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人生観と世界観の違い

人生観と世界観という言葉は、あまり区別して使われません。
広辞苑にはその違いについて、「世界観は人生観より包括的」と書かれていますが、
あまり明確な区別がありません。

人生観は一人一人の人間が、自分の生きる指針として持っているもので、
その人のいわば個性でもあります。
世界には人生観を持つほどに成長した人間が何億といます。
したがって、世界には何億通りもの人生観(個性)があることになります。
世界観は人生観とは異なり、これら何億通りもの人生観を包含するものでなければなりません。
そうでなければ「世界」観とは言えません。

ある人生観が良いと判断されても、それはあくまでもその人の人生観であり、
世界のすべての人をその人生観にすることなどできないし、
できたとしても、それが良い社会になるとは限りません。
いろんな人生観(個性)の人があり、いろんな職業を選んでいるからこそ、
この社会は成り立っているのです。

だから人生観と世界観は異なるものです。
世界観は、いろんな人生観の人を包含するとともに、それを取り囲む自然や宇宙を含めた、
世界を全体として意味づけするものでなければなりません。

このように人生観と世界観を位置づけすると、
これまで世界観として扱われてきた(広辞苑による)、例えば楽天主義とか厭世主義などというのは、
人生観と言った方が良いと思います。


人生観と世界観の違いⅡへつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1249.html

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個性を認め合おう

人間同士の付き合いというのは、案外面倒なものです。
人それぞれに個性があって、いつでも意見が合うとは限りません。
自分の個性も主張できて、相手の個性も尊重できれば一番いいのですが、
なかなかそうはゆかないのが現実です。

「その考えには賛成できないです」と言ってしまうと、角が立つので、
ついつい相手の話に同調してしまいますが、
それでは自分の主張を曲げることで、トラブルを避けたに過ぎません。

私は音楽が好きですが、音楽の好みも人によっていろいろです。
それでも私は相手の好みに自分の好みを合わせるようなことはしません。
「あなたはこんな音楽がお好きですか。情熱的ですね。」と、相手の個性を認めた上で、
「私はもつと静かな音楽が好きなんですよ」と、自分の個性も相手に分かってもらいます。
それで良いのではないでしょうか。

間違ったことには、はっきり間違いを指摘する必要はあると思いますが、
価値観というのは、好みの問題ですので、人によって異なることも有り得ます。
私のブログも「反対意見大歓迎」です。色んな人の色んな意見が知りたいのです。
色んな意見を知り、色んな個性を認められるように、と思っています。

ガンを苦に自殺

よく「ガンを苦に自殺」などというニュースを聞きます。
そんな中にガンと宣告されただけで自殺する人があるのですが、考えてみればおかしな話です。
ガンになって死が近くなったことを、苦にしての自殺ですが、
自殺をすればなお死が近くなるのです。
なぜ、こんな矛盾したことをするのでしょうか。

人間は、たいていの人は死ぬのが恐いものです。
ガンになったら必ず死ぬとは限りませんが、疑心暗鬼になって悪い方に考えてしまいます。
つまり、死と向かい合って生活することになります。それに耐えられなかったということですが、
それで自殺するのは、先にも言ったように矛盾しています。

それは、当たり前のことですが、死と向かい合って耐えている「自分」があるからです。
その「自分」を無くすために自殺をするのです。
となれば、これは必然的な結末でしょうか。それは違います。
同じ状況でも自殺する人としない人があります。それはどこが違うのでしょうか。

自殺して「自分」は無くすのではなく、苦しんでいる自分の心は預けることができます。
悩み事でも、人に話すと少し気持ちが軽くなります。
自分一人で悩まず、悩みを人に分けることです。悩みをすべて人に預けましょう。
病院の先生は一番頼りになる人です。自分の命を先生に預けましょう。
そして悩む心も一緒に預けましょう。
それでもまだ不安なときは、神仏にも心を預けましょう。

とりあえず、悩み事は自分一人で解決しようとしないことです。

凡人について

世の中には代議士先生や学者の先生や芸術家の先生などの偉い人もいれば、
ごく普通の人すなわち凡人もいます。
世の中にはこの偉い人と凡人の二種類の人間がいるのかと言えば。
そうではなく、同じ人間が時には偉い人になり、時には凡人になるのです。

例えば、学者は学者としての知識や経験があり、学者としてのプライドもあります。
また、漁師は漁師としての知識や経験があり、漁師としてのプライドもあります。
しかし、学者は漁師としての知識は凡人レベルの知識しかありませんし、
もちろん漁師には学者としての知識はなく凡人です。
このようにひとりの人間は偉い人でもあり凡人でもあるのです。

人類の歴史が語られるとき、その時代時代の偉い人が登場し、
歴史の牽引者として語られます。それは間違いではありませんが、
その裏にはその牽引者を支えてきた多くの凡人がいたことを忘れてはなりません。
凡人も人類の歴史を支えてきた一員であり、人類にとって大切な一員なのです。

凡人は偉い人の後ろを、ただ付いて来たのかと言えば、そうではありません。
偉い人はその事柄の様々な知識を持っていて、凡人にはとても敵う相手ではありませんが、
いかに整然と理屈を並べられても、凡人には納得ができないことがあります。
偉い人は「木を見て森を見ない」傾向があり、ピントのズレに気づかないのです。
凡人はそうしたピントのズレには敏感です。

私はこのブログで、そうしたピントのズレを指摘してゆきたいと思っています。

「信ずる」ということ その3

「信じていたのに裏切られた」などという話をよく聞きます。
信頼していた友人の話が嘘と分かって「だまされた」という訳です。
そこまで言わないまでも
「それならそれと正直に話してくれたらよかったのに」などと言うのです。

しかし、友人はその人を裏切ったのではなく、
その人にそう思っていて欲しかっただけなのかもしれないのです。
その友人の気持ちを尊重するなら「裏切られた」と言うのは言い過ぎではないでしょうか。
こうしたケースでは、多くの場合、だまされたと思う側には
「自分をないがしろにされた」という疎外意識があるものです。

その友人を信じていたのなら、信頼していたのなら、
友人の気持ちを認め、その気持ちに従うことです。それが「信ずる」ということです。
友人の考えがどうであれ、
友人を信じて、友人の考えに自分をゆだねることです。
先の例で言えば、「そう思っていて欲しい」という友人の気持ちを尊重して、
そう思っていてあげることです。

それが「信ずる」ということです。

泥棒にも十分な道理

テレビのワイドショーなどで、有名人の家に泥棒が入った、
などという話題がでることがあります。
有名人の豪華な家が映って「ここから犯人は侵入した模様です」などと、
リポーターが案内します。
そして決まって同情されるのは、被害者の有名人の側です。

もし、犯人が飢えをしのぐために泥棒をしたとしたらどうでしょう。
それほど極端でなくても、ほんの少し贅沢をしたいために泥棒したとしたら、
同情されるのは泥棒の方ではないでしょうか。
泥棒をしなければ生活が維持できない境遇なのです。
泥棒に入られた有名人は、それでも明日の生活には困らないのです。

私たちは、とりあえず生きてゆくのに、つまり食べるのに困ることはありません。
そういう枠組みのなかで、法律を守り、社会規範を守っています。
その枠組みからみれば、泥棒の方が悪いから同情される側にはならないですが、
食べることにも困る状態では、私たちの枠組みは崩れてしまいます。
だから同情される側も逆転します。

泥棒にも十分な道理があるのです。

自我と欲望の違い

欲望は言葉の通り欲しいという気持ちであり、その典型が食欲や性欲です。
この欲望は人類が生きてゆく上で、最も基本的な心の機能で、
これがなければ人類は滅んでしまいます。
だから欲望は、生まれてから死ぬまで人間には備わっているものです。

一方自我というのは、「誇る」「ぐれる」「恥じる」「照れる」などの気持ちを表す心の機能です。
自我は欲望と異なり、生まれたときにはなく、成長するにつれて徐々に備わってくるもので、
思春期になってはっきり自覚されるものです。
欲望はなくては生きてゆけれせんが、自我はなくても生きてゆけます。

欲望の中身・強さには個人差はあまりありませんが、
自我の場合は、中身・強さともに個人差がかなりあります。
この個人差が、その人の個性を形作ります。

普通は、人間の心の一番基本的なところに欲望があり、自我がその上に乗っています。
しかし、自我が強すぎると、欲望と自我の立場が逆転してしまいます。
「命を賭けてもやり通す」というのは、その逆転した状態です。
その最も典型的な形が「自殺」です。人間には「生きたい」という欲望がありますが、
その欲望よりも「誇り」という自我が上回った結果が自殺です。
欲望より自我の方が強くなると、この自殺のように、人間行動は時に異常なものになります。

他人の心

心を感じることができるのは、自分だけです。
他人の心は感じることはできません。
例えば、自分が赤いと感じているこのリンゴの色は、
他人には自分が黄色いと感じている色に感じられているかもしれないのですが、
そしてそれを「赤い」と言っているのかもしれないのですが、
しかし、それを確認する方法はないのです。

哲学者は、こうした事実を「あーでもない、こーでもない」と議論するのですが、
凡人は、「他人も自分と同じように感じている」と信じるのです。
他人の言動で、その心の状態を推測し、それを信じるのです。
信じることで社会を形成し、支え合って生きているのです。
しかし時には、間違った判断をしたり、勘違いしたりして、トラブルの元にもなります。

人間は、同時に「疑う」ということもします。
これも他人の心が見えないことに原因があります。
他人の心を疑わなければならないということは、悲しいことですが、
心が他人には見えないことを利用して、騙そうという人間もでてきます。
だから、騙されないように疑ったりもします。

人間社会のつながりをを支えているのは、お互い同士の信じ合いです。
その反面、人間同士が争うこともあり、そのもとには、疑うという行為があります。
これらすべては、心がお互いに感じられないことに源があります。

このように他人の心が見えないことによる功罪はいろいろありますが。
もし他人の心がすべて見えるようになったら、どうなるでしょう。
人間社会自体が成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。
他人の心は見えないのが良いのかもしれません。

法律を犯さなければ良いというものではない

最近、法律を扱ったテレビ番組が増えてきています。
具体的な事柄を例にして、それが罪になるかならないか、なるとしたらどういう罪になるのか、
などを話題にして、クイズ形式で番組を進めてゆくものですが、
なかなか素人には答えが分からないものです。
だからこそ、こうした番組が成り立つのかもしれません。

なかなか答えが分からないということは、
その事柄の善悪が分かりにくい、善とも悪ともとれるということです。
なのに、その分かりにくいものを、弁護士先生が法律の網を掛けて、どちらかに決めてしまうのです。

その結果を聞いて「なるほど」と納得することもあれば、
「へえー、そうなん?」と意外に思うこともあります。
ときには、「それなら、こうしたらごまかせる」「こうしたら罪にはならないのか」などと、
良からぬことを考えたりもします。

法律さえ犯さなければ、それで良いという考えが、こうした番組の裏にはあるようですが、
それは問題があるのではないでしょうか。
ある有名な詐欺師の愛読書が、六法全書だったという話を聞いたことがありますが、
法律を犯さなければ何をしても良いとは、私は思いません。
もう少し番組のあり方を考えた方がよいのではないでしょうか。

意識は科学の対象になり得るか

「意識」一言で表現すれば、心の働きです。
物理学はあらゆる物について対象を広げ、今では分からないことがないと言ってもよいくらいですが、
心については、全く手付かずの状態です。
心理学という科学があります。これは当に心を対象にしていますが、
研究する人が研究される人、すなわち他人の心を研究するものです。
しかし、心を直接観察できるのは自分だけです。他人の心は見えません。
今問題にしているのは、自分にしか感じられない自分の心すなわち「意識」なんです。

現在考えられる心への接近方法としては、次の三つがあります。
   ①、脳科学を中心とした神経生理学的方法、
   ②、ロボット科学を中心とした電気回路に基づく方法、
   ③、従来からの哲学的方法、
この記事の議題が「意識は科学の対象になり得るか」ですので、
③はこの際対象から除外されますので、①と②について検討してゆきます。

①の脳科学が、脳の隅々まで神経細胞の仕組みが詳細に明らかになっても、
それは物としての脳についてであって、その脳の持ち主が今感じている意識自体は分からないのです。
②のロボット科学が、いかに人間の脳とそっくりの回路を作ったとしても、
そのロボットが、意識を持っているかどうかを確認する方法がありません。
だから科学は意識を対象とすることはできないのです。

意識はやはり哲学の対象領域です。
しかし、現状の哲学は哲学者が勝手気ままに意識について論じており、
これではまとまり様がありません。
何かもっと整理してくれる人が出てきて欲しいものです。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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