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新「言葉」について Ⅶ

仏教用語に「而二不二(ににふに)」という言葉があります。
「而二不二」とは、「而二」と「不二」の二つの言葉がくっついたもので、
二つであって二つでない という意味です。
「而二(にに)」とは、一つのものを二つの面から見ることで、
「不二(ふに)」とは、二つの面があっても、その本質は「一つ」である、ということです。
(ブログ「正心寺」より 紫花大慈師)

例えば、岩瀧山 往生院六萬寺 川口 英俊氏は
「而二不二」とは、両部不二とも言われますが、
「二つにして、二つではない(一つのもの)」という意味であり、
普通に考えると矛盾していて理解し難い言葉になってしまいます。
いわゆる「無分別」を表すもので、両部は確かにあるが、
どちらがどちらとは決められない、またはどちらが何かとは言えない、
どちらにもとらわれて執着することができない、ということであります。
(執筆完了日 平成20年4月8日)

このようにネットで調べてみると、
「矛盾していて理解し難い言葉」と解説されているのである。

下の記事は2007/1/12に私が書いたものです。
「「同じ」ということの意味」というタイトルの記事です。

「これとこれは同じものだ」というような言い方をしますが、
「別のもの」二つを「同じもの」と言うのは矛盾していますね。
別のものなんだから違うものというのが常識なのに、なぜ同じものなのか、
その「同じもの」という理由というか、その意味はどこにあるのか。

二つのものの姿・形が同じだから「同じもの」なのでしょうか。
赤いノート、黄色いノート、大きいノート、小さいノート、分厚いノート、薄いノート、
姿・形は違いますが、同じノートですね。
ものを書き留めるという機能が同じだから「同じもの」なのでしょうか。

国語のノートと算数のノート、赤いノートと黄色いノート、
同じノートでもありますが、違うノートでもありますね。
赤い色と黄色い色は違う色ですらかね。
同じものでもありながら、同じものではないのです。

私たちはものを見るとき、たえず他のものと比較しながら見ています。
赤いノートは黄色いノートと比較してみているから違うものなのです。
それでは赤いノートも黄色いノートも同じノートと見るときどうなのでしょう。
それはノートと違うもの、例えば本と比較しているから、
赤いノートも黄色いノートも同じノートなのです。

以上が「「同じ」ということの意味」の記事ですが、
当に「而二不二(ににふに)」について書いたものと言えます。
「而二不二」の意味を「矛盾していて理解し難い言葉」として
理解する必要はないと思います。
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新「言葉」について Ⅵ

人とのコミュニケーションのとき「言葉」を使うとしても、
そのとき「言葉」は人(相手)に何を伝えているのだろうか。
こういう疑問に答えようとするのが、哲学ないし言語学の意味論である。

言葉の意味については、諸説があるが、
私は言葉の意味を、他の言葉と相対的に位置づけされる考えている。
言葉の意味が相対的に形成されているということを説明するのに、もっともよい方法は、
比較(相対)する相手がない状態を考えてみることである。

この世界がすべて赤い色と仮定して、その具体例をこれまでにも書いているが、
もう一度書いておこう。

「赤」以外に比較する他の色がないのだから、他の色と区別する必要はないし、
その色を指差しで示すこともてきようがないのである。
「赤い」という言葉を使う場面はなく、「赤い」という言葉も必要がない。
したがって、「赤い」という言葉も生まれないのである。
このように言葉の意味は他のものと比較して初めて相対的に位置づけできるのである。

言葉は、いくつかの単語が集まって、グループで意味を形成する。
例を上げよう。
一方でなければ他方であることが決まる2語で形成される言葉、
   「男」と「女」、  「生」と「死」 など
2語以上で形成されるもので、一方でなければ他方とは限らないが、
そのグループの中で相対的に形成される言葉、
   「善」と「悪」、  「大」と「小」、  「強」と「弱」 など
   (「大」でなければ「小」とは限らず「中」ということもある)
反対の動作を表す2語で形成される言葉、
   「行く」と「来る」、  「乗る」と「降りる」 など
同じ事柄であっても、立場によって表現が異なる言葉、
   「売る」と「買う」、  「やる」と「もらう」、  「教える」と「学ぶ」 など
以上、例としたものは2~3語で形成される言葉で、典型的なものの例であるが、
もっと沢山の語がもっと複雑な構造でグループを形成している言葉もある。
例えば、父、母、兄、弟、姉、妹、甥、叔父、など親族の関係を表す言葉など、
他にもいろいろある。

言葉(特に日常言語)は、かなり複雑に絡まっており、
上記のように単純には言えないケースもあるが、
基本的には言葉の意味は相対的に位置づけされている。

この記事は、
2005.9.1「意味論」として投稿した記事を加筆して再投稿したものである。


「言葉」についてⅦへつづく、

新「言葉」について Ⅴ

パラドックスとされる実例は沢山あるが、
最も典型的なものはラッセルのパラドックスと言われているものである。
しかし、記号を使った集合論はなかなか理解は難しい。

このラッセルのパラドックスについては、
ラッセル自身がパラドックスを避ける方法を考えていますが、
ここではタイプの異なるパラドックスや珍現象などに共通の解釈を
異論はあると思いますが、書いてみました。

張り紙のパラドックスと言う親しみやすい例で言うと、
「張り紙禁止」という文だけを見ているとパラドックスは感じないが、
この文を書いてある張り紙を見るとパラドックスに見えてくる。
禁止している筈の張り紙をしているわけでパラドックスになるのだ。

具体的に説明すると「張り紙禁止」と書いてある文は
単語が線的に並んでいる状態で、これは一次元で表現されている。
紙の上に書かれた状態だと、平面の二次元になるが、
その紙が壁に貼ってあるのを見ている人の立場で言えば、
書かれた紙とそれを見ている人との間にはもう一つ別の空間があって、
これは三次元となるのである。

「張り紙禁止」という文だけでは、パラドックスは存在しない。
その文が書かれた紙が壁に貼られて、
それを誰かが見た時にパラドックスが発生するのである。
この発生に次元がかかわっていることが分かる。

ここでは「次元」という言葉を異常現象の代表として使ったが、
必ずしも次元の跳躍が必要とは限らないのである。例えば、
アインシュタインの相対性理論。難しいことは分からないが、
光の速度に近い速度で行動すると時間の経過が他のものと異なる。

これは日常人間が時間について感じていることと、大きなズレがある。
これをパラドックスとは言わないが、人間の感覚では捉えられないような時空ことは
日常と同じ判断が成り立たなくなることがある。量子論でもそうである。

よく例に出るゼノンのパラドックスというのがある。
俊足のアキレスがカメを追いかけても、カメに追い付くことはできないという。
なぜなら、アキレスが元のカメのいた所まできたときには、カメはいくらか前進している。
次にまたアキレスがそのときカメのいた所まできたときには、
カメはまたいくらか前進している。したがって、アキレスはカメに追い付くことはできない。
というのである。

確かに理屈はそうであるが、実際はアキレスはカメを追い越すことができる。
だから、これをパラドックスと言うのは違和感があるのであるが、
アインシュタインの話もこのゼノンの話も、
日常とは異なる状況(環境)では日常の判断は通用しないということが分かる。

マクロな話やミクロな話、人の心でも特殊な状況では通用しなくなる。
日常とは異なる状況はアインシュタインでは光の速度であり、それはマクロな話、
ゼノンでは追いつかないというミクロな話が通用しなくしている。

次元が異なると推測すら困難になる。例で説明すれば、
線上の一次元の世界に住んでいては、二次元三次元空間での出来事は見えない。
後ろにいた者が三次元空間を使って前に出てきても不思議な出来事になる。
一次元空間に住んでいる人には、後ろにいた者が突然前に現れることになるからだ。
もはや、一次元人間の理解を超える事態が起こっているのである。

過去の哲学では感覚器官で捉えられる時空四次元の空間を超える、
すなわち「世界の構造」に収まらない概念を導入して哲学を構築しようとしている。
古くはプラトンのイデアに始まり、物自体があるとかないとか、また、
どこに本質を求めるかで一元論や二元論などが生まれ、実存は本質に先立つとか、
しかし、もともと次元を超えた世界なのだから、理解を超えた世界なのだ。
結論が出せる訳がない。

現在、哲学でこうした次元の話に似たような概念として「クオリア」がある。
しかし、このクオリアという言葉も使われ方がどんどん変化してきているようで、
普通の「感覚」の意味に使われてもいるし、その感覚自体を意味することもあるようだ。
脳科学などでは普通の「感覚」の意味に使われることが多いようだが、
哲学では「感覚自体」の意味にも使われている。
この使用法は次元を超えている。

新「言葉」について Ⅳ

古来、「言葉」とそれが示している「対象」との関係について、
いろいろの議論がされてきたが、現在なお、その結論は出ていない。
しかし、その結論がどうであろうと、その間人間の歴史は発展してきている。

素朴実在論と言うのがあるが、
それは一般的に人間が生活する上で前提としている立場で、
この世界は自分の目に見えたままに存在しているとする考えである。

ジェームズ・ギブソンが主張した「直接実在論」や
プラグマティズムの立場から主張される「実用的実在論」もほぼ同様の立場であり、
人間は外界の在り方を直接的に知覚しているとするものである。(ウィキペディアより)

この考えは一般人の考えに近いものと思われるが、
その土台というか基礎がはっきりしていないために、
他の実在論との違いがはっきりできず、単に沢山ある実在論の一つとして扱われている。

目に見えたままが存在していると言っても、いろいろの形がある。
私はすべての物は相対的に存在していると言ってきた。
「私の哲学の方法」でも述べたが、
比較するものが無ければそのものの存在を確認することはできないのである。

①、類や種は実在するのか、あるいは単に空虚な表象像にすぎないのか、
②、もしそれらが実在するとしたら、それらは物体的か、あるいは非物体的か、
③、それらは感覚的事物から切り離されているのか、
  それともそのうちに存在を有するのか、

という普遍に関するさまざまの存在論的・論理学的見解が現れ、論議が交わされたが、
こうした普遍論争も、相対的に比較する相手の違いとしで処理すれば、
なんら問題は生じないのである。

類は類同士、種は種同士で相対的に存在している。
例えば「動物」は「植物」などと比較し相対的に存在が確認できるのである。
したがって、先の①~③のような疑問は出てこないのである。


新「言葉」についてⅤへつづく、

新「言葉」について Ⅲ

物や事や心と対応する「単語」があり、その単語を組み立てて「文」をつくる。
その「文」になって初めて状況が表現できる。
現実の「言葉(単語~文章)」は日常のコミュニケーションから
思考や空想の世界へ広がり、文学や芸能など幅広く用いられる。
ここで初めて「言葉」がシステムとして扱えるようになる。

システム論は、生物や人間社会の仕組みも構造体としてとらえるもので、
二次元的にあるいは三次元的にとらえられる。
複雑系とかホーリズムなどの理論もシステム論と考えてよいと思う。

 私は「世界の構造」のシリーズの中で、よく
「この世界の構造を回転させる」と言う表現を使っているが、
それは「シミュレーションしてみる」という表現と書き換えてもいい。

「シミュレーション」とは、物理的・生態的・社会的等のシステムの挙動を、
これとほぼ同じ法則に支配される他のシステム
またはコンピュータによって、模擬することである。

すなわち模擬的に使ってみるということで、
そうすることで、その考え方の検証ができるのであり、
あるいは、その構造自体の検証もできるのである。

このように対象を構造体として捉えてシステムとして扱うと、
これまでみえなかったものが見えてくるのである。

「言葉」をシステムとして捉えることで、システム論の成果を利用できる。
ニクラス・ルーマンの社会システム理論によれば、 システムとは、

①、複数の要素が互いに相手の同一性を保持するための前提を供給し、

  相互に依存し合うことで形成されるループである。

②、システムは自己の内と外を区分(境界維持)することで自己を維持する。

③、システムは「システムと環境の差異」である。

④、システムは複雑性の縮減を行うことで安定した秩序を作り出す。

  すなわち、あるべき状態を予期し、その状態に適合しようとする。

⑤、ひとつのシステムはそれを孤立したものとして認識すべきではない。

  システムは外部環境が存在する場合に意味を持ちうる。

とされている。


新「言葉」についてⅣへつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1480.html

新「言葉」について Ⅱ

一つの例で話すと、地図という良くご存じのものがあるが、
この地図というのは現実の土地(もの)があって、それを縮小して書いたもので、
距離は縮小されているが、位置関係など相対的関係はそれで分かる。

この地図は現実の土地(もの)のモデルとして位置づけされていて、
地図上のある地点とある地点の関係は、
現実のある地点とある地点の関係に対応しているのである。
言葉も現実の事柄と対応しており、現実のモデルと位置づけできる。


「モデル」という言葉は厳密に言うと、もっと難しい言葉なのであるが、
広辞苑によれば「現象や構造を理論的に抽象化したもの」とあり、
「現実」と「モデル」はイコールではないのである。

物理学での無定義概念などとも似ているところがあり、
むしろ現実を抽象化したもので、モデルの方が汎用性があり、
用途が広くなり、表現力が大きくなるのである。

実際に言葉を使用するときは「文」として単語(名詞や動詞など)の間に、
日本語なら助詞や助動詞などの付属語を付けて状況を表す。

「単語」だけでは状況を表現されることはなく、
「文」となって初めて状況が現れてくる。
幾何学的に表現すれば、「単語」は「点」であるが「文」となると「線」になる。

空間的には「点」はゼロ次元であるが、「線」は一次元になる。
現実の世界は空間的には三次元であり、一次元では表現しきれない。
不足の次元は副詞や接続詞で文を重ねることで表現されるが、
それでも「線」が増えるだけで、網目にはなっても面にはならないのである。

どうしても文章での表現には限界があり図面による表現には及ばない。
私の「世界の構造」は二次元の図面になっている。
二次元にすることで構成要素の関係が分かり易くなっている。

新「言葉」についてⅢへつづく、

新「言葉」について Ⅰ

哲学をするでも、人とのコミュニケーションでも言葉を使う。
言葉はコミュニケーションの「道具」であり、思考の「道具」でもある。

コミュニケーションは何かを伝えることが目的であり、伝わればいいとも言える。
分からないときは、相手の気持ちを翻訳して受け取ることもあるし、
最近流行の言葉を使えば、相手の気持ちを忖度するということもある。

この言葉というものをどう位置づけするかは非常に重要である。
言葉を構成している単語は、一つ一つ物や事や心と対応しており、
その「物や事や心」についてと、
それを伝える手段としての「言葉」との区別が必要である。

「言葉にできないものは、存在すると思うか」という質問を、何度か受けたことがある。
その都度どんな返答をしていたか記憶がはっきりしないが、
「言葉を作ればいい」と答えたことがあったのは覚えている。

「言葉にできない」と言っているその裏には「何かがある」ことが隠れている。
何もないのであれば「言葉にできないもの」という表現は出てこないと思う。
したがって、その存在を問うことは意味がない。

言葉はコミュニケーションの「道具」であると言ったが、
「言葉」が付いていないものが話題にしたいなら、新しい名前を付ければ
コミュニケーションは可能になる。

名前のないものに新しい名前を付ける、すなわち命名なんて行為は、
日常でもよくあることである。
必要があれば命名すればいいのである。

要するに、ものがあるかないかと、言葉があるかないかは、別の問題であり、
それを一緒にして「言葉にできないものは、存在すると思いますか」と
思ってしまうところは如何にも哲学者らしい。


新「言葉」についてⅡ につづく、

新、心の構造 Ⅳ

心の状態を表す言葉として先に代表的な用言挙げてきた。
しかし、それらだけでは複雑な心の状態を表すのには十分ではない。
特に文学的な表現となるとそれこそ作者の創作で生まれる言葉もある。

そんなときの工夫として、物の状態を表す言葉を借りてくる方法がある。
例えば「心が弾む」「心が沈む」「心が躍る」などという表現である。
「弾む」とか「沈む」とか「躍る」という言葉は、物の状態を表す用言であるが、
それでもなんとなく心の状態を推し量ることはできる。
見えない心を可視的な言葉で置き換えることで、より解り易くしている。

上の例で言えば、心の種類としては「感情」になるが、
ある種の価値判断なども可視的な言葉で置き換えることも可能である。

社会の状態を表す言葉も、物の状態を表す言葉を使うことが多い。
例えば「会議を開く」「会議を閉じる」「会議が流れる」などという表現である。
考えてみれば不思議な表現である。

開いたり閉じたりするのは心もそうで、ドアだけではない。
心を開いたり閉じたりするときは、相手に心を見せるか見せないかの行為で、
何を見せるか語られていない状態で、まだ心が見えていないので
先に挙げた八つの心の種類には入ってないのであるが、
こういう場合の表現にも借り物の言葉で表現できる。

会議も心も時には「流れる」こともある。
これも社会の状態という分かりにくいものを、
分かり易い可視的な物の状態を表す用言に置き換えているのである。

日常こうした表現は頻繁に使う。
だいたい物の状態を表す動詞や形容詞は、心の状態を表す言葉として使えるが、
ここで注意しなければならないのは、あくまでも借り物であるということである。

心(あるいは社会)の状態と物の状態は完全に一致しているわけではない。
物の状態を表しているときには通用することでも、心にも通用するとは限らない。
あくまでも一致している部分だけを借りて使用しているのである。
それを全部一致していると勘違いして使用すると、
大きな間違いを犯してしまうので注意が必要である。

一つ例を挙げれば、先に「会議が流れる」をさらに「心が流れる」とも使ったが、
これなどはちょっと危険な使い方になる可能性がある。


この記事は2006年6月3日に投稿したものを加筆・訂正して再投稿したものである。



新、心の構造Ⅴへつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1421.html

新、心の構造 Ⅲ

「心」の働きは非常に複雑で、
その構造を捉えるのは難しいが、
幾つかの種類にまず分けることから始める。

心の種類として何があるかは「心の構造Ⅱ」で述べたように
心が現れている用言に何があるか調査すれば分る。

調査の結果、心の種類として、事実判断、価値判断、感情、
懸け、信疑、自我、欲望、祈り、の八つが確認できた。

ここで「信疑」というのは「信じる」と「疑う」の
二つを一緒にした私の造語である。

「祈り」というのは人間を超える何者かに対して、
何かの実現を願うような心のありようで、
神や仏に対する敬虔な気持ちもそれである。

八つの心の一つ一つについて、次に検討する。
それらの代表的な用言を挙げると、

1、事実判断としては「正しい」「間違い」「等しい」「異なる」などの用言がある。
2、価値判断としては「良い」「悪い」「好き」「嫌い」などの用言がある。
3、感情としては「おいしい」「まずい」「怖い」「悲しい」「寂しい」「苦しい」
  「惜しむ」「怒る」「憎い」「喜ぶ」「楽しい」「驚く」「痛い」「暑い」「美しい」
など他にも沢山あると思う。
4、信疑としては「信ずる」「疑う」などの用言がある。
5、懸けは「困る」「悩む」「迷う」などという心の状態から
  脱却しようとするときの一つの心のあり方で「賭ける」などの用言がある。
6、欲望としては「欲しい」「望む」などの用言がある。
7、自我としては「誇る」「ぐれる」「恥じる」「照れる」などという用言がある。
8、祈りとしては「願う」「祈る」「念ずる」「崇める」などという用言がある。

以上8つが心の主な働きである。

ここにあげた用言は心の状態を表すもので、
現実にそういう心の状態であっても、
心の状態をいちいち伝える必要がないときは、
ここにあげた用言でその心を表現されるとは限らない。

他にも用言としては動作を表す動詞がたくさんあるが、
実はこれらの動詞が心の状態を表す言葉として 流用されることもあるのだ。



新、心の構造Ⅳ↓へつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1418.html

新、心の構造 Ⅰ

世界を分解してその個々の関係を世界の構造として構築したが、
その中の「心」について、さらに細かく分けてその構造を探りたい。

「私の哲学の方法(出発点)」↓で、
問題を解くために人間に「どんな機能が与えられているか」
それが哲学する上での出発点だと述べた。

そこで「心」を分析するための出発点として、
心が表に現れる「言葉」を心のモデルとして捉え、
言葉の中から「心」の状態を表す単語(用言)を抜き出し、
それを分類し分析して「心」の構造をさぐる予定である。

言葉についての科学としては言語学があるが、
かなり広範囲に対象が広がっており、
その中の意味論や文法論は参考にできると思う。

従来から「心」の構造を研究する科学としては心理学がある。
しかし、それは「自分」の「心」ではなく他人の「心」を対象とする科学である。
他に脳科学や神経科学というのもあるが、
それも他人の「心」が対象で「自分」の「心」ではないのである。

したがって、それらはこれから分析しようとしている
「自分」の「心」の構造をさぐるための出発点とはなりにくいのである。
フロイトに代表される精神分析学というのもあるが、
ここで私が出発点とするのはさらに前段階のものである。


新、心の構造Ⅱ↓へつづく、
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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