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菊は一輪


菊の花は科学的には花びら一つで一つの花だと言います。
つまり一輪の花には沢山の花が集まっていることになります。

上の画像を見てください。菊の花が集まっています。
普通、「花が集まる」とは上の画像のような状態をいいます。
そして一つの菊の花は、中心に雄弁・雌弁が集まっていて、その周りを花びらが取り巻いている状態をいいます。
それをなぜ「一輪の花は沢山の花の集まり」と言わなければならないのか凡人には不思議です。

あまり詳しい事は知りませんが、構造的にみて複数の花が集まっているとしているのだと思いますが、
外見的には菊の花は一輪なのです。
沢山の花が集まっていると見るか、一つの花と見るか、
これは単に構造的か外見的かの視点の相違によるもので、本質的な違いはないと思います。

科学的には構造的に見て沢山の花が集まっていると言いますが、
外見的に見ることが、なぜ科学的でないのか、その説明をしてほしいものです。

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電磁波とガン

電磁波とガン、特に血液のガンである白血病と関係があると言われています。
実際にその関係が、科学的に証明されたわけではないようですが、
統計的にその関係が疑われているようです。

電磁波を出す電気製品として、電子レンジが上げられますが、
電子レンジに限らず、電気の関係するものは、大なり小なり電磁波が出ているようです。

しかし、家の中を見渡して見ると、電気製品で溢れています。
いかにガンになりたくなくても、電気製品を無くす事は不可能のようです。

街には車が溢れています。そして事故で怪我をしたり死亡したりする人がいます。
死にたくないからと言って、街に出ないわけには行きません。

事故に遭ったら運が悪かったと諦めるしかありませんが、
ガン(白血病)になっても現状では、運が悪かったと諦めるしかないのでしょうかね。

一般的な善し悪しの基準

以前「自分に正直に生きるな」という記事を書いたことがあります。
ご意見はいろいろでしたが、「自分に正直で何処が悪い」という強烈なものがいくつかありました。
私は、人間誰でも一生の内には「あんな奴、殺してしまいたい」と思うことがあるから、
正直に生きたらみんな殺人者になってしまう、という理由でそういう記事を書きました。
どこからみてももっともな理由付けだと思うのですが、
ところがどっこい、それに反対する理由というのがあるものですね。

おそらく反対される方の気持ちはこうだと思います。
人を殺したいと思うことはあっても、実際行動に移す事はなく、そういう話は論外だ。
だから、自分に正直に生きていいのだ。ということでしょう。
つまり、これが一般的な善し悪しの基準です。

しかし、考えてみてください。殺人事件はいっぱい起きています。
「殺したい」と思ったから殺しているのです。

一般の人たちは、自分の置かれている状況を基準にものごとを考えます。
「自分なら人などは殺さない」「そんなことをする人の気持ちが分からない」と言うでしょう。
それはそうでしょう。そういう状況に置かれていないから分からないのです。
そういう状況に置かれたら、人間は人も殺します。
これもまた事実で、宗教的な善し悪しの基準がこれです。

この記事の本題はこれからなんです。
私たちが話しをしたり文章を書いたりするときは、どこかに基準を置いてします。
「自分に正直に生きてはいけない」方に基準を置くか、
「自分に正直に生きるべき」という方に基準を置くかで、全く違った結果になります。

先日もブログで、別々に書いたものを付き合わされて「矛盾している」と言われました。
この一般的な基準と宗教的な基準をはっきり区別する必要があると思いました。
特に私のように一般的なものも宗教的なものも書いている者には必要のようです。

ブログのあり方

先日ある方から、ブログへこんなコメントをいただきました。
「常連さんは、厳密にいうと文章を読みに来ているのではありません。
筆者に会うために通ってくれるのです。ありがたいことですね。」
確かにそういう一面はあると思いました。

しかし、私のブログは議論をする場と位置づけており、
記事の内容もそういうものを選んでいます。
私は議論が好きですので、記事に共感していただくのも嬉しいのですが、
反対意見を書いていただいて、議論するのも楽しみです。

ただ問題なのは、私に会うために来てくださって方に議論を仕掛けては失礼ではないかということです。
議論は多くの場合、対立関係に陥り、終わっても気まずい関係になることが多いです。
せっかく会いにきて下さった方に、そういう思いをさせるのは避けたいです。
私の中には今、そういう葛藤があります。

私は議論というのは真理を見つけるためには必要なものと思っています。
しかし、そのために人間関係が壊れるのもどうかと思います。

そこで私は議論する場合のルールを作って私自身に課しています。
まず、間違いに気づいたときは意地を張らずにあっさり認めること、
   議論をはぐらかしたり、途中で逃げたりしないこと、
   議論は多くの場合どちらかが止める事で終わりますが、
   お互いに気まずい思いをしないように、何らかの意思表示をすることです。
これは私に対するルールですので、お客様は何でもありです。

断れない悩み

人にものを頼まれたとき、断りたくても断れなくて困る事ありませんか。
なぜ断れないのかと考えてみると、突き詰めれば嫌われたくないのですね。
もう一つ「何とかしてあげたい」という気持ちもあります。

何とかしてあげたいが、用事があってできない、
断ったら信頼関係が壊れてしまうので、用事の方を諦めてしまうなんてことありませんか。
損な性格ですね。

これだけ気を使っているのだから、さぞかし人間関係には悩みは無いだろうと思ったら、
それがその逆で、そういう人はいつも人間関係に悩んでいるのです。
それはもう、生まれついた性分とでも言ったらよいでしょうか。

こういう人はまた、正直な人で、どうしても断らなければならないときなどは、
まともに断ってしまうことがあったりして、よけい人間関係を悪くします。

一言、お詫びを入れるのは当然でしょうが、
「どうしよう」と頭を抱え込むのではなく、冗談などを言える心の余裕が欲しいですね。
そうすれば断られた方も気持ちが和らぐのですがね。
なかなかできないものです。

凡人は背伸びしない

ときどき「書いていることとしていることが矛盾している」というお叱りを受けます。
誤解しないでください。記事ではカッコイイことを書いていても、
私は凡人でたいした人間ではないのです。
間違える事もよくあるし、知識などありそうな顔をしているだけで、ほとんどありません。
腹も立てることもあるし喧嘩もします。人には言えないようなことも沢山して来ました。

私はそれらを隠そうとは思いません。
むしろ人間というものはそんなものなんだと知ってもらいたいです。
カッコよくつくろってもほころびは見えるものです。

凡人というものは決して背伸びはしないものです。
裸のままの姿が凡人の姿です。
それが一番居心地がいいのです。

バトンです

日々考さんから回ってきたバトンです!


1:回してくれた人の印象をどうぞ!

   学者を目指しているとっても真面目な人。

2:周りから見た自分はどんな?5つあげてね!

   変人、頑固、面白い、ドライブ好き、ケチ、と思われていると思っています。

3:自分が好きな人間性を5つ

   人間はすべての人に良さが与えられています。

4:反対に嫌なタイプは?

   人間は誰でも欠点があります。

5:自分がこうなりたいという理想像は?

   ありません。

6:自分のことを慕ってくれる人に叫んでください!

   ありがとう。

7:そんな大好きな人、5人にバトンタッチ!

   どなたにもタッチしません。ほしい人は自由にもらってくだとい。

血液型で性格は分かるか

よく性格の話しをするときに血液型の話しがでてきます。
血液型と性格が関係があるからでしょうか。
しかし、人によっては
「書かれている性格と自分の性格が合っていないので、血液型は信じない」という人もあります。
確かに思っている血液型と実際の血液型が違っていることはよくありますね。

それでも血液型と性格が関係があるということは、大方認められているように思います。
多少性格にずれがあっても「あなたはO型の近いA型ね」などと、
無理やり合わせたりしています。

私は思うのですが、血液型と性格は深い関係があると思います。
ただ、血液型だけで性格が決まっているのではないように思います。
他にも性格に関係する要素があって、それらが組み合わされているような気がします。

例えば、血液以外の体液に型があって、それが性格に関係しているとか、
もちろん、育った環境も性格には関係があると思います。

育った環境と性格の関係については、よく言われますが、
血液などのように、生まれ持ったものとの関係は、もっと研究されてもよいのではないでしょうか。

真実は一つか

サスペンス・ドラマなどを見ていると、よく「真実は一つ」という台詞が出てきます。
確かにサスペンスの真実は一つですね。
こういう台詞を聞くとカッコイイですよね。

カッコイイからと言って、何でもかんでも「真実は一つ」と思っている人があります。
その原因の一つに「真実」という言葉があります。
「真実」という言葉は、「このコップは青い」という判断は真実だ、などいう事実判断にも使いますが、
「あの人は良い人だ」という判断は真実だ、などという価値判断にも使います。

事実判断というのは誰が判断しても変わらない、つまり真実ですが、
価値判断というのは人によって判断が異なります。
ある人は「あの人は良い人だ」と思うかもしれませんが、
人によっては「良い人」と思わないかもしれません。だから真実とは言えないのです。

にもかかわらず、好みの問題や生き方の問題などの価値判断にまで
「真実は一つ」と思い込んで、探し求めるのです。
「真実一路」という言葉がありますが、それはその人にとってはそうだというだけで、
それがいつでも誰にでも言えることではないのです。

自己を知る

「自己からの脱却」という記事で書きましたが、
自己を知るにも、その程度(深さ)にはいろいろのレベルがあります。

子供でも自分(自己)を知っています。
母親との区別、友達との区別は当然しているわけで、
相対的に自分というものを位置づけています。

それが思春期になるとその関係に変化が出てきます。
子供の頃は友達も親も自分も同等に位置づけていますが、
思春期になると、自分だけは特別な存在になってきます。

社会に出て、生産的な仕事に就くようになると、
仕事への適応性にも個人による差が見えてきます。
自分の適応性も自覚するようになり、他人も含めた個性化ができてきます。
それでもまだまだ自分を基準にした価値判断が主流です。

ここまでは、ほぼ誰でもが通る道でしょう。
ここからは個人によって、さらに踏み込んで自分を深く知ることになります。

自分を基準にして他人を見ている限りは、自分を客観視することはできません。
自分を客観視するためには、判断の基準を自分から離す必要があります。
視点を高みに置いて、自分も他人も同レベルで観察することです。
そうすることで初めて自分を客観視することができ、少しは自己からも脱却でき、
自分だけが特別でないことを自覚することができるのです。

ここまでは与えられた欲望や自我に従って生きることを前提に考えており、
そういう意味では自己からの脱却は全くできていません。
自分の意思はこの欲望や自我に支配されているのです。

ここからの脱却はそれほど容易なことではありません。
なぜなら欲望や自我から脱却しようとしている自分が欲望や自我そのものだからです。
そのことに気づいたとき、つまり自分では脱却できないことに気づいたとき、
真に脱却できるのです。それが仏教で言うところの「悟り」です。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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