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黄色のセンターラインの意味

黄色のセンターラインの意味は、
「追い越し禁止」とか「はみ出し禁止」とか言いますが、
本当はどういう意味なのかと思ったことありませんか。

私が運転免許を取得するため教習所に通っていたときの話です。
初めて路上に出たとき、片側一車線の道路で、前方に駐車車両がありました。
「黄線ですが対向車線に出てもいいのですか」と訪ねたところ、
「出ないと前に進めんやろ」と言われたことを思い出します。

私は黄色のセンターラインの意味は、
前車を追い越すために黄線をはみ出してはいけないのだと思っています。
だから、はみ出さなければ追い越しても良いと思っています。

前車が乗用車などの四輪車の場合は、実質的に追い越しはできませんが、
自転車やバイクは、状況によっては追越が可能です。
しかし、道交法では自転車などの側方を通過するときは、
1.5m以上空けなければならないことになっています。
となると、幅員の狭い日本の道路では、自転車やバイクですら追い越せないことになります。

かなり以前の話になりますが、片側一車線の国道を走行していたとき、
後ろにパトカーが付いて、何十キロも走行したことがあります。
当然ながらその間、自転車やバイクを追い越す場面がありました。

私は少し減速して、黄線からはみ出さないように、できるだけ右に寄って、
走行していましたが、自転車やバイクとの間は1.5m以上は空いてないこともあったと思います。
しかし、パトカーからは何も言われませんでした。

ところが、かなりの距離を走行したところで、また自転車を追い越したとき、
後ろのパトカーが、自転車を追い越すとき、大きく右にはみ出して走行したのです。
つまり、走行の仕方を私に教えたつもりのようでした。
それ以降、私も右へはみ出して走行するようにしましたが、
何も言われませんでした。

いったい黄線の意味はどういうことなのでしょうね。
皆さんはどう思われますか。

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電柱を残して電線を地中化しては

最近、都市の街路が美しくなってきました。
電柱を地中に埋めて電線がなくなり、空がすっきりしたためです。
しかし、よく見てください。
電柱は埋めたのに照明灯や信号機や道路標識やミラーなどの支柱(電柱)がたくさん立っています。
街路がすっきりしたのは、電柱が無くなったからではなく、電線がなくなったからだったのです。
それなのに電柱を無くすことのみが叫ばれていて、選択の幅を狭くしています。

日本の電線地中化工事は、地上にある間隔で大きな箱が置かれています。
中に何が入っているのか詳しいことは知りませんが、
多分、電柱の上に取り付けられていたトランスなどが入っているのだと思います。
ですから、この箱が置けるだけの道路幅員がなければ、電線の地中化はできないのです。

日本の観光地は道路の狭いところが多く、電線の地中化ができず、
せっかくの美しい景色を電線が損ねています。
そこで提案なのですが、電柱は残してトランスを取り付けて電線だけを地中化してはどうでしょうか。
そうしたら場所は狭くても電線の地中化はできます。

実は一部そういうところがあるのですが、電線の地中化が完全でなく(電線が残っている)、
電柱も代用品が使われているため、デザイン的にもう一つのものになっています。
従来の電柱より低く細い、電線地中化専用のデザインの電柱を使うとか、
照明灯や信号機や道路標識やミラーなどの支柱と共用するとかすれば、
観光地の空は美しくなると思います。

京都の観光地などは道路が狭いため、それが障害になって電線の地中化が進んでいないのです。
電柱を残す方法を採用して、早く国際観光都市に相応しい街にして欲しいものです。

言葉の意味

人とコミュニケーションするためには、多くの場合言葉を使います。
そのとき言葉は人(相手)に何を伝えているのでしょうか。
こういう疑問に答えようとするのが、哲学ないし言語学の意味論です。

言葉の意味については、諸説がありますが、
私は言葉の意味を、他の言葉と相対的に位置づけする考えに賛成です。
言葉の意味が相対的に形成されているということを説明するのに、もっともよい方法は、
比較(相対)する相手がない状態を考えてみることです。

例えば、もしこの世界がすべて赤い色をしていたら、比較する他の色がありませんので、
他の色と区別はできないし、そのいろを指差しで示すことも意味がありません。
「赤い」という言葉を使う場面はなく、「赤い」という言葉も必要がありません。
したがって、「赤い」という言葉も生まれません。
このように言葉の意味は他のものがあって初めて相対的に決まるのです。

言葉は、いくつかの言葉が集まって、グループで意味を形成します。
例を上げましょう。
一方でなければ他方であることが決まる2語で形成されるもの、
   「男」と「女」、  「生」と「死」 など
2語以上で形成されるもので、一方でなければ他方とは限らないもの、
   「善」と「悪」、  「大」と「小」、  「強」と「弱」 など
   (「大」でなければ「小」とは限らず「中」ということもある)
反対の動作を表す2語で形成されるもの、
   「行く」と「来る」、  「乗る」と「降りる」 など
同じ事柄であっても、立場によって表現が異なるもの
   「売る」と「買う」、  「やる」と「もらう」、  「教える」と「学ぶ」 など
以上上げたものは2~3語で形成されるもので、典型的なものの例ですが、
もっと沢山の語がもっと複雑な構造でグループを形成しているものなど他にもいろいろあります。

言葉(特に日常言語)は、かなり複雑に絡まっており、
上記のように単純には言えないケースもありますが、
基本的には言葉の意味は相対的に位置づけされます。

人間は誰が創ったのか

自動車は沢山の部品からできています。
そしてその組み立てられた部品は物理法則にしたがって運動します。
しかし、自動車は右にも左にも自由に動きます。
(正確には運転者が運転して始めて動くのですが)

自動車は速く楽に目的地に行くための道具です。
しかし、個々の部品にはこの自動車としての役割は含まれていません。
つまり、自動車は個々の部品の動きの総計ではなく、
一つのシステム(構造体)として運動しており、
個々の部品の動きの総計に、何かがプラスされたとみてよいと思います。
自動車として出来上がったときにそれは付け加わるものです。

それでは誰がそれをブラスしたのでしょうか。
それはその自動車を設計した人です。そしてそれを運転する人です。

人間も構造体として目的がプラスされて生きています。
自由に行動ができ、未来は決まっていません。
人間の運転者は自分自身ですが、それでは設計した人は誰でしょう。
みなさん一緒に考えてみてください。

夢を持つということ

夢を持つということは、未来という時間を手に入れることです。
もし夢がなかったら、毎日毎日がただ平凡に過ぎ行くだけですが、
夢ができることによって、夢の届く未来まで心の中に時間が生まれます。

夢は、未来の時間です。
夢は、自分自身の可能性です。
夢は、自分の身体や頭脳の能力です。

自分に足がなかったら、スケート選手になる夢は持てません。
自分に数学的頭脳がなかったら、数学者になる夢は持てません。
自分に可能性があるから、夢が持てるのです。
自分に能力があるから、その能力で夢を実現することができるのです。

夢は可能性としての時間です。
夢が広がれば、時間も未来に向かって広がります。
皆さん、夢を持ちましょう。夢は希望という時間です。

諸行無常

人間は自分の力で未来を切り開き、自分の思いを達成できると思っています。
だから努力をするのです。
もし達成できなかったら、それは努力が足りなかったと思います。

しかし、よく考えてみてください。
努力をしてもできないこと、ならないことって割りにあるものです。

例えば、誰も死を止めることはできません。
地震や台風などの自然災害も完全には止められません。

例えば、こんなことはどうでしょうか。
日本の国を思い通りに動かすことはできるでしょうか。
総理大臣になればできるかもしれませんが、総理大臣には一人しかなれません。
つまり大部分の人は、日本の国を思い通りに動かすことはできないのです。

それでは、人の心は思い通りに動かせますか。
これもなかなか難しいですね。
何とか思い通りにしようと努力はしますが、できないことの方が多いのではないでしょうか。

自分を取り巻くこの世界のすべてを、自分の思い通りにしようなど無理なことですが、
しかし、自分に与えられた仕事は責任をもってやり遂げたいし、
せめて自分の家族は自分の思い通りにしたいと思います。
そうは言っても、仕事での失敗や家庭の崩壊はおきるものです。

その他いろいろ、思い通りにならないことは沢山あります。


思い通りにならなかったらどうしますか。
癇癪を立てて怒りますか。頭を抱えて悲しみますか。
もっと努力をして、何とかしようとしますか。

この世界で自分の力の及ぶ範囲はかぎられています。
どんなに頑張っても自分の思いをつなぎ止めることができないことってあるものです。
この世界は諸行無常です。

思い通りにならなかったら、諦めるしかありません。
新しい道を見つけることです。

人間って面白い

人間の姿、それも自分の姿を見ていると面白い。
つまらないことに腹を立てて怒ってみたり、
つまらないことで喧嘩したり、
つまらないことに感激して涙を流したり、
つまらないことに喜んだり、
ちょっと距離を置いて見てみると、犬がじゃれている姿に似ています。

人間から見れば、犬のじゃれごとなどは他愛も無いものですが、
それと同じように、
神仏からみれば人間のすることなどは、他愛もないことだと思います。

生きてゆく上では、苦しいことも辛いこともあると思いますが、
少し距離を置いて自分を眺めてみる余裕があれば、
苦しいことも辛いことも「面白い」と思えてきます。
そう思えるようになったら、生きることは楽しいものです。

また、人間は完全でないところが面白い。いろいろ失敗するところが面白い。
さらに完全でないのに失敗すると落ち込むところが面白い。
失敗したら「やっぱり俺は人間だ」と喜んでもいいと思います。

そんな風に思っている私ですので、人の失敗を見てふざけてしまい、
プライドを傷つけたりして、不愉快な感じを与えることがしばしばです。
そういう不愉快な感じを与えてしまった方がありましたら、この場を借りてお詫びします。

しかし、自分の失敗を笑って受け止められるくらいの余裕があっても良いのではないでしょうか。
どうせ完全ではない人間のすることですので、神もお許しのはずです。


         この記事は2006.3月と6月に投稿した二つの記事を一つにして再投稿したものです。

泥棒にも十分な道理

テレビのワイドショーなどで、有名人の家に泥棒が入った、
などという話題がでることがあります。
有名人の豪華な家が映って「ここから犯人は侵入した模様です」などと、
リポーターが案内します。
そして決まって同情されるのは、被害者の有名人の側です。

もし、犯人が飢えをしのぐために泥棒をしたとしたらどうでしょう。
それほど極端でなくても、ほんの少し贅沢をしたいために泥棒したとしたら、
同情されるのは泥棒の方ではないでしょうか。
泥棒をしなければ生活が維持できない境遇なのです。
泥棒に入られた有名人は、それでも明日の生活には困らないのです。

私たちは、とりあえず生きてゆくのに、つまり食べるのに困ることはありません。
そういう枠組みのなかで、法律を守り、社会規範を守っています。
その枠組みからみれば、泥棒の方が悪いから同情される側にはならないですが、
食べることにも困る状態では、私たちの枠組みは崩れてしまいます。
だから同情される側も逆転します。

泥棒にも十分な道理があるのです。
これはジョークとしたいのですが、あまりにも現実的ですね


                   この記事は2005/10/22に投稿したものを再投稿したものです。

アリコのコマーシャル

最近、保険のコマーシャルが目に付きますね。
いろいろの保険会社のいろいろの種類の保険のコマーシャルが・・・。
そんな中でアリコの入院保険が目に入り、申込みました。
既往症があっても加入できるというその保険です。
ところが「お断り」の通知が届きました。

私は既往症として「高血圧」と「高脂血症」がありますが、
両方とも軽いもので、薬を飲んで正常値を保っています。
最近の保険はこれくらいなら加入できるところが多く、アリコの保険もその手のものでした。

どうも断ってきた理由は、この二つの既往症ではなかったようです。
表面上の理由は「保険医学上」などと訳の分からないものでしたが、
実際は健康診断で心臓の「左室肥大の疑い」で「精密検査が必要」とされたことにあるようです。
精密検査では「全く異常はなく肥大していない」ことが分かったのですがね。

既往症でもない、精密検査をしたというだけで加入させないのです。
精密検査の結果は異常がなかったにもかかわらずです。
病的に心臓壁が肥大しているのではなく、脂肪が薄く付いているだけだったようです。

全くあのアリコのコマーシャルはウソです。

「自分」ってなに

「自分」には特定の名前もあるし、生年月日もあるし、
顔の左の頬にホクロがあって、鏡で見たらすぐに自分と分かる、
これが「自分」だ、という人もあると思いますが、確かにそれも「自分」です。
しかし、ここで「自分」と言ったのは、特定の「自分」ではなく、
誰にでも当てはまる一般的な「自分」なのです。
「他人」にはなくて「自分」にしかないもの、それが「自分」であることの証拠です。

少し前に「哲学的疑問の起源」という記事の中でも述べましたが、
思春期になって突然この「自分」に気づくときがあります。
本物の心を感じることができるのは「自分」だけであり、
「他人」の心は感じることはできません。
また、「他人」は感覚器官で見たりすることでのみ、その存在を知ることができますが、
「自分」は体の内側からも感じることができます。これらは「自分」独特のものです。
それが「自分」なんです。

しかし、たいていの人は、この答えでは納得しないでしょう。
「自分てなに」という問いのなかには、自分が存在することへの「不思議」や「驚き」の気持ちが含まれています。
つまり、ここに存在することの理由が知りたいのです。
ここにコーヒーカップがありますが、このコーヒーカップが存在するのは、
陶器屋さんが作ったからですが、その理屈で言うと、
自分が存在するのは親が生んだからということになります。
しかし、この答えでも誰も納得しないでしょう。

「自分」は考える以前に、すでに存在しており、ただ生きるしかないのです。
「自分」の意思とは関係なく、生きなければならない存在です。
「自分」は自分の意思で生きているのではなく、生かされているのです。
「自分」で「自分」の存在理由を問うことはできません。
陶器屋さんは、この形のコーヒーカップはよく売れるという理由で、コーヒーカップを作りました。
親は、もう一人子供が欲しいという理由で、子供を作りました。
それぞれ作る側には、その理由はありますが、存在する側には、存在する理由などないのです。
なぜ空があるのか、なぜ地球があるのか、と聞かれても答えられないのと同じです。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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