FC2ブログ

天気予報はいつも当たり

最近の天気予報はよく当たりますね。「雨が降る」と言ったらしっかり雨が降ります。
しかし、たまに降水確率 50% というのがあります。
あれは雨が降るのでしょうか。降らないのでしょうか。
つまり、傘を持っていくべきか、行かざるべきか迷うところです。

もし降水確率 50% で雨が降ったら、天気予報は当たった事になるのでしょうか。
いや、雨が降らなくても当たりですよね。
これでは天気予報はいつも当たる事になります。
確率ってなんでしょうね。50%雨が降るってどういうことでしょう。

たとえば100回50%の降水確率の日があれば、50回は雨が降るということなのでしょうか。
しかし、それでは傘を持って行くか行かないかの答えにはなりません。
つまり、人間は100%の答え、降るか降らないかが知りたいのです。
そして当たったか当たらなかったかを云々しています。

確率というのはあくまでも可能性を言っているもので、
それが現実になった時点で、確率は消えてなくなります。
したがって、当たったか当たらなかったかということ自体意味がないことなのです。

(続く)

スポンサーサイト



左折のとき右の合図?

先日、駐車場から広い道路へ出るとき、前の車が右のウインカーを点灯していました。
前の道路は中央分離帯があって、右折は出来ないのに「何考えてんねん」と思っていたら、
その車は左折して出て行ったのです。
一瞬「ちょっと待てよ。こういう場合、右ウインカーを出すの?」と思いました。

右からの通行車両には、右のウインカーの方が見えるし、
道路へ出るということは、通行車両の間へ割り込むのですから、
割り込むときと同じように、ウインカーを出せば良いとも思えます。

実際にも、駐車場の出口が左斜めに付いていたりすると、
右のウインカーを出す事もあります。
道路の形状によっても、右にするか左にするか迷うことがあります。

道路交通法ではどうなっているのでしょうね。
私はしらないのですが、みなさんはどうされていますか。

ナナ・ムスクーリ


私がナナ・ムスクーリを知ったのは、
ギリシャの歌ばかりをハリー・ベラフォンテと一緒に吹き込んだアルバムからで、
当時はまだ、ナナ・ムスクーリは日本ではあまり知られていませんでしたが、
今では、いくつもCF曲として使われて、よく知られるようになりました。

彼女の地中海の青い空を連想するような、澄み切った歌声は、
多くのファンがおられるようです。

上の写真のアルバムはベスト盤ですが、
私は「ゴロンドリーナ」「アマポーラ」「花売り娘」などがすきです。
他にも沢山いい曲がありますので、ぜひ聞いてみてください。

言葉は非論理的か

日常使っている言葉は論理的ではないと哲学などでは言われます。例でみてみましょう。
一般的に「AならばBである」が成り立つとき「BでないならAでない」も成り立ちます。
例えば「人間ならば動物である」なら「動物でないなら人間でない」も成り立ちます。
ところが「叱られなければ勉強しない」なら「勉強するなら叱られる」とはなりません。
だから日常言語は論理的でない、というのです。

ところがよく見てください。「人間~」の場合は時間的前後関係はありませんが、
「叱られ~」は「叱られない」という状態が先にあって、「勉強しない」が後に起きるのです。
そこには時間的な前後関係があるのです。
時間は逆には進むことはできません。
したがって、前後を逆にして「なら」で結ぶ事はできないのです。

論理学というのは、時間的前後関係というのは扱えないのです。
集合論もそうですが、時間的に同時に存在しているものを対象にしているので、
当然ながら時間的変化についての文については、適用外になります。

だから日常言語が論理的でないのではなく、
論理学の方が日常言語をカヴァーできていないのです。

自分に正直に生きるな

自分に正直に生きることは良いことであるかのように思われていますが、
実際にみんなが正直に生きたらどうなるでしょう。
人間一生に一度や二度は「あんな奴、死んでしまえばよい」とくらいは思うでしょう。
それならみんな正直に生きたら、みんな殺人者になってしまいます。

人間には「魔が差す」ということがあります。
今だったら誰も見ていないのでと商品を盗む。まさに魔が差したのですね。
その人は「ばれなければお金は払わずにいたい」と思っているのですが、
たいていは、ばれたときのことを考えて、実行しないだけです。
自分に正直に生きようとするなら、たえず魔が差していなければなりません。

人間というのは、心の奥は汚いものです。
それを正直に生きたら、社会は大変なことになります。
だからみんな理性の衣で心の奥を覆って生きているのです。

正直=嘘をつかない=良い、という連想で判断していますが、
人間というのは良いことばかりを考えている訳ではなく、嘘をつかない=良い、とは限らないのです。
自分に正直であっても、必ずしも良いとは限りません。
だから自分に正直に生きてはいけません。
常に悔い改める心が必要です。


          この記事は2006,2.4に投稿したものを大幅に訂正して再投稿したものです。

見るってどういうこと?

もし「山口百恵を見た」と聞いたら、何と受けとりますか。
多分、どこかの街角で見かけたのだろうと思いますね。
まさか雑誌のグラビアで見た、とかテレビで見たとは思いませんね。
どうして「街角」なんでしょうね。

街角で見たということは、直接目で山口百恵を見たということですが、
グラビアやテレビで見たのは、直接見たことではなりません。
直接目で見たものは「見た」、直接でなかったら「見た事にはならない」のでしょうか。

それならメガネを掛けていたらどうでしょう。これはまだ直接でしょうね。
それでは顕微鏡や望遠鏡はどうでしょう。メガネより多少度が強いだけで、やっぱり直接でしょうか。
電子顕微鏡はどうなるでしょうね。光の変わりに電子線を使っていますが、
電子線は人間には見えないので、電子線に感応するフイルムなどに感光して、それを見るのです。

ノーベル賞を受賞した小柴先生が造ったカミオカンデは、素粒子のニュートリノを見る装置だそうですが、
ニュートリノというのは0.0000000000000001cmという大きさで、目に見える訳がなく、
ニュートリノが水中を通過するときに発する光を見るのです。
これら電子顕微鏡やカミオカンデで見るものは、一体何なのでしょうか。

グラビアやテレビで見る山口百恵と同じで、見た事にはならないのでしょうか。
一体見るってどういうこと?

追突は後ろが悪いか

一般的に前を走行している車に衝突する、つまり追突すると、
後ろの車が100%悪いとされています。
しかし、実際は必ずしも後ろが全面的に悪いとは限らないのです。
それはどんな場合かというと、前の車が理由のない急ブレーキを掛けた時です。

道路交通法では、急ブレーキが許されるのは、
危険を防止するため、やむを得ない場合に限られています。
したがって、例えばタクシーが客を拾うために急ブレーキを掛けて事故になった場合などは、
タクシーにも過失があるということになります。

基本的には過失の割合は 追突車 70% 被追突車 30% ですが、
被追突車側に後続車に対するいやがらせ等のため、
故意に急ブレーキを掛けた場合などは、状況によっては過失が逆転することもあります。

その他、ブレーキ・ランプが汚れていて見えづらいなどの場合も、
被追突車側に過失が加算されます。

車は流れに従ってスムーズに運転するのが原則です。

宗教について

宗教と聞いて何を連想されますか。葬式でしょうか。結婚式でしょうか。
あるいは神や仏でしょうか。
ある宗教を信ずることを、信仰を持つと言いますが、
信仰を持つってどういうことなんでしょうね。

キリスト教なら聖書にしたがって生活することでしょうか。
仏教なら釈迦の教えにしたがって生活することでしょうか。
そうすると信仰というのは誰か教祖の奴隷になることなのでしょうか。
そうではなさそうですね。

信仰の目的は程度の差はあると思いますが、苦からの解放でしょうか。
漫然と生活しているが、それで良いのかと言うような軽いものから、
貧しい生活からの解放を願ったり、
死の恐怖から逃れると言うような深刻なものまで、いろいろあります。

信仰を持たないものというか、一般的にはこれらを社会の問題として考えます。
漫然とした不安には、心理学的なアドバイスを、
貧しい生活に対しては、社会保障などの政策で、
死の恐怖に対しては、医学的なアプローチを考えます。

しかし、宗教は違います。それを心の問題と考えるのです。
苦の原因は自分自身の心にあると考えるのです。
簡単に言えば、物事は心の持ちよう、ということになりますが、
死の恐怖からの解放は、それほど簡単ではありません。

医学的にいくら延命されても、いずれ死は訪れます。
薬で恐怖を和らげる方法もあるようですが、本当の救いではありません。
宗教は、死ぬ事は怖いことではないことを教えてくれます。
死が怖いのもすべて心の問題なのです。

神や仏が存在するかどうかという議論がありますが、神も仏も存在します。
それはこの宇宙のどこかに住処があって、そこに存在するのではなく、
人間一人ひとりの心の中に存在しています。
真に覚った人間にはそれは解ることなのです。

世界は信じられてある

日常生活で自分の手足で行動して自分の感覚器官で確認したことなどほとんどありません。
ほとんどは間接的に知ったことであり、それを信じて生活しています。
間接的に知る方法としてては、次の3つがあります。

1、道具を使って行動したり確認したりする方法
 顕微鏡や望遠鏡など道具を通じて間接的に知るのもその例ですが、
 車やジェット機で遠くまで行って見るのも道具を使って知ることです。
 私たちの身の回りには道具があふれています。
 その道具を使って行動したり確認したりすることがかなりあります。
 そしてその道具を信じています。

2、人(社会)に頼んで行動してもらったり確認してもらったりする方法
 現在の社会は分業化された社会で、自分ですべてをするのではなく、社会として共同して行うことが多いです。
 たとえば、自分は会社で机に座って事務をするだけで、その他のことは人にしてもらって、
 生活に必要なものは手に入るようになっています。それを可能にしているのが貨幣の存在です。
 そしてその社会(貨幣)を信じて生活しています。

3、教育により知る方法
 現在知っていることの多くは、親や学校の先生やマスコミなどを通じて教えられて知っていることで、
 実際に自分で確認したことは少ないものです。
 たとえば、物理学のいろいろな法則や歴史上のいろいろの出来事、
 すべて自分で確認したことではないが知っています。
 また私はこの日本の国を出たことがありませんが、世界の国のいろいろのことを知っています。
 これらは教えられて知ったことです。そしてそれらを信じています。

このように現在は、間接的に知っていてそれを信じて生活していることがかなり多いことが分かります。
しかし、よくよく考えてみると信じてよい理由はどこにもないのです。
これを信じなくて疑いはじめると哲学になります。
信ずるか信じないかは個人の自由ですが、大方の人は疑問を感じながらも、
たいていのことは信じて生活しています。

科学技術を信じられなければブログなどはできないし、
労働の代価として受け取った貨幣が信じられなければ社会生活などはできません。
自給自足の生活をしなければなりません。
もしこれらが哲学者の言うように信じられなければ、おちおちと寝てはおれません。
科学技術が信じられない、貨幣が信じられないと言い出したら、もう日常生活は成り立ちません。
にもかかわらず、毎朝会社に遅刻するほど寝過ごしているとしたら、
もうあなたはこの世界を信じて生活しているということです。

TOTO


先日、と言ってももう2週間も前になりましたが、TOTOのライブを聴きに行きました。
娘と二人で聴きに行ったのですが、久しぶりライブで興奮してしまいました。
全体としては、新旧織り交ぜた曲構成で、まとまりも良く好印象でしたが、
たった一つだけ気に入らないところがありました。

バックにスクリーンがあって、いろいろの映像が流れるのですが、
何の曲だったか分かりませんが、そのときに流れた映像が、
出っ歯をむき出しにして笑っている日本人を蔑視する漫画だったのです。
曲が終わってもみんな平気で拍手をしているのですが、私はその時だけは拍手はしませんでした。

上のアルバムは1982年に発売された「TOTOⅣ」ですが、
最後に入っている「アフリカ」は、ライブのアンコール曲でした。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
ブロとも一覧
月別アーカイブ