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ブロガーのイメージ

ブログをしていて、訪問してくださる方、コメントをくださる方を、いろいろイメージしますが、
まずは名前アイコンと文章から、どういう人なのかを推測します。
次に相手のブログを訪問して、記事などを読ませていただいて、ここでもある程度推測ができます。
そして時にはプロフィールを覗いてみて、年齢や性別などを確認します。
しかし、年齢や性別が書いてない人もかなりありますので、分からない事が多いです。

これらすべてをいつても確認する訳ではなく、ある程度分かったところで止めますが、
人間というのは、物事を認識するのに、視覚に頼る比重が大きいので、
どうしてもアバターから受ける印象で、ブロガーをイメージしがちです。
ところがこれが大きな間違いのもとなのです。

アバターの表示がない人の場合などは、性別を間違える事もありますし、
アバターはあっても、だいたいが実際の年齢より若くイメージしてしまいます。
ブロガーが中学生などの場合は、これまた逆に老けてイメージします。
そのイメージで話をしていると、失礼なことを言ってしまいそうです。

ある程度の期間お付き合いすれば、文章などから人柄・年齢などの推測はできますが、
それまでの期間は間違ったイメージで接していることになり、後で気づいて冷や汗をかくことがあります。
もう少しアバターの数を増やして欲しいですね。ヤフーさんへお願いです。

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ギルバート・オサリバン


70年代を代表するシンガー・ソング・ライターと言えば、
エルトン・ジョンやビリー・ジョエルが思い浮かびますが、
もう一人忘れてはならないのがギルバート・オサリバンです。

「アローン・アゲイン」がよく知られている代表曲ですが、
他にも「クレア」「ゲット・ダウン」「フレンド・オブ・マイン」など、いい曲が沢山あります。

上のジャケットは新しいベスト盤ですが、
私は1986年に出たベスト・アルバム「アローン・アゲイン」を持っています。
少年のようなおどけたオサリバンの写真が印象的でした。

子供のしつけ

娘がシャトレーゼでアルバイトをしています。
シャトレーゼはケーキなどのお菓子を売っている店で、
お客さんは、小さな子供連れのお母さんが多いとのことですが、
そのしつけが成ってないと、娘がよく嘆いています。

小さな子供のことですから、元気があって、店内を走り回るなどは仕方がないとしても、
商品台によじ登ったり、陳列ケースのガラスを叩いたり、商品の饅頭を握り潰したりするのです。
それを見ていても、子供を叱らないお母さんが多いそうです。

よく叱るお母さんの子供は、ほとんど悪いことはしないそうですが、
悪い事をする子供の親は、ほとんど叱らないし、商品やケースを汚しても、何も言わないそうです。
ときには、握り潰した商品を買って帰るお母さんはあるそうですが・・・。

娘も言うのですが、汚した商品は買ってもらわなくてもよいから、子供を叱って欲しいものです。
その子供がそのまま大人になった時のことを考えると、恐ろしくなってきます。

被害者の心

最近、同じ題材を扱った二つの記事を読みました。
ある殺人事件についてですが、その被害者の遺族の心がクローズアップされています。
先に書いた「犯罪者の人権」という記事も、そこからヒントを得て、書いたものですが、
今日は被害者の遺族の心に焦点を当ててみたいと思います。

この事件の場合は、自分の妻子を残忍な行為で殺されたのですから、
一人残された夫の気持ちは、怒りに震えているでしょう。
そして殺した犯人を殺してやりたいという気持ちも分かります。
しかし、犯人を殺せば夫の気持ちは治まるでしょうか。治まらないでしょう。

私たち人間には欲望があります。お金が欲しい、家が欲しい、
欲しい欲しいで手に入れたもののうちの一つが、妻や子供ではなかったでしょうか。
つまり、妻も子供も欲望の対象なんです。その対象を失ったのです。
この世界で欲望によって得たものは、いずれ消えてなくなるものです。
死ぬときには、この世界で得たものは持って行けません。

被害者の遺族の怒りは裏には、欲望が渦巻いています。
この欲望を取り去らない限りは、被害者の心は癒えないでしょう。
つまり、失ったものは戻らないのですから、諦めるしかないのです。



   参考にさせてもらった記事は、次の二つです。

     ①、続・・「死ね!」 http://blogs.yahoo.co.jp/satomi_xxkg/32250560.html
     ②、死刑の是非 http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/32307653.html 

犯罪者の人権

罪を犯したものでも、その罪に対する償いはしなければならないが、
その他の部分では人権が保障されています。
オウムの松本被告ですら、弁護人を付けてもらえますし、
言いたいことがあれば、発言の機会が与えられます。
刑務所に入っても、食事は栄養のバランスを考えたものが三食与えられるし、
病気になったら治療もしてもらえます。

特に未成年の場合は顔を隠して報道されます。
普通の状態のときは、未成年かどうかは関係なく、顔は隠さずに報道されるのに、
悪い事をしたときだけは、顔を隠して報道されます。
それとは逆に被害者の方は、プライバシーを剥ぎ取るまでに報道されます。
考えてみればおかしな話で、悪い事だけどうして顔を隠すのか理由かわかりません。
これでは「悪い事をしても顔を隠してやるからしなさい」と言っているようなものです。

我々貧乏人は、三度の食事を取るのがやっとの状態で、
保険料が払えないので健康保険にも加入せず、まともに治療もできないのです。
貧乏人には人権はないのでしょうか。
プライバシーは剥ぎ取られた上に、人権とは形だけで無いに等しいのです。

民主主義に合わない個性もある

今人類は最も繁栄を極めており、それを支えているものの一つが、民主主義だと思います。
そこに至るまでの経緯はいろいろありましたが、とりあえず現在の日本も民主主義です。
しかし、すべての人にとって民主主義が良い社会とは言えないのです。

ある人は「民主主義は多数決に過ぎない」と言います。
人にはいろいろの主義主張があり、まさに運悪く民主主義には合わない少数派の個性の人もいるのです。
「この人、戦国時代に生まれていたら活躍しただろうな」と思うような人もいます。
民主主義の時代だから個性が発揮できない人があります。

民主主義が当たり前の時代に育ったものには、非常識に見えても、
他の時代にはもてはやされる個性かもしれません。

人を判断するとき、私たちは民主主義という一つの枠組みから判断しがちです。
しかし、人類の歴史を見れば分かるように、いろいろの時代があります。
民主主義という枠組みが絶対ではないことが容易に分かるとおもいます。
人の評価というのは、思ったより難しいものだと思います。
いや評価というのは、上下をつけることではないということかもしれません。

遺跡の保存は必要か

京都という街は遺跡の上にあるような街で、中心部の方の建物を建て替えるときは、
遺跡の発掘・調査から始まります。ですから新しい建物が建つまでにはかなりの時間がかかります。
京都に限ったことではありません。
日本は国土が狭く、しかも平坦な土地が少ないため、人の住む場所は限られています。
その限られたところに先祖代々が生活してきたのですから、
生活できそうなところを掘れば何なりと出てくるものです。
遺跡が出てきたからと言って、それらすべてを保存していたら、我々の住むところがなくなります。

遺跡だけではありません。古い神社仏閣から明治大正の洋風建築、町並み保存などなど、
保存しなければならないものが沢山あります。
これから千年二千年と時代を重ねて行ったらどうなるでしょう。
それぞれの時代の遺物を保存して行ったら、日本中遺跡・遺物で埋まってしまいます。

最近は映像媒体など記録保存する技術が発達してきており、
現物を保存しなくても、記録する手段はいくらもあると思います。
現物を保存するに超したことはありませんが、
現実的にそれは不可能になってくることを考えると、
遺跡の保存は果たして必要なのかと思ってしまいます。
みなさんはどう思われますか。

変えられるのは自分だけ

この世界は自分を自然や社会が取り巻いています。
そしてその自然や社会と係わり合いながら生きています。
できれば自分の都合の良いように、自然や社会を変えたいと思います。
そうしようと行動しますが、思うようにならず苛立ちます。

私たちは自然や社会は自分の力で変えられるものと思っています。
だから自分の思うようにならないと、相手つまり自然や社会が悪いと思ってしまいます。
しかし、変えられるものはもう一つあります。
それは自分です。自分の心です。
あれが欲しい、これが欲しい、ああして欲しい、こうして欲しい、
と言っている自分の心を変えることができます。

自分の思い通りにならないのは、本当は自分の心なのではないでしょうか。
「変えられるのは自分だけ」と思っていれば、苛立つことはありません。
苛立つのは誰のせいでもないのです。自分のせいです。

リチャード・クレイダーマン


デビューは1977年ですが、日本ではこのリチャード・クレイダーマンは、
フランク・ミルズとともに80年代にもてはやされたピアニストです。
自らのオーケストラを率いて、いわゆるイージー・リスニング・ミュージックを聴かせてくれますが、
日曜日の朝、コーヒーでも飲みながら聴くクレイダーマンは格別ですね。

チック・コリアやウエザー・リポートが好きということですが、
そう思って聴くとジャズっぽいところも見受けられます。

上の写真はCDのベスト版ですが、我が家にはCDがなく、
日本で編集されたレコードのベスト版しかないのですが、
そこに入っている「恋はピンポン」が私は好きです。

歴史に方向性はあるか

人間は個々ばらばらに主体的に行動しており、だから人間の歴史というのは、
ばらばらの行為の寄せ集めであり方向性はない、という主張が一方にあります。
もう一方は、マルクスに代表されるように、
「労働者は資本家に勝利し資本主義は滅びる」というように方向性がある主張します。

まず、「ばらばらの寄せ集め」という考え方に対してですが、
それはばらばらの寄せ集めではなく、個性の集合体であると思えます。
個々人が個性を出し合い、社会の歯車となって、社会全体としてある方向に向かっていると解釈され、
この点から言えば、歴史に方向性はないとする根拠はありません。

もう一方の歴史に方向性があるという考え方に対してですが、
社会科学の発達にともなう社会科学からのアプローチや、
グローバリゼーションにともない社会と社会が干渉し合い、その方向性が崩れてきている現状をみれば、
容易にその考え方に疑問が生じます。
実際にも、マルクスが予測したような方向には進んでいません。

結論としては、歴史はばらばらの寄せ集めではないが、
決まった方向に向かうものでもない、ということになります。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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