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年寄りはつらいよ ⒕

最近書いた記事「目的Ⅰ」で私はバカ扱いされてます。
どれだけ「バカ」と言われたか数えてはいませんが、

それに輪をかけて、私の携帯電話が、
メールを着信するする度に、あほ、あほ、あほ、というのです。

私はバカには違いはありませんが、
これだけバカ、あほ、と言われると「バカ」にならんといかんのかと思ってきます。
これも年のせいですかね。
とりあえずは、ヤフーさんに聞いてもらいますかね。

年寄りはつらいよ。
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笑わなくても幸せは来る

障害者殺傷事件に思う事

奇しくも一年前の今日、こんな記事を書いています。

価値観には二種類ある。
その一つは制度としての価値観で、
法律とか就業規則とか会則とか、
特定の集団の秩序を維持するための制度です。

もう一つの価値観は、個人の価値観で、
それぞれの個人の個性を形成するもので、
当然ながら個人によって価値観は異なります。

少し具体的に考えてみます。
例えば、果物でもリンゴが好きな人もあれば
ミカンの好きな人もあります。ナシの好きな人あります。

スポーツでも野球の好きな人もあれば
サッカーの好きな人もあります。
もともとスポーツは苦手という人もあれば
見るだけなら好きと言う人もあります。

その他、これらの個人の価値観は
どれが正しくてどれが間違っているというものではなく、
どれも有り得る価値観です。


この個人の価値観と法律などの制度としての価値観は
必ずしも一致はしないものです。

人をコロしたいという人もあるのですから、
それを許しては社会は混乱し、秩序は維持できなくなります。
この社会で生活したいのなら、まずは法律を守らなくてはなりません。
これは個人の価値観より優先しなければならないものです。
だから必ずしも自分の価値観が通るとは限らないのです。

個人の価値観は尊重されなければなりませんが、
その社会に帰属したいのなら少なくとも法律は守らなくてはならないし
その会社で仕事したいのなら、就業規則は守らなくてはなりません。
「自分に正直」がいつでも良いとは限らないのです。



こんな記事でしたが、今問題になっている障害者殺傷事件は、
この価値観には二種類あり、自分の価値観が社会の価値観と合わないときは
社会の価値観を優先して、自分の価値観は抑えなければならないということが
社会として広く知られていないのです。もっと啓蒙活動が必要と思います。
もう一度言いますが「自分に正直」ではだめなのです。

「権利」というものはもともとない

憲法、それを基に作られた法律には「権利」という言葉がよく出てきます。
人間は欲望の塊りのようなもので、放っておくと際限なく欲を満たそうとします。
社会はその人間の集まりで、その中で欲を満たそうとすると他の人と衝突します。
その争いに勝ったものは潤い、負けたものは泣かなければならないのですが、
そのまま進むと貧富の差が生まれて、さらにその差も広がってきます。

その差が大きくなりすぎますと、貧しい側の抵抗も出てきて争いになり、
それを応援する偉いお方が「権利」という言葉を弱い者を擁護する言葉として使ったのです。
最初から、例えば神が与えたものとしてあったのでもなければ、
社会を客観的に観察して見えて来たものでもないのです。
生物学的に動物の世界を眺めてみても、どこからも「権利」などというものは出てこないのです。


これは人間だけではありませんが欲望とともに、社会性というものもあります。
自分一人では社会は成り立たないし、自分の仲間だけでも成り立ちません。
いろいろの人がいて、いろいろの役割を担って社会は成り立っています。
それらが協力してこそ良い社会なのです。

自分は裕福でも一方で貧しい人がいるというのは、自分として心苦しいとか、
その貧しさの心が見えてくると、その貧しさも共有して「好意」が生まれ、
欲望とは関係なく、援助するという行為が生まれます。
援助を受けた側は、その行為に「感謝」して社会は共存するものです。

そこへ「権利」という言葉を導入すると、
それが独り歩きして、社会がギクシャクしてくるように思います。
民主主義が浸透して、それほどヒドイ格差が少なくなってきている現在、
「権利」という言葉の位置づけもやり直す必要があるのではないでしょうか。

戦争の原因

戦争は悪でしょうし、平和は善でしょう。
その論法で行けば、戦争をする人は悪人で、平和を訴える人は善人です。

フセインが指導者だったころのイラクは一応国内は平和でした。善でした。
そこへアメリカが「化学兵器を隠している」と言って戦争を始めました。
国内は悪に変わりました。

結果的には化学兵器は見つかりませんでしたが、
フセインの政治は対立する民族の片方に偏ったもので、
相手方からは歓迎されてなかったようです。その意味では悪でした。

イラク戦争が終わって後、アラブ諸国で「アラブの春」と呼ばれた政変が起こり、
これまでの指導者が沢山追放されましたが、
これまで平和だった国が指導者を失って混乱状態(戦争状態)になりました。


戦争は悪で、平和を守ろうとすることは善であっても、
その平和が悪政による別の意味で悪だったりするのです。
そしてその悪政を崩すために戦争を仕掛けることもあります。

だから、この場合の戦争は悪を倒すものであり善になります。
何んか矛盾していませんかね。

よく「戦争反対」というスローガンのもとに
大きな力を結集して圧力をかける行動を見かけますが、
あれでは「戦争反対」にはならないと思う事があります。


ここで例にした「戦争」とか「政策」とかは一つの価値観で
その時代、その地域、その民族、その宗教その他で異なるものですが、
この記事では仮に善悪を決め付けて進めてきました。

規則を破ることの意味

万引きを防ぐには「それは悪いこと」と
しっかり教えることだと
コメントを以前に頂いたことがあります。

その時、万引きする人のほとんどは
「それは悪いこと」と知っている。
そういう人の多くは学校や勤務先や家庭やその他、
社会に対して不満を持っている人で、
その社会の規則を破ることに意味があるのでは、
と私は答えました。

万引きに限りませんが、
ちょっと常識では通用しないようなことをする人があります。
「ゴミ屋敷」もそうですし「暴走族」もそうです。
「放火をする」のもそうでしょうね。

社会に不満ある人、いろいろあるでしょうけど、
孤独な人が多いように思います。
社会から一人前に扱われない、
だから卑屈になり、そのイライラを「規則を破る」ことで
発散しているように思うのです。

どう思われますか。

法律か人間か、知識か事実か

今日、テレビで戸籍のない人の話が出ていました。
結論から言えば、法律を守った役所のせいで、
戸籍がつくれなかったためにその人の人生が狂ってしまったのです。
役所にとっては人間より法律の方が大事なんですね。

だいたい法律というのは国民、つまり人間の幸福のためにあるもので、
役所が仕事しやすいようにあるのではないのです。
多少面倒でも、ときには法律を曲げてでも国民のためになる方を採るべきです。


これは法律に限ったことではなぃのです。
例えば偉い先生が書かれたものとか、新聞に書いてあったこととか、
テレビが言ってたこととか、その他、これまでの常識になっていることとか、
そういうものでも、時代の変化や宗教や民族の違いで通用しなくなることもあるのです。

法律でどうかとか、偉い人はどう言っているかとか、
とりあえずは、そういうものを基準に考えても、
最後は、自分の感覚と違うとか、事実と違うとか、
そういうときにはその基準は捨てる方がよいこともあるのです。

いつでも自分の感覚が良いとか正しいと言っているのではなく、
そういう目も必要だと言いたいのです。


私はあまり書物に拘らないようにしています。
なんて、本当はそういうものを読むのが面倒なんです。






表現の自由について

「表現の自由」という時の「自由」は
絶対的なものではないことは当然です。
もちろん、法律は守らなくてはならないのです。

「表現の自由」という言葉をよく耳にするのは
マスコミ関係の方々からで、
マスコミは「表現」することが仕事みたいなものですから
神経質になるのは分かります。

しかし、マスコミだからと特別の「自由」があると思われているとしたら
それは大きな間違いです。
むしろ影響力の大きいマスコミだからこそ
より一層の注意が必要ではないでしょうか。


マスコミごとに法律とは別に、
例えば「放送禁止用語」のような制限はあるようですが、
軽い娯楽番組などではちょっとどうかと思われるような発言がよくあります。

出場者やその番組の関係者に対するものであって、
視聴者全体に向かっての発言でなくても、
その価値観には賛成ができず、不快感をもつ視聴者もいます。

それは発言者個人の価値観であって、
そうではない価値観の人もいるわけですから、
公共の電波に乗せるというのはどうでしょうか。

それを電波に乗せるのであれば、
そうでない価値観も乗せるべきです。
みなさん、どう思われますか。

私は「良いこと」は言わない

私はよくウチのカミさんに
「ブログでは良いことばかり言ってるけど現実と大違いだ」と言われます。
ブログのコメントでも同じようなことを言われたことがあります。

確かに、「こうありたい」と言う思いも込めて書いていますので、
現実とは違ったところは多々ありますが、
もう一つ言えることは、私の記事はそれほど「良いこと」は書いてないことです。

私が「良いこと」と思うのは、人に親切にするとか、迷惑をかけないとか、
人の物は盗まないとか、その他人に直接利益をもたらすこととか、
人に不利益をもたらさないこととかが「良いこと」なんです。

しかし、
人間は「良いこと」をしようと思っていたとしても
現実はそうはできないこともあり得るため、「悪いこと」をしてしまう。
私が記事に書くのは、それを防ぐためのいろいろの方策とか、
自分がそうならないための心構えなどについて書くことが多いです。

それから、「良い」とは何かとか、
見る角度によっは「悪いこと」がよいことにもなることとか、
そんなへそ曲がりな記事を書いたりもしています。

それらもある意味では「良いこと」ではありますが、
どちらかと言うと学問的というか教育的立場の記述です。
お間違えのないようにお願いします。

イジメと個性 パートⅡ

前の記事で「個性の尊重」と一口に書きましたが、
これがなかなか理解するのが難しいのです。
いろいろの個性があってそれを認めるといいながら、
それを理解しようとしている自分は別なんですね。
その自分を基準にしてそれぞれの個性を位置づけするのです。

イジメられる子供を理解するにも、同じ個性の大人が理解するのと、
イジメる側の個性と同じ大人が理解するのとでは結論は違います。
イジメる側の個性の大人は「もっと強くなるように指導すべき」となりますが、
イジメられる子供と同じ個性の大人は「イジメる子供を指導すべき」となります。

そうではなくて、
どんな人間にも存在する意味があることを前提にして考えることです。
どちらかが悪くて、悪いほうが改めるのではなく、
互いに認め合い、そのいいところを出し合って、
一つのコミニティーを作ることができれば最高ですね。

ただ、子供にそこまで求めるのは難しいでしょうから、
そこは大人が導いて友達やグループのあり方を教えていければと思います。
そのためには、大人が「個性の尊重」の意味を知らなければならないでしょうね。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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