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正義感

子供は純真でいいな、なんて感じる事もありますが、
そのまま大人になったら、気持ちが悪いですね。
この感覚は何なんでしょうね。

子供の純真さというのは、子供だから許されることで、
可愛いとも思えるのですが、
大人がそうしてはおかしいと思えるのは、何かが抜けているからですね。

大人の人でも正義感の強い人がいますね。
言っていることは正義に満ちており、反対することができないのです。
だから黙ってしまうのですが、心の中では賛成しかねている。
そういうこと、ありませんか。

この感覚、この「何かが抜けている」という感覚はどこからくるのでしょうか。
それは理想と現実のギャップではないでしょうか。

大人になると、人間というものが分かってきます。
それも他人の話ではなく、自分も含めた人間についてです。
こうありたいと理想を描いても、そうはできない現実というのがあるのです。

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便所の標語に思うこと

スーパーやコンビニなどの便所を使わせてもらうことがありますが、
便所の標語と言ったら「きれいに使いましょう」などというのを思い浮かべます。
しかし、最近は少し様子が変わってきましたね。
    「きれいに使っていただいてありがとうございます。」とか
    「皆様のご協力により、便所はきれいに保たれています。」など、
「お願いします」から「ありがとうございます」に内容が変わってきました。

皆さんはどう思われますか。私は何か違和感を覚えるのですが。

便所がきれいに保たれているのは、掃除婦さんが掃除されているからですね。
便所の利用者がきれいに使っているなんて、どこで観察しているのでしょうね。
どう考えても最近の標語は、嫌味に聞こえます。

商売をなさる方にとっては「お客様は神様」かもしれませんが、
ウソ見え見えの標語は考えものだと思います。

言葉は世界のモデル

言葉を使わずに意思を伝えたり考えたりすることは、不可能ではありませんが、
何か道具を使った方が考えがまとまり易く伝え易いものです。
ものを数えるにしても現物を数えてもできますが、
指で数えたり、図を書いて数えたりもできます。この指や図は一つのモデル(模型)です。
物理学の多くの部分は数式でその関係が表現されますが、その数式もモデルです。

言葉で考えるということは、意味している対象を、
言葉でモデル化して考えるということです。
その方が考え易いし、伝え易いのです。
そしてこの言葉のモデルは、単語を部品として組み立て自由なモデルなので、
どんなことも表現可能な汎用性の高いモデルなのです。

世界を言葉で表現するとき、物については比較的に容易ですが、
心については、他人の心が見えないだけに、学問的にはいろいろの問題を生じます。
しかし、日常的にはそれほど混乱なく、心について語られています。
それは長い成長過程に形成されたものだと思いますが、
会話者の間に言葉の共通のモデル化がなされているからだと思います。

最近の就職事情

我が家の娘が就職活動の時期に差し掛かっているので、
いろいろと最近の就職事情が耳に入ってきます。
一番変化を感じたのは、就職試験の際、出身学校を伏せて選考している会社が増えているということです。
その結果、娘が通っている大学は、京都では二流の大学ですが、
これまでにはなかった一流企業への内定者が続出しているということです。

我が家の息子は既に就職していますが、京都では一流の国立大学を卒業しました。
就職のときの状況を思い出しますと、希望の一流企業をどんどん落ちてくるという話を聞きました。
娘とは3年という期間のずれはありますが、もう大学の名前で就職する時代は終わったと感じています。

私は受験戦争の原因は、企業の一流大学指向にあると思っていましたので、
この最近の就職事情は、明るい材料ではないかと思います。
この傾向が続きますように祈りたいと思います。

死後の世界を知る方法

「死後の世界」という記事のなかで、この世界は欲を通して見ている世界だ、と言いました。
この世界で生きるということは、欲をもって生きるということです。
「死にたくない」という欲があるから生きるのであり、
食欲があるから死なないのであり、性欲があるから子孫が絶えないのです。

欲がなくなったら生きては行けません。
欲がなくなるということは、死を意味します。
ということは、死後の世界を知りたければ、欲を無くせばよいと言う事になります。

多くの宗教は禁欲生活を奨励します。
それは死後の世界を知るためというよりは、平安を求めているのです。
すべての苦の原因は欲にあるとして、欲を取り去った先にある平安を求めているのです。
その他にも、欲を取るために修行をしたりもします。

死ねば欲はなくなりますが、生きていながら欲を取り去ることなど可能なのでしょうか。
それが可能なようなのです。仏教などで言う「悟り」がそれです。
この「悟り」生きていながら死の世界を体験するものです。
この世界が相対的真理世界であるのに対して、そこは絶対真理の世界です。
そして喜びに満ちた世界なのです。

それでは欲を取り去る方法を具体的に説明したいとおもいますが、
また稿を改めて記事にしたいと思います。

「理性」という心はない

よく「理性で判断する」などと言いますが、
この理性というのはどんな心の状態なのでしょうか。
一般的には、欲望などに左右されずに判断できる能力を指す言葉として使われていますが、
欲望に左右されない判断などあるのでしょうか。具体的にみてみましょう。

何かに憤慨したときにとる行動は個人によって差があります。
法律や社会規範などおかまいなしに行動する人もいますが、
たいていは「理性」で判断して法律や社会規範を守って生活しています。
一般的には後者の生き方が良いとされます。
もちろん社会からみればその通りなのですが・・・。

この後者の心理を分析してみましょう。
後者の人は、おそらく社会的にもそれなりに成功している人か、
それほどではなくても、少なくても生活に困窮するようなことがない人でしょう。
家庭を持っていて子供もいるかもしれません。
会社ではそれなりの役割があたえられているでしょう。
何かに憤慨しても、家庭や会社のことを考えると、
そのままの気持ちを行動に移すことはひかえるでしょう。
つまり、憤慨をそのまま行動に移して、気分を晴らすプラス面と、
そのことによって、家庭や会社に迷惑をかけるマイナス面を計算しているのです。
したがって、理性的判断というのは、どちらが得かの価値判断だったのです。

どちらが得かというのは、自分の欲望に聞いていることですので、
理性的判断というのも欲望に左右されているもので、
とても「理性」などと胸の張れるものではありません。


              この記事は2005.8.20.に投稿したものを再投稿したものです。

死後の世界

人間が死んだ後の世界はどんなものなのか誰しも関心はあると思います。
死んだらまた誰かに生まれ変わるとか、他の動物に生まれ変わるとか、
悪い事をしたものは地獄に落ちるとか、良い事をしたものは天国に行けるなど、
いろいろの事が言われていますが、実際はどうなんでしょうね。

この世界は、人間の欲望の目を通して見ているため、
良いものであったり悪いものであったり、怖いものであったり楽しいものであったり、
悲しいものであったり、美しいものであったりするのですが、

死ぬということは、欲望は消えてなくなります。
当然ながら死後の世界は全く違ったものになります。
この世界では良いと思っていたものも良くなくなり、悪いと思っていたものも悪くなくなります。
美しいものと美しくなくなり、醜いものも醜くなくなります。
この世界では死ぬ事は怖いことでしたが、死後の世界では怖くなくなります。

欲望の覆いを取り去ったときに見えてくる世界、それが死後の世界です。
それは真理の世界だと言われています。
それは喜びに満ちた世界だと言われています。

どうしてそれが分かるか、とのご質問ですか。
それはまたの機会に書くことにします。

法律は裕福な人の為にある

国民の大方の人が中流意識をもっていた時代は終わりました。
リストラが横行し、貧富の差が生まれてきています。
明日の生活にも困る人も出てきています。
その一方で有り余る財産を浴びるほど使っている人がいます。

どう考えてもこれは不平等で、民主主義には似つかわしくありません。
しかし、この民主主義に似つかわしくない状況を守っているのが法律です。

生活に困っているからといって、裕福な人から盗んでくることはできません。
法律が守っているからです。
「人の命は地球より重い」と言いますが、
死なないための食料を買うためであっても、お金を盗むことはできません。
法律が守っているからです。

法律は裕福な人を守るためにあると思いたくなります。
こんなこと、マジで考えたらおかしいですかね。
皆さんのご意見を聞かせてください。


                   この記事は2005,9,3,に掲載したものを再投稿したものです。

日常言語の曖昧さ

論理実証主義者は、日常言語は多義・曖昧などの理由で、
学問の手段とはならないといいますが、
それは日常言語を哲学や科学という狭い視点で捉えようとしているからで、
日常言語はそのほかにも遊びや仕事や芸術やその他いろいろの視点で用いているものです。
当然ながら多義にならざるを得ないのです。

一般的に会話者の間には、共通の視点があります。
奥さん方の井戸端会議では、今晩の夕食を何にするかという視点、
会社の会議では、来年度の経営方針という視点、
国会では、憲法改正の是非という視点、

井戸端会議の夕食の話しのときに「きのこ」と言っても、
誰も「きのこ雲」を思い浮かべて核武装の話と勘違いする人はいないのです。
言葉の意味を理解するためには、その場の視点に立って理解する必要があります。
そうすれば、多義・曖昧による混乱は生じないのです。

このように日常言語というのも、視点を限定すれば学問の手段にも使えるのです。

これでいいのか栄養価の番組

テレビで食品の栄養価について取り上げることがよくありますね。
そういうコーナーがあったり、それ自体が番組の主題であったりで、
とりあえず、「老化防止の食品」とか「ダイエットに効く食品」とか「何々病によい食品」とか、
そして「どれくらい摂取するのか」とか「効果的な摂取法」とか、
いろいろその栄養素の説明をしてくれます。
それを見た視聴者は、早速その食品を買いに走り、飽きるまで食べ続けるのです。
いったい、これでいいのでしょうか。

いろいろの番組でいろいろの食品が取り上げられていますが、
そればかり取り続けたらどうなるか、その害についてはほとんど説明されません。
それから、他の栄養素とのバランスについても、ほとんど説明されません。

あれはいい、これはいい、これもいいで、すべて食べようとしたら大変な量になってしまいます。
適量をバランスよく摂取することを中心に番組を組み立ててほしいものです。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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