FC2ブログ

「本音」って何?

「本音で話そう」などとよく言いますが、「本音」って何でしょう。
何かに対して思う気持ちは、一つとは限りません。
むしろ複数の気持ちを持つことの方が多いと思います。

例えば、子供がお菓子を持っていて、友達の子供に「お菓子、欲しい」と言われたとします。
お菓子を持っている子供は「お菓子が減る」とも思いますが、
「友達だし、お菓子、あげたい」とも思うと思います。
そして両方を天秤にかけて重い方を行動に移します。

別の例をあげましょう。
一生のうちには「あんなやつ殺してやりたい」と思うようなこともあると思いますが、
「殺したら警察に捕まる」と思って、たいていの人は殺すようなことはしません。
天秤にかけたら、捕まりたくないと判断したのでしょう。

よくある例で言えば、
人と話をしていて、相手の話に「同意できない」ときなどでも、
「相手と仲違いしたくない」と思って、相手の話に合わせることがあります。
やはり天秤にかけて、仲違いしない方を選んだのでしょう。

これら三つの例の「 」で囲った気持ちの、どれが本音でしょうか。
私は、天秤をかけて重い方、行動に移した方が本音だと思いたいのですが、
一般的にはそうでもなさそうですね。
私の考えでは「本音」にはならないですね。「本音」って何なんでしょうか。
みなさんはどう思われますか。

スポンサーサイト

自殺 その2

自殺をする理由にも、いろいろのものがあります。
事業の失敗や保証人になって借金をかかえたり、
失恋、受験の失敗、病気、責任沙汰になるなど、いろいろの原因があります。

しかし、そうした原因がないのに自殺する人があります。
生きることの意味を見つけられない、生きることに罪悪感を感じる、
いわゆる「自殺願望」のある人です。

こういう自殺願望の人は、真面目な人が多いです。それも一通りじゃない真面目さです。
そして、生きることに真剣です。
見ていて、もう少し、気楽になれないものかと思いたくなります。

学校での教育は、人間の理想的姿を教えるために、現実の姿と大きなズレがあります。
真面目に教えられた通りに行動しようとすると挫折します。
また、物質文明は物質的には豊かにしたが、人間の本来の姿を忘れさせます。
物質文明に埋もれていては、生きる目的が見えなくなります。
これらの教育や物質文明の衣を脱ぎ捨て、本来の人間の姿を知る必要があります。

知ってみれば、人間なんてそれほど立派な動物ではないことが分かります。
みんな利己主義でわがままな人間です。
みんなそれを承知で支え合って生きているのです。

あまり真面目過ぎると窮屈で、それこそ生きておれなくなります。
迷惑を掛けてもいいから、気楽に生きることです。
みんなお互い様なんですから・・・。

しかし、自殺願望のある人には、こんな言葉も一時的な慰めでしかないかもしれません。
気質的なものがあるようにも思えます。最近は良い薬が出ているようですので、
気軽に神経科のお世話になるのも良いかもしれません。

主体性は社会生活になじまない

子供が小さいときは、親からの自立を促すため、自分で何でもできるように教えます。
つまり、主体性を身につけるように教えます。
しかし、親から自立してからも主体性を主張し、
それを妨げるものは、すべて悪いものであるかのように、
「自己疎外」されていると嘆く人があります。

現代のように分業化された社会では、
自分一人では生きてゆけないものです。
自分に必要なものは、すべて貨幣を使って手に入れることができます。
当たり前のことですが、それは他の人が、必要なものを作っていてくれるからできることで、
他の多くの人々と分業し、社会を形成しているから成り立っていることです。

だからこの分業社会を維持するために、国の法律は守らなければならないし、
その他社会の規範も守らなければならないし、人間関係も維持しなければなりません。
自分の判断がいつでも通るとは限らないし、主体性が通らないことも多々あります。

また、個々の人間がばらばらに主体的に行動しては、
まとまりがなくなり、統一が取れない社会になってしまいます。
ときには、指導者の意思のもとで団結しなければならないこともあります。

すべての主体性を否定するつもりは毛頭ありませんが、
強すぎる主体性は社会生活にはなじまないものになります。
教育は主体性とか自立心を強調しますが、
それはせいぜい、与えられた役割の範囲までに止めておかなければなりません。

太陽が地球の周りを回ってる

朝、目が覚めると東側の窓に太陽が見えます。
そして夕方には西の山に太陽が入ります。
どう考えたって太陽が私(地球)の周りを回っています。

なのに、どうして地球が太陽の周りを回っていると教わるのでしょうか。
偉い人の説明では、「その方が宇宙の仕組みを単純に説明できるから」といいます。

それでは朝の「太陽が昇る」現象はどうでしょうか。
「地球の自分がいる面が太陽に方に向いた」とでも説明すれはよいのでしょうか。
「太陽が昇る」とどちらが単純に説明できているでしょうか。
一目瞭然です。「太陽が昇る」の方が単純ですぐに分かります。
「地球の自分がいる面が太陽の方に向いた」では何のことやらすぐには理解できません。
だから太陽が地球の周りを回っているのです

これはいわゆる天動説か地動説のどちらを取るかの話ですが、
天動説も地動説もある視点からみればどちらも正しいのです。
視点が異なれば、正しいものも変わってきます。
私のような凡人は、まだ天動説の世界で生活しています。

地動説は宇宙に視点を置いた説明で、
天動説は日常生活に視点を置いた説明です。
そしてどちらも正しいのです。

ほんのつまらないジョークですが、分かっていただけたでしょうか。

自殺 その1

ある統計によると、自殺をしたいと思ったことのある人の、
その最も多い理由は「生きるのが煩わしい」というものでした。

朝起きたら身だしなみを整え、挨拶も忘れないように、
人を傷つけないように言葉を選び、
子供のことも考えないといけないし、
上司の顔色を伺っていたら、会社も休めない。
確かに生きてゆくのは煩わしいものです。

普通の生活でもこんなに煩わしいのに、借金の取立てに追われていたりすると、
考えるだけでなく、実際に死んでしまいたくなります。
何とかしなければと努力はしても、どうにもならなくなったとき、
死を選ぶ人があります。自殺です。

自分の力で何とかしようとするから、自殺しか考えられなくなるのです。
自分でできなくなったら、家族に相談してみましょう。
家族がだめなら、友達を頼ってみましょう。友達がだめなら、国を頼ってみましょう。
国がだめなら、神仏を頼ってみましょう。

それが嫌なら、解決することを諦めることです。
そして既得のものに執着せず、すべてを捨ててもよい覚悟で、
成り行きに任せてみましょう。
そうしたら案外うまくゆくものです。

この記事は、自殺する何らかの原因がある人用に書いたものです。
原因がなく自殺を考えてしまう人は,「自殺 その2」を読んでください。

「理性」という心はない

よく「理性で判断する」などと言いますが、
この理性というのはどんな心の状態なのでしょうか。
一般的には、欲望などに左右されずに判断できる能力を指す言葉として使われていますが、
欲望に左右されない判断などあるのでしょうか。具体的にみてみましょう。

何かに憤慨したときにとる行動は個人によって差があります。
法律や社会規範などおかまいなしに行動する人もいますが、
たいていは「理性」で判断して法律や社会規範を守って生活しています。
一般的には後者の生き方が良いとされます。
もちろん社会からみればその通りなのですが・・・。

この後者の心理を分析してみましょう。
後者の人は、おそらく社会的にもそれなりに成功している人か、
それほどではなくても、少なくても生活に困窮するようなことがない人でしょう。
家庭を持っていて子供もいるかもしれません。
会社ではそれなりの役割があたえられているでしょう。
何かに憤慨しても、家庭や会社のことを考えると、
そのままの気持ちを行動に移すことはひかえるでしょう。
つまり、憤慨をそのまま行動に移して、気分を晴らすプラス面と、
そのことによって、家庭や会社に迷惑をかけるマイナス面を計算しているのです。
したがって、理性的判断というのは、どちらが得かの価値判断だったのです。

どちらが得かというのは、自分の欲望に聞いていることですので、
理性的判断というのも欲望に左右されているもので、
とても「理性」などと胸の張れるものではありません。

未来は決まっているか(決定論)

物体は物理学の法則にしたがって運動しており、
一時点での世界の状態が与えられれば、それ以降の状態は一意的に決まってしまう。
人間の身体も物体であり、物理法則にしたがって運動しており、
やはり未来は決定している、というのが決定論です。

もし決定論の言う通り、未来が決定しているとすれば、価値観は一変してしまいます。
犯罪を犯しても、物理法則にしたがって行動したものであり、
罪を犯した人間には責任がありません。そうなれば大問題です。

この決定論の根拠は、物体はすべて物理法則にしたがって運動している、
ということろにあります。はたしてそうでしょうか。
私たちは確かに物体で出来ていますが、自分の意思で自由に判断して行動しているように思っています。
私たちの社会もそれを前提にして成り立っています。

もし私たちが物理法則にしたがっていないとすれば、どうしてなのでしょうか。
自動車を例に考えてみましょう。

自動車は沢山の部品からできています。
そしてその組み立てられた部品は物理法則にしたがって運動します。
しかし、自動車は右にも左にも自由に動きます。
(正確には運転者が運転して始めて動くのですが、この件は後述します。)

つまり、自動車は個々の部品の動きの総計ではなく、
一つのシステム(構造体)として運動しており、
個々の部品の動きの総計に、何かがプラスされたとみてよいと思います。
このプラスされた何かというのは、いったい何なのでしょうか。

自動車は速く楽に目的地に行くための道具です。
しかし、個々の部品にはこの自動車としての役割は含まれていません。
自動車として出来上がったときに付け加わるものです。
これがプラスされた何かです。

それでは誰がそれをブラスしたのでしょうか。
それはその自動車を設計した人です。そしてそれを運転する人です。

人間も構造体として目的がプラスされて生きており、
自由に行動でき、未来は決まっていません。
人間の運転者は自分自身ですが、それでは設計した人は誰でしょう。
みなさん一緒に考えてみてください。

「ありがとう」と「ごめんなさい」

完全な人間は誰もいません。失敗をしない人間はありません。
みんな誰かに迷惑をかけ、誰かにお世話になって生きています。

しかし、一方で人間にはプライドがあります。
できるだけ世話になりたくない、迷惑をかけたくないとも思います。
世話になってはプライドが許さない。迷惑なんかはとんでもない。
そうは思っていても、生きてゆく間には世話にもなり迷惑もかけます。

プライドが強すぎると、
世話になっていることも迷惑をかけていることも気づかなくなります。
世話になんかなっていない。迷惑なんかかける訳がない。と、
そして迷惑をかけてしまっても、
迷惑なんかかける訳がないと、言い訳を考えるのです。

もう一度繰り返しますが、
完全な人間は誰もいません。失敗しない人間はありません。
みんな誰かに迷惑をかけ、誰かにお世話になって生きています。

その代わり人間には「ありがとう」と
「ごめんなさい」という言葉が与えられています。
お世話になったときには「ありがとう」、
迷惑をかけたときには「ごめんなさい」という言葉があります。
そしてその言葉でたいていのことは許されるのです。

せいぜい「ありがとう」と
「ごめんなさい」にお世話になりたいですね。

悪者になろう

私の家族はよく喧嘩をする家族です。
喧嘩の原因はというと、ごくつまらないことで、例えば
「久しぶりに外に食べに行こうか」
と私が提案すると、全員それに賛成するのはよいのですが
何を食べに行くかがなかなか決まらないのです。
妻は「すし」がいいと言い、息子は「カレー」という。
娘は「パスタ」が良いといいます。
私は私で「和食」が良いという有り様で、
みんな好きなことを言ってまとまりません。
そこで私が「誰か譲りなさいよ」というと
妻は渋々「パスタでいいわ」と譲ります。ところが
子供たちも「お寿司にするわ」と譲ります。
そしてまた喧嘩になるのです。

譲ることは良いことです。そのように教えられるし、それが常識となっています。
我が家の喧嘩は一回譲ったまではよかったのですが、
その先またお互いが譲らないため喧嘩が収まらないのです。
お互いが教えられたとおり「良い人」であろうとして、
再度譲ろうとしないためです。再度譲ってしまったら
最初の自分を押し通すことになり「悪い人」になってしまうからです。

「譲る」というのは、自分を抑えて他を立てることですが、
我が家の場合はあくまでも自分を立てているのです。
良い人でありたいという自分の気持ちを立てているのです。
良い人であろうとすることは、いつでもトラブルを避けるための
良い手段になるとはかぎりません。
本当に他を立てて譲るつもりなら、自分は悪者になって、
良い人でありたいと思っている相手の気持ちを立てる方が良いのです。

みなさんはどう思われますか。

法律はいつでも守る必要があるのか(ソクラテスの弁明)

ギリシャの哲学者ソクラテスは、言いがかりに近い罪で裁かれ、
毒杯を飲む破目になったというエピソードがあります。
「法律はいかなる場合も守らなければならない」と思っていたソクラテスは、
「いかに為政者のたくらみであっても、裁きを受けなければならない」と判断し、
脱獄の機会があったにもかかわらず、毒杯を飲んだのです。

日常の正常な状態のときは、法律は守って生活しなければなりませんが、
何か異常な状態になったときは、必ずしも法律は守らなければならないとは限りません。
例えば、近所で火災が発生したときには、
家に閉じ込められている人を助けるために、断りなしに敷地に侵入し、
窓を破って家に入ることもあると思いますが、
このような時は「家宅侵入だ」「家屋損壊だ」「法律違反だ」などと言ってる場合ではありません。

このソクラテスのエピソードは、裁判自体が異常であり、その裁判の結果に従う必要はないのです。
だからソクラテスは毒杯を飲む(法律を守る)必要はなかったのです。
凡人からみればソクラテスはバカだとしか言いようがありません。
時には法律は守らなくてもよいのです。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
ブロとも一覧
月別アーカイブ