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知っていること、考えたこと

知っていることというのは、親や学校の先生などから教えられたり、
本を読んだり、インターネットなどで学習して知っていることで、考えたことではありません。
親にしても学校の先生にしても、本を書いた著者にしても、
たいていは自分よりは偉い人であり、「偉い人の言う事であるから間違いはない」と、
そのまま間違いの無いものとして受け入れることが多いです。
「どうしてそうなの」と聞かれて「誰それが言っていた」と偉い人の名前を出すと、たいていは納得します。

しかし、それでは自分の考えというものが何処にもありません。
たとえ偉い人の考えに賛成でも、自分なりに納得して、賛成したいものです。
科学者などの偉い人は、我々凡人などがとても敵うものではありませんが、
それでも、新しく出てきた科学知識などは、間違っていることがよくあり、鵜呑みはできません。

人間生まれたときは丸裸です。脳も白紙の状態です。
そこへ知識を蓄え、考える能力も習得してゆきます。それは無視することはできません。
学んで得た知識は、自分を支えている土台です。
学んだ知識を土台にして、それを出発点にして、自分の考えを積み上げるのです。
それでこそ、主体的な自分を作り上げることができるのではないでしょうか。

私の知り合いに、本ばかりを読んでいて「誰それがこう言っていた」とは良く言うのですが、
「自分の意見は・・・」と聞かれてもはっきり答えられない人がいますが、
知っている他人の知識より、考えた自分の意見を持つように努めたいものです。

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ウエストライフ


1999年にファーストアルバムが発売されて以来、
今日まで7枚のアルバムを発売し、いずれも素晴らしいポップスを聴かせてくれています。
今、洋楽は何を聴いているか、ときかれたら「ウエストライフ」と答えます。
それ程、今ウエストライフが気に入っています。

ウエストライフは今は4人組のボーイズ・グループですが、
写真はサードアルバムの「ワールド・オブ・アワ・オウン」です。
私は一曲目の「クイーン・オブ・マイ・ハート」が一番過ぎですが、
他の曲もどれも良い曲で、バラードの曲が多いですが、聴いていると癒されます。
まだ聴いた事がないという方は、一度聴いてみてください。

クローン人間は必要か

ちょっと前になりましたが、クローン人間が誕生したというニュースが報道され、
生命倫理についての議論が、一時期活発になりましたが、
クローン人間の何が問題かと言えば、技術的問題や生物学的問題は別にして、
一人の人間として生まれてきて、クローンであるということが、
社会的にどう受け入れられるか、本人がどう受け入れるかです。
しかし、これらの問題は、社会にも本人にも秘密にすることで解決すると思われます。

問題は、そもそもクローン人間というものが必要かどうかということです。
医学的には、その技術を競う意味で、クローン人間を作ろうとする向きもあると思いますが、
これは、それだけの意味でクローン人間を作る事は許されるものではないでしょう。
どうしてもクローン人間が欲しいという考えられる理由としては、
身体的欠陥により、どうしても子供ができない場合です。

しかし、どうでしょう。クローンということになれば、どうせ片親の血しか引き継げないのですから、
本当の夫婦の血を引いた子供と拘らなければ、
現代の医学なら何とか子供を得る事は可能ではないでしょうか。
昔なら、養子をもらうということも、よくありました。
クローン人間なんて、必要はないように思います。

停止線はなぜあるのか

そんなもの決まっている、停止する位置を示すためだ、と言われるでしょうね。
確かにその通りなんですが、何のために停止するのかを考えると、
あの位置に疑問を感ずる人も多いと思います。

信号機のある交差点なら、赤信号にしたがって停止するのに、
停止する位置がはっきりしてないと混乱します。なるほど、停止線は必要です。
ある程度交通量のある信号機がない交差点では、どちらかに優先権をつけておかないと、
事故になる可能性が高くなるため、優先権のない側に止まる位置を示すため停止線が必要です。
確かに停止線の必要な事は分かりますが、それにしては停止する位置が奥過ぎると思いませんか。

停止線の位置では左右が見通せないことが多いですね。
信号機のあるところは信号機に従えばいいですが、
そうでないところは少し前に出ないと左右が見通せません。

停止線を引く位置については、はっきりした決まりがあるのだと思います。
しかし、その理由は一般には知らされていませんので、推測するしかないのですが、
左右が見通せる位置に停止線を付けると、優先側の通行車両に脅威を与えるからだと思います。

優先道路を走行していて、交差道路(特に左側)の車が勢いよく走行してきて停止したときなど、
そのまま進入してくるのではないかと、危険を感じることがあり、
場合によっては急ブレーキを踏んでしまうことがあります。
後続車に対しても危険ですし、そういうことを避けるために、停止線は奥にあるのではないでしょうか。
みなさんはどう思われますか。

食品の栄養価、気にしますか

食品の栄養価についての情報番組が増えています。
ある食品が健康に良い、美容に良いと放送されると、
翌日には店舗からその商品がなくなる、というような騒ぎが、しばしば起きています。
最近では寒天がダイエットによいと放送されて、しばらく店舗から姿を消しました。
皆さんは、こういう話を信用される方ですか。

私はコーヒーが好きでよく飲みますが、あまり身体に良くないと思っていましたので、
「少し減らさなければ」と思っていましたが、
最近、活性酸素を抑制する効果があり、ガンや老化を抑える効果があるというので、
コーヒーを減らすという気持ちも少し薄れてきました。
しかし、私はまだこの話は半信半疑でいます。信じ切れません。

というのは、こういう話はくるくる変るからです。
栄養価がないとされていた食品が、こういう栄養素が含まれていた、などという話はよく聞きます。
アガリクス茸のように制ガン効果があるとされていたものが、
発ガン性があることが分かったなんていう食品もあります。

だから私は、こういう話は気にせずに、
美味しいと思うものをバランスよく何でも食べるようにしています。

人間って面白い

人間の姿、それも自分の姿を見ていると面白い。
つまらないことに腹を立てて怒ってみたり、
つまらないことで喧嘩したり、
つまらないことに感激して涙を流したり、
つまらないことに喜んだり、
ちょっと距離を置いて見てみると、犬がじゃれている姿に似ています。

人間から見れば、犬のじゃれごとなどは他愛も無いものですが、
それと同じように、
神仏からみれば人間のすることなどは、他愛もないことだと思います。

生きてゆく上では、苦しいことも辛いこともあると思いますが、
少し距離を置いて自分を眺めてみる余裕があれば、
苦しいことも辛いことも「面白い」と思えてきます。
そう思えるようになったら、生きることは楽しいものです。

タイム・マシーンは造れるか

凡人の私には、タイム・マシーンを造るための技術的背景を論ずるだけの知識はありませんが、
タイム・マシーンを造ることが原理的に可能かどうか、哲学的側面から考えて見たいと思います。
タイム・マシーンは、現在から過去のある時点へ行ったり、
現在から未来のある時点へ行ったりするための機械ですが、少し具体的に考えてみましょう。

ある受験生が受験に失敗したとします。
もう一度試験をやり直すため、タイム・マシーンを使って受験の前日までタイム・スリップしたとします。
そこで一つ問題なのは、タイム・スリップしたときに、
過去の自分と現在の自分が同時に存在することになります。それは不自然なことです。
ですからタイム・マシーンは過去の自分に戻るように造るか、
現在の自分に入れ替わるように作らなければなりませんが、今仮に過去の自分に戻るように造ったとします。
そうすると、受験をやり直しても同じ結果になってしまい、タイム・スリップした意味がなくなります。
なぜなら、また同じ人生をたどるだけであり、タイム・スリップしたという自覚すら有り得ないのであり、タイム・マシーンを使ったということ自体、自覚がなくなります。

よって、タイム・マシーンを造ることは原理的に不可能とは言えないまでも、
タイム・マシーンがタイム・マシーンでなくなってしまうことになります。
つまり、現在の人間が過去に行ったことにはならないのです。

それでは現在の自分に入れ替わるように造ったとしたらどうでしょう。
前の試験で間違ったところは、間違わずにできるでしょうから、試験には合格します。
その後の人生は前とは違ったものになるでしょう。
自分が違っている分、他の人たちも違った人生を歩むでしょう。

ところで、自分がタイム・マシーンでタイム・スリップしたとき、
タイム・スリップしなかった人たちはどうなったのでしょう。そのままの人生を過ごしているはずです。
例えば自分の親は、息子が受験に失敗したので、それを苦にして自殺したかもしれません。
しかし、もう一方のタイム・スリップした先では、親は長生きするかもしれません。
二つの矛盾した状態があることになります。
タイム。マシーンで何人ものひとがタイム・スリップしたら、何通りもの世界が存在することになります。
これも原理的に不可能とまではいえませんが、
そんなことはあり得ないことではないでしょうか。

「信ずる」ということ その3

サスペンス・ドラマなどでよくある筋書きですが、
夫が妻に心配をかけないようにと、密かに行動しているとします。
それを妻にさとられ、その妻が夫の行動に疑問を持ち始めます。
このときの妻の心理状態は、夫を疑っている状態です。

そして妻は夫に真実を話すように迫ったり、自分で真相を探り始めたりします。
このときは自分で確認をして、夫の行動の善し悪しを判断しようとしているのです。
そして結果として、夫の行動を善しと判断して、夫の行動を許すとしても、
それは夫の行動を信じているのではなく、夫の行動を善しと自分自身で判断したのです。

これに対して信ずるというのは、自分自身では判断しないのです。
ドラマの話で例えれば、夫の行動を疑わず「きっと聞かない方が良いのだ」と思うことです。
いや正確に言えば、それすらも思わないことです。

もし妻が夫の行動を信じて疑わなかったら、ドラマの筋書きとしては、つまらないものになってしまいますが、
その方が波風が立たず、平穏でいられるのです。
もし夫がしていることが、危険なことであったとして、
それを知ってしまったら、不安が立ちこめてきます。

信ずるところには、いつも平安があります。

この世は天国

この世界は天国かと思うほど美しい。そうは思いませんか。
春には花が咲き乱れ、夏には樹木は木陰をつくり、
秋には果実が実り、冬には雪が舞う。

海には魚たちが泳ぎ、森には小鳥たちがさえずり、動物たちが戯れる。
砂漠には蜃気楼が旅人を惑わせ、極地にはオーロラが降る。
朝は露に濡れ、昼は太陽の光が降りそそぎ、夜は星が輝く。
地には湖があり、川は滝となり、時には雨も降って虹も出る。

聖書には「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一輪ほどにも着飾っていなかった」という一節がありますが、
確かに一つ一つ花を見てみると、こんなに美しいものがあるものかと思いたくなります。
まさに、この世は天国です。

今人類は栄華を極めていますが、この世界(地球)を蝕みつつあることに気づかなければなりません。
天国が地獄と化する前に、もう一度考え直す必要があるのではないでしょうか。

そんなに美味しいわけがない

旅番組、私はよく見ますが、だいたいパターンが決まっていますね。
有名なタレントさんが、観光地を訪ねる。
温泉につかって景色を褒め、食事をして料理を褒める。これがパターンです。
この旅番組を見ていて、いつも思うことがあるのです。

だいたい日本の観光地で出る食事は日本料理で、新鮮な魚介類が登場します。
タレントさん曰く「ぷりっぷり」「こりっこり」、それ以外に表現方法がないのかと思いたくなります。
獲れ立ての魚介類は、普通はぷりぷりこりこりしているもので、
美味しいのは、1日くらい置いてからのものだそうです。

タレントさんにもいろいろ好みがあると思うのですが、
何を食べても「美味しい」と言います。それもかなりオーバーな表現で・・・。
そんなに美味しいわけがないだろうと思いたくなります。

あるタレントさんが、番組を離れたところで「美味しくないと思うことはないのですか」と聞かれて、
「もちろんありますよ」と答えていたことがありました。それが普通だと思います。
なのに「美味しい」と言う。それが方針なのか、タレントさんの心遣いなのか分かりませんが、
やらせ番組になりはしないのかと、ふと思ったりもします。
しかし、どう考えても「これは不味いですね」とは言えないですからね。
このあたり、テレビ局はどう考えているのでしょうね。聞いてみたいものです。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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