば、悪を生きることになるということでしょうか。



自分に正直に生きるな」を参照ください。

ブルックナー


ブルックナーを取り上げた理由は、その良さが分からないからです。
聞いての印象は、とりあえず「長い」ということで、この長さには耐えられません。
まあ、ブルックナーを全部聞いた訳ではありませんが、食わず嫌いでしょうか。

好きな方には「たまらない」のだと思いますが、そのたまらなさをお聞かせください。
初めて聞くものが聴くとしたら何がいいのか、どこがいいのか聞かせてください。

私がブルックナーで知っていることは、
朝比奈隆の大フィルの演奏が有名であることくらいです。
これは海外でも知られていると、どこかで聞いたことがあります。

上のジャケットは
その朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニーによる、ブルックナーの交響曲第8番です。

「意識」は科学の対象になり得るか

「意識」一言で表現すれば、心の働きです。
物理学はあらゆる物について対象を広げ、今では分からないことがないと言ってもよいくらいですが、
心については、全く手付かずの状態です。
心理学という科学があります。これは当に心を対象にしていますが、
研究する人が研究される人、すなわち他人の心を研究するものです。
しかし、心を直接観察できるのは自分だけです。他人の心は見えません。
今問題にしているのは、自分にしか感じられない自分の心すなわち「意識」なんです。

現在考えられる心への接近方法としては、次の三つがあります。
   ①、脳科学を中心とした神経生理学的方法、
   ②、ロボット科学を中心とした電気回路に基づく方法、
   ③、従来からの哲学的方法、
この記事の議題が「意識は科学の対象になり得るか」ですので、
③は科学ではなくこの際対象から除外されますので、①と②について検討してゆきます。

①の脳科学が、脳の隅々まで神経細胞の仕組みが詳細に明らかになっても、
それは物としての脳についてであって、その脳の持ち主が今感じている意識自体は分からないのです。
②のロボット科学が、いかに人間の脳とそっくりの回路を作ったとしても、
そのロボットが、意識を持っているかどうかを確認する方法がありません。
だから科学は意識を対象とすることはできないのです。

意識はやはり哲学の対象領域です。
しかし、現状の哲学は哲学者が勝手気ままに意識について論じており、
これでは科学としてまとまり様がありません。
何かもっと整理してくれる人が出てきて欲しいものです。




                                 2005.10.15.投稿のものです。

感謝の言葉か褒め言葉か

子供のしつけは難しいですね。
先に「褒めるか叱るか」という記事を書きましたが、
褒めるのにも二つの方法があることに気づきました。

何かいいことをしたときに、
「かしこいね」とか「よくやったね」とか褒め言葉を掛けるか、
「ありがとう」などの感謝の言葉を掛けるかです。

「かしこいね」などと言われたときには、
優越感を持ちそれは自信にもつながります。
同じ事をしようという気持ちにもなるので、一定の効果はあります。

「ありがとう」などと言われたときには、
喜んでもらえたという嬉しい気持ちになれますし、
役に立ったという自信にもなります。
こちらも一定の効果はありそうです。

この二つの褒め方を上手く使い分けるのがいいとは思いますが、
どちらが子供のしつけとして良いかと考えてみました。

結論を言いますと、
「かしこいね」は自分は他より優れているという競争心を煽りますが、
「ありがとう」は社会の役に立ったという、言い換えれば共に歩むという協調心を育てます。

どちらが良いかはみなさんの判断をお聞かせください。

反対意見大歓迎

私のブログは反対意見大歓迎です。
それはいろんな人のいろいろの意見が知りたいからです。
例え勘違いのコメントであっても、
記事の書き方のどこが悪かったのかの参考になります。

一番いい形は、いただいたコメントを基に記事を訂正したりして、
より良いものにできることです。
記事の悪い部分を書き改めたり、
加筆したりということは、これまでにもしてきました。

一番問題なのは、私がいただいたコメントに納得できないときです。
反対意見大歓迎と言っても、納得のできないコメントを受け入れることはできません。
そういうときは当然反論をすることになるのですが、
これがなかなか問題なのです。

こんなコメントをいただいたことがあります。
なかなかお互いが納得できない状況で、
「ここは反対意見大歓迎ではないのですか」というコメントをいただいたのです。

「歓迎」ということは「受け入れる」と受け取られてしまうのですが、
そうではないのです。
反対意見をいただいて議論がしたいのです。
議論することによって自分の間違いに気づかせていただいたり、
新しい真理が発見できればいいなぁと思っているのです。

そんな訳ですので、反論をしても悪く思わないでくださいね。

変えられるのは自分だけ

この世界は自分を自然や社会が取り巻いています。
そしてその自然や社会と係わり合いながら生きています。
できれば自分の都合の良いように、自然や社会を変えたいと思います。
そうしようと行動しますが、思うようにならず苛立ちます。

私たちは自然や社会は自分の力で変えられるものと思っています。
だから自分の思うようにならないと、相手つまり自然や社会が悪いと思ってしまいます。
しかし、変えられるものはもう一つあります。
それは自分です。自分の心です。
あれが欲しい、これが欲しい、ああして欲しい、こうして欲しい、
と言っている自分の心を変えることができます。

自分の思い通りにならないのは、本当は自分の心なのではないでしょうか。
「変えられるのは自分だけ」と思っていれば、苛立つことはありません。
苛立つのは誰のせいでもないのです。自分のせいです。



                                  2006.4.15.投稿のものです。

理想について

「理想」を旗印にする人は、最近は見かけなくなりましたね。
「正義」という言葉も同じような状況にあります。

どうしてそうなのか考えてみましたが、いくつか理由はあると思います。
1、価値観が多様化して、どれが理想なのかの判断がしにくくなったこと、
2、国民の大部分の生活が向上し、治安も良くなって「正義の味方」の登場する場面がなくなったこと、
などでしょうか。
「理想」とか「正義」という言葉を使うことすら気恥ずかしい思いがします。

もう一つよく言われるのは「現実は理想どおりには行かない」という言葉です。
こういうことを言う人は「だから理想を追い求めるのは無駄だ」と続けます。
しかし、私はそうは思いません。
少しでも良くするために理想を追求するのは悪いことではありません。

問題なのは、理想とする姿を追い求めるあまり、
その理想に届かない人たちを排除してしまうところです。
極端な話「それが分からない、それが出来ないやつは人間じゃない」という訳です。

理想を追求するということは、理想に到達しない人を排除することではないと思います。
理想に到達しない人たちも一緒に理想に引き上げることです。
だから、そういう人たちの価値観や心理を研究し、
現実の不都合な部分を改善することも大切です。

ところが、理想を追求する人の多くは、現実を見ることは現実を容認ことになるというのです。
繰り返しますが、理想に届かない人たちを排除することはできません。
みんな一緒に進まなければならないのです。

人には上下がある

私がある有名な禅宗のお寺に行ったときの話です。
あるお願いをするために、管長を尋ねて行ったのですが、
広い境内の管長の居られる場所を受付で確認してから、その場所に行ったところ、
入り口付近を掃除中の小僧さんがいたので、管長に会いたい旨伝えました。

管長は在宅の様子で、小僧さんが取次ぎに中へ入って行きました。
そして小僧さんが出てきましたが、別の所へ案内してくれました。
そこで出てこられたのは、管長ではなく、私の身分を聞くなどして、
「管長には会わせられない」というのです。

私は「私は凡人で名乗るほどの者ではありませんが」と言ったところ、
少し態度が丁寧にはなりましたが、結局管長には会えませんでした。
私はそのとき「私は管長に会えるほどの身分ではないのだ」と思いました。
そして「人間には上下があるのだ」と痛感しました。


考えてみれば、世間には一般人から憧れの的になっている人は沢山います。
有名タレントと聞けば、会いたいと思う人は沢山いるでしょうから、
その希望にいちいち応じていたら、肝心の仕事やプライベートなことができなくなります。

だから人には上下があるのです。



                                  2005.10.7.投稿の記事です。

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Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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