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科学の成果を押し付けるな

オカメザサというタケ科の植物をご存知でしょうか。
よく道路の植え込みなどに使われていますので、見た人もあると思います。
名前の通り、一般的にはササ類とされていますが、植物学的にはタケ類になるそうです。
ある本に「ササとするのは間違いで、本当はタケである」と書いてありましたが、
しかし、私は「間違い」とするのは間違いと思います。

学問的にはタケ類かもしれませんが、一般的には背丈の低いバンブーをササと分類しているのです。
これは科学的視点で分類するか、日常的視点で分類するかの違いであって、
どちらが正しいというものではありません。日常的な視点は視点で必要なものです。
「太陽が東から昇る」という表現は、天動説的表現で間違いである、
と言われては、はなはだ日常生活に差し支えます。

科学的な分類は、それはそれで必要なことですが、
それを絶対的なものとして、一般にまで押し付けられる理由はないのではないでしょうか。

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人間の生きる世界

人間は、この世界ではごく限られた世界に生きています。
銀河宇宙の太陽系の地球という惑星に生きています。
その大きさも原子・分子より大きく、地球よりは小さい大きさです。
そんな限られた世界で確認できる出来事や論理で判断しています。

銀河宇宙より大きな世界、原子より小さい世界を目指して、人間は突き進すみ、
相対性理論や量子色力学の世界にまでは到達しましたが、
どこまでも大きな世界とか、どこまでも小さな世界があるという考え方は、
この限られた世界での発想のように思います。

人間は生命が与えられ、生きるという欲望を持った生き物としてこの世界に存在しています。
すべてのものは、生きるための道具として捉えられます。
人間は欲望があるが故に、時に、生きることの意味を問う生き物でもあります。
そしてこの不思議な世界について考えます。

しかし、この限られた世界で考えてみても、欲望の目で見てみても、
世界のすべてを捉えたことはできませんし、
世界の本質を捉えたことにはならないでしょう。
人間に出来ることは何か、もう一度考え直したいものです。

バカでないからグレるのだ

皆さんの中にグレた経験のある人はありますか。
経験のある人はバカではありませんね。

そういう人なら分かると思いますが、
グレるというのは自分に能力があるのに、可能性があるのに、
その能力・可能性を学校や会社なとの社会から認めてもらえないとき、
生まれてくる心の状態です。

だからグレる者は能力を持っているのであり、
バカではありません。
バカでないからこそグレるのです。

ダン・フォーゲルバーグ


これはダン・フォーゲルバーグの1982年の「失われた影」という作品ですが、
フォーゲルバーグ初のベスト・アルバムになっています。
ダン・フォーゲルバーグと言えば、「ロンガー」がCMなどに使われて知られていますが、
このアルバムに収められている曲は、どれも素晴らしく、
清涼感あふれる曲想は、癒しの雰囲気をもたらしてくれます。
改めてこのアルバムを聴いてみたのですが、
一曲目の「パート・オブ・ザ・プラン」も軽快な曲でいいですね。

言葉は何を伝えているのか

話し手が聞き手に何かを伝えようとするとき、
この世界から伝えたい部分を切り取り、伝えようとします。
例えば、私が娘に「二階の書斎から赤い袋を持ってきて」と頼んだとします。
単に「袋」と言っただけでは、どの袋か分からないので、「二階の書斎」とその袋の所在を切り取り、
その切り取られた場所にある袋のなかから、「赤い袋」とさらに切り取っているのです。

さらに付け加えるなら、多くの場合、話し手と聞き手の間には、
無意識のうちに共通の枠組みが出来上がっています。この枠組みも世界からの切り取りです。
先の例で言えば、私と娘の間には「現在」の「我が家」という枠組みがあって、
いちいちそれを断らなくても、ものを頼まれたら当然「現在の我が家」だと分かるのです。
「隣の二階」でもなく「過去の我が家」でもない「現在の我が家」を既に切り取っているのです。

このように、言葉は世界を切り取る道具として用いられているのです。
よく「言葉には意味がある」と言います。何か言葉には中身があるように受けとられがちで、
それが意味であるかのように思われていますが、それは間違いです。

すべては相対的に存在している

物があるということ、事柄を認識できること、世界を感ずることが出来ること、
それらのあり方がどうなっているかなどを論ずるのが存在論です。
物理学はそうした疑問から物を探求し、クォークにたどり着いたと言ってもよいでしょう。
しかし、物理学は存在する理由については説明してくれません。

私はすべてのものは相対的に存在すると思っていますが、
ものが相対的に存在するということの説明には、比較するものが存在しない場合を考えてみるのが一番です。
これは他の記事にも書いたことですが、もう一度同じ例に登場してもらいますと、
例えば、この世界がすべてが赤い色で出来ていて、比較するものがなかったら、
「赤い」と表現する場面はありません。というより「赤」を自覚することがないのです。
すなわち「赤い」色は存在しないのです。
赤い色を自覚するには、赤でない青とか黄とかの比較する色がなければなりません。

この世界のものはすべて、このように比較するものがあって初めて存在するのです。
物がないところがあるから、物があることがわかるのです。
同じように、不幸があるから幸福があり、生があるから死があるのです。

私は「哲学の公理」で、九つの概念を用いて世界を表現しましたが、
それはそれらの概念を相対的に関係付けることによって、それぞれの概念を存在させることでもあったのです。
従来の古典的哲学のように、
不可知な「もの自体」とか「本質」とか「イデア」とかいう概念を持ち込む必要はないのです。

個性の共存

分業化社会は優れた個性の共存で成り立っています。
自分に合った職業を選び、自分の個性を社会に提供するとともに、
自分には合わない職業は、その職業に合った個性の人に世話になればよいのです。
どの個性が良いというのではありません。お互いに個性を出し合って社会を構成しているのです。

世界にはいろいろの個性の人がいます。
どんな個性も、この世界に存在する意味があると、私は思っています。
勘違いされては困りますが、どのようなものも有り得ると思っているのではありません。
少し前に発刊されてベストセラーになった「バカの壁」という本に、
個性尊重の風潮を非難して、こんな文章があったことを思い出します。
「個性的な人間を見たければ精神病院へ行けば良い。みんな個性的である」という意味の文章です。
賢明な読者の方はお判りと思いますが、「個性」と「異常」はイコールではないのです。
いかなる個性も、社会生活をする上での、最低限の常識は備え持っている必要があります。

他人を疑っていては、自分ですべてをしなければならなくなります。
他人の個性を尊重し、他人を信ずることによって、分業化社会が成り立っているのです。

思いやり

NHKの朝のチャンネルで、「私の青空」という未婚の母を扱ったドラマがありました。
ある日子供が、母親に内緒で父親に会ったのですが、
そのことを母親が知って、子供に「どこへ行って来たの」と聞きます。
こどもは父親には会っていないと、嘘をつくのですが、母親はその嘘を叱ります。

この子供は、父親に会ったことを知ると、母親は悲しがると思って、嘘を言ったのです。
母親の心を思いやり、嘘を言った方が母親を傷つけない、と思って嘘を言ったのです。
このドラマはフィクションであり、作者がどういう意図で母親にそう言わせたのか分かりませんが、
人の心を思いやるほど、子供は成長したのであり、
母親としては喜んでも良いところですが、このドラマの母親は、
嘘を言ったことの方を悲しがるのです。

「思いやりの心を大切に」などというスローガンをよく見かけますが、
「思いやり」とは、辞書を引くと「人の心になって考える」とあります。
子供は母親の心になって考えているのに、母親は子供の心になって考えなくてもよいのでしょうか。
もし子供の気持ちを思いやるなら、このような嘘は叱る必要はなかったと思います。

ヒトの行動は遺伝子で決まるか

        (この記事は「科学者の表象」さんのところの同名の記事にコメントしたものに加筆したものです)

車の遺伝子は設計図でしょうか。その設計図には走り方は書いてありますが、
どう走るかは書いてありません。
同じ設計図で作られた車でも、一つとして同じところを走った車はありません。
ヒトの遺伝子も車の設計図のようなものではないでしょうか。

だからヒトの行動は、遺伝子で決まるのではない、と言いたいところですが、
しかし、よくよく考えてみると、車が走るためには人間が運転しなければなりません。
設計図が同じでも同じところを走らないのは、違う人間が運転しているからです。

でも、一卵性双生児は遺伝子が同じですが、全く同じ行動をするのでしょうか。
二人に質問をすると、同時に同じ答えが返ってくるという場面は、テレビなどで見ますが、
二人を別々に育てると、かなり性格にも違いがでてくるようです。

つまり、ヒトの行動は遺伝子によって、かなりの影響は受けますが、
育つ環境の因子が大きく、行動は決まってはいない、ということになります。
ヒトに限らず生物は、遺伝子だけでその個体が存在するのではなく、
遺伝子と環境の二つの間で、相対的に存在するものなのです。
すなわち、存在する場つまり環境が必要なのです。

ビリー・ジョエル


ビリー・ジョエル1978年の作品「ニューヨーク52番街」です。
この「ニューヨーク52番街」は前作の「ストレンジャー」と並んで、
ビリー・ジョエルの代表作と言ってよいと思います。

「マイ・ライフ」や「オネスティ」の名曲をはじめとして、いい曲がたくさん収録されています。
私は「ストレンジャー」に収録されている「素顔のままで」と並んで、
「オネスティ」がすきですが、ビリー・ジョエルの曲は他にもいい曲がたくさんあります。

私はこの「ニューヨーク52番街」はレコードしか持っていないので、
今はもっぱら「ビリー・ザ・ベスト」を聴いています。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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