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悟り

「悟り」広辞苑によれば「まよいが解けて真理を会得すること」とあります。
この悟りを得るためには、どうしたらよいのでしょうか。
結論から言いますと、それは自分の自我や欲望を取り去ることです。
それではどうしたら自我や欲望を取ることができるのでしょうか。
それは徹底的に自分の自我や欲望を知ることです。

その方法として最もよく採られるのが「内省」です。
自分の心をじっくり眺めてみることです。
これは簡単なようで中々できることではありませんが、根気よく続けることです。
そしてフロイトがいうところの深層心理にまでたどり着けば、「悟り」は近いです。

しかし、まだ超えなければならないところがあります。
今、自我や欲望を取り去ろうとしている「自分」というのは、いったい何なんでしょう。
それは「自我」そのものなんです。
つまり、自分すなわち自我で自我を取り去ろうという、矛盾したことをしているのです。
それを理屈でではなく実践して知る必要があります。
そして自分ではどうすることもできないことを悟ったとき、神仏があなたを救い上げてくれるのです。
これが仏教でいうところの「他力本願」です。これが「悟り」です。
これらはすべて心の中でのできごとです。しかし、幻想ではなく経験そのものです。

宗教や宗派によっては、こういう説明のしかたを嫌うところがあります。
例えば、キリスト教は「そんな厄介なことはする必要がなく、イエス・キリストの話を受け入れるだけでよい」といいます。
また、仏教でも浄土真宗などは「釈迦の教えを聴くだけでよい」といいます。

しかし、こうした簡単そうに見える方法も、実はまったく同じなのです。
「話を受け入れるだけでよい」と言っても、簡単には受け入れられません。
自分の考え=自我が邪魔をするのです。
自分の考えに合わない教えは、すぐには受け入れられません。
つまり、ここでも自我を取り去らなければ悟れないのです。

自分に自信があるうちは、なかなか宗教には接近できません。
しかし、宗教の必要性は心の隅に置いておいてほしいものです

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愚れる

一般的に愚れている人は、訳も分からず当り散らし、
善悪の分からない人と思われていますが、そうでしょうか。

この社会、平等なようでなかなかそうでもなさそうです。
機会は均等に与えられているといいますが、
生まれながらにハンディキャップのあることもあれば、
生まれた家庭が裕福か貧乏かでも差がでます。
学問は苦手でも他に能力があるにもかかわらず、
学問だけを教える学校での成績が、将来に大きくのしかかってきます。
その他いろいろ運悪く社会の流れに乗れない人がたくさんいます。

また、誰しも収入が多くて楽な仕事に就きたいと思うでしょうが、
誰もがそうなれるとは限りません。
誰かが勝てば誰かが負けるという競争社会だからです。
そして一旦落ちこぼれたら、立ち上がるのにも厳しい社会です。
落ちこぼれた者は、これまで以上に努力しなければ立ち上がれません。
努力しても立ち上がれないことも多いと思います。

そんなとき落ちこぼれたものがとる態度の一つが「愚れる」です。
これは一種の開き直りです。
「どうせ俺は能無しだ」と開き直って、鬱憤をはらすのです。
善悪が分かっていればこそ、そうできない自分が苛立たしいのです。
善悪が分かっているから「愚れる」のです。

愚れている人と接してみると、むしろ人間として成長している人が多いと感じます。
愚れている人は、自分を通じて人間の醜さを知っています。
むしろ、愚れていない者の方が、本当の人間を知らないことが多いように思います。

生の世界、死の世界

生の世界とは、現実の生きているこの世界のことです。
生の世界は、すべてのものが相対的に存在しており、すべてのものは相対的に認識されます。
「言葉の意味」でも少し述べましたが、何か比較するものがなければ、ものは認識できません。
「赤い」という色を認識するためには、「赤」でない色がなければなりません。
この世界がすべて「赤い」色でできていたら、「赤い」という色を認識することはできず、
「赤い」という言葉も要りません。
色に限らず、すべてのものは相対的に存在しています。
有があるから無があり、善があるから悪があり、生があるから死があり、
幸があるから不幸がある相対的な世界、これが生の世界です。

これに対して死の世界は、絶対的な世界なのです。
善も悪も、幸も不幸も、有も無も、生も死もない世界です。
したがって、生の世界にはあった疑問や不安、死の恐怖などもない世界なのです。
自我や欲望による執着を受けない、とらわれのない世界です。
この絶対的世界を仏教では「空」といい、喜びの世界だといいます。
聖書の「伝道の書」にも「死ぬる日は生きる日にまさる」とあります。

この死の世界は、死んだ人でないと分からない世界なのに、
どうして分かるのかという疑問を持たれることでしょう
それが生きながらにして死の世界を体験できる方法があるのです。
仏教で言うところの「悟り」がそれです。
(どうしたら悟れるかについては、稿を改めて書きます)

量子力学の世界で「真空」あるいは「無」という概念がありますが、
この「真空」から突然、物質と反物質がうまれ、またその物質と反物質が結合すると、
物質も反物質も消滅して、また「真空」に戻るといいます。
この物質と反物質はいつも一対で相対的に現れ、どちらか一方では現れないものです。
生の相対的世界も、善と悪、幸と不幸、有と無、生と死、すべて一対で存在しています。
案外こんなところで物理学と宗教は関係しているかもしれません。

人はみんな必要です

有名なタレントさんが書かれた詩を紹介しましょう。

  人は何か一つくらい誇れるものを持っている
  何でもいい、それをみつけなさい
  勉強がだめだったら、運動がある
  両方がだめだったら、君には優しさがある
  夢を持て、目的をもて、やればできる

  こんな言葉にだまされるな。何も無くていいんだ
  人は生まれてきて、生きて、死ぬ
  それだけでたいしたものだ

格好いいですね。凡人にはなかなか書けない詩です。
前段の詩は、どなたかが書かれた詩を引用されたのでしょうか、
どちらにしても、前段のような詩を書ける人は、
若さに溢れた元気な人だと思います。
「自分もそうだから、あなたにもできる」
という考えがそこにはあります。
後段はタレントさん自身の気持ちが書かれているところです。
「だまされるな」という言葉で、前段の詩を否定しています。

年老いた人、病気の人、体の不自由な人など、
世界にはたくさんの弱い立場の人がいます。
そうした人達は「やればできる」と言われてもできないものです。
このタレントさんは、こうした弱い人達への応援歌として
この詩を書かれたのでしょう。
しかし、その格好良さゆえに、
前段の詩まで否定しているように見えます。

現実の世界は、後段の弱い人達を前段の若い元気な人達が支えています。
だから、若さに溢れた元気な人も必要なのです。
夢を持って、目的を持って、やればできると思って頑張ることは
決して悪いことではありません。
そして若い元気な人達も、支えながら教わったり、どこかで弱い人達に支えられているものです。
みんなお互い様なんです。

人はみんな必要なのです。
若い元気な人も、年老いた人も、病気の人も、体の不自由なひとも必要です。

人類はこれ以上進歩する必要があるか

少し前に「人類は進歩しているか」という投稿をしましたが、
皆さんのご意見は、「進歩している」「進歩していない」の二つに分かれました。
それはともかく今仮に、人類はこれまで進歩してきたとします。
それでは、これ以上人類は進歩する必要があるのかどうかを、
考えてみたいと思います。

確かに人類は今繁栄の頂点にあるように思います。
しかし、一方で環境破壊の問題や生命に関わる倫理の問題を抱えています。
考えようによっては、人類は今、最も危機的な状況にあるようにも見えます。
今、何らかの対策を取らないと、取り返しのつかないことになるかもしれません。

今少し、進歩の歩みを緩めて、あるいは進歩を止めてでも、冷静に考えてみる必要はないでしょうか。
人間の欲望には切りがありません。それが証拠に「これで満足」と歩みを止めることはありません。
人間は、自分の欲望を満たすため、動物も植物も自分都合の良いように管理しようとしています。
そして地球をも管理の対象にしようとしています。
そんなことが可能なのでしょうか。

その不安を示すかのように、地球全体で気象異常が発生しています。
この荒れ狂う地球を、果たして人類は制することが出来るでしょうか。
今、進歩の歩みを止めて、真剣に考え直すときではないでしょうか。
みなさんのご意見をお聞かせください。

時間について Ⅰ

どこまで行っても自分にある時間は、只今現在のみで、
幅のある時間は捉えることはできない。
過ぎ去った過去はすでにないし、来るべき未来はまだない。
なのに私たちは過去について懐かしく語り、
未来について夢見て語る。
この「時間」というものはいったい何なのだろうか。

過去については、人間の記憶の中にある。
一時間前の記憶であったり、一ヶ月前の記憶であったり、
一年前の記憶であったりするが、
その記憶自体は、現在の自分の脳の中にあり、
現在の自分の脳の状態なのだ。
過去そのものはどこにもないのである。

未来については、人間の希望や夢の中にある。
それではこの希望や夢はどこから来るのだろうか。
赤ん坊のときには希望も夢もなく、
只今現在があるのみである。
それが成長するにしたがって、いろいろの能力がついてきて、
その能力で「明日はあれをしよう」などと
時間の感覚が生まれてくるのである。

成人すればもっと大きな能力が具わり、
大きな夢や希望が生まれる。
夢や希望は能力が支えているのである。
この「能力」も可能性としてあるもので、
未来そのものではない。

このようにして時間は、現在の人間の中に、
記憶として、希望や夢としてあるもので
この世界のどこにも存在しないものなのである。



時間についてⅡ↓へつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1386.html

個性を生かした教育を

何かをするにも、いろいろの方法があります。
 ①、自分で考えて行う方法、
 ②、自分で本やインターネットなどで調べて行う方法、
 ③、自分で道具を使って行う方法、
 ④、他人と共同して行う方法、
 ⑤、他人に教えてもらって行う方法、
 ⑥、他人に頼んでしてもらう方法、
 ⑦、他人に命令してやらせる方法、
 ⑧、他人に強制的にやらせる方法、
 ⑨、他人をおだててやらせる方法、
 ⑩、他人に嘘を言ってやらせる方法、
 ⑪、他人を脅してやらせる方法、
 ⑫、他人がしたものを盗んでくる方法、
その他、状況・事柄に応じていろいろの方法があります。

現在、学校で教えてくれるのは、①~③くらいでしょうが、
人間にはいろいろの個性があり、④~⑦⑨などの方法が適している個性の人もいる筈です。
学校などでは⑧⑩~⑫などの方法は、悪いこととして教えますが、
そうした方法の方が適している個性の人もいます。

④~⑪は、事の善し悪しは別にして、
他人との何らかの関係があって成り立っている方法です。
⑫の方法でも、「アイディアを盗む」とか「他人の真似をする」などは、
誰にでもよくあることです。

教育は自立心とか主体性とか、とにかく自分ひとりでできることを良しとし、
他人の手を借りることは二の次にしています。
しかし、社会に出たら他人と共同して、あるいは他人の手を借りて行うことが多いものです。
時にはおだてて、時にはだまして、時には無理やりにでも行わせることが間々あるものです。

子供たちを教育するにも、いろいろの個性の可能性を考えて、
特に、他人との関係でする方法を教える必要があると思います。

地球は平らである

つまらないジョークの第二弾です。

このごろすっかり地球は丸くなってきましたね。
いつごろから地球は丸みを帯びてきたのでしょうか。
「おいおい、馬鹿なことを言うなよ。地球は最初から丸いよ」
という声が聞こえそうですが、凡人の私には地球は平らに見えます。
上の写真を見てください。まさに地球は平らです。

我が家の前は坂道になっていますが、これは地球が丸いからではなく、
少し山手の住宅地だから坂道が多いのです。
我が家の二階の寝室は、ボールが転がるほど斜めになっていますが、
これもベッドの重みで床がたわんでいるためで、地球が丸いからではありません。
グランドの距離を測るときも、球面として測ることはなく、平面として測ります。
このように日常生活をする上で、地球が丸いと考える必要など全くありません。

アインシュタインの相対性理論によれば、互いに行動する物体では時間の経過が異なるそうです。
しかし、自動車で行動してもジェット機で行動しても、
他の人と時間の経過が異なることはありません。
実際には何億分の1秒かは異なるようですが、日常生活には影響がなく、無視して生活しています。
それと同じです。日常生活では地球が丸いと感ずることはなく、僅かな球面は無視して生活しています。
だから地球はまだまだ平らなのです。

哲学と宗教の違い

哲学は徹底的に疑うことで真理を見つけようとします。
すなわち、自分以外のものはすべて疑い、
自分の力・能力で真理にたどり着こうとします。
その結果として、極端な場合自分以外のものを信じない、
独我論に陥ってしまいます。

しかし哲学者でも、自分以外のものをすべて疑っていては、
日常生活が成り立ちません。
だから普通は、自分の外の世界の存在を「信じ」、
他人にも心があることを「信じて」生活しています。
つまり、疑うだけで哲学はできても、
日常生活は出来ないということです。

それに対して宗教は、自分の力・能力は使わず、
信ずることを徹底して真理にたどり着こうとします。
信ずるとは以前にも述べたように、
誰かの判断を受け入れて、それに従うことです。
あくまでも、自分の力・能力は使いません。

むしろ、自分に力・能力があったら捨てるようにします。
自分の力・能力は、
真理を突き止めるのに邪魔になるものと言います。
力・能力が、真理をゆがめていると言うのです。

このように、哲学も宗教も同じく真理を探究するものですが、
哲学と宗教はまったく反対の極にあるもので相容れないものです。

少年は大志を抱くべからず

「少年よ大志を抱け」
この際誰が言ったかは問題ではありませんが、
今でもそういうつもりで子供に教育している親や先生がいるようです。

「大志」って、博士や大臣になろうとすることでしょうか。
もう少し小さくても良いのでしょうか。
いずれにしても、人より上に立つことを目指し、
経済的に恵まれることのみを考えているように思います。

しかし現実には、それが達成される子供はごくわずかで、
たいていの子供は達成できないのです。
となれば、親や先生は子供に達成できない挫折感を味わすために教育していることになります。
だから、大志は抱かない方がよいのです。

それでは何を目標に教育したら良いのかと言うことになりますが、
その子供の個性に合った将来を志すことが必要だと思います。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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