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作るのが好き、壊すのが好き、

先日テレビで、子供が積み木遊びをしている映像が出ていた。
たいていの子供は、積み木を少しでも高く積み上げようとして、
みんなで協力して積み上げていた。

ところが、ある程度積みあがった積み木を、
壊して回る子供がいるのです。
そしてまた、最初から積み始めます。

これは多分、遊びとして子供に与えられていたものと思いますが、
遊び方はいろいろです。

教えるという立場からすると、協力して積み上げることに力を入れそうですが、
壊すという行為は、既成概念を壊してとらわれないで進むためには必要なことです。
それに遊びという視点からみたとき、どちらも必要な要素です。

子供たちの個性が見える場でもあり、
自分の置かれている立場や、どうしたら面白くなるかなど、
いろいろ別の視点で考える場でもありますね。

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落ちこぼれを作らない Ⅱ

先の「落ちこぼれを作らない」で
もっと、教育の思い切った改革が必要と書きました。

今の教育は一律に「これだけは必要」と決めて、
みんなその方針に乗せようとします。

例えば、現代のように国際化した社会では
外国語の能力の向上が必要であるという判断で
英語の教育に力を入れるのはいいとしても、
それをすべての生徒に強制するのはどうかと思います。

英語なんて一生使わなくても生活できる人もありますし、
それでも立派な仕事をしている人も沢山います。

私は頭ごなしに覚えるしかないような英語とか歴史が大嫌いで、
大学を卒業するまで、英語はカンニングで通ってきました。

全ての人が英語を学ばないといけないのでしょうか。
全ての人が数学を学ばないといけないのでしょうか。
英語ができない人がいても国が傾くことはないと思いますし、
数学はできなくても算数が出来れば十分という場合も多いです。


その生徒のいいところを伸ばすことを第一に
教育することを主眼にし、できない科目があっても、
他の科目でそれを補うことができるようなシステムにして
卒業するときには自分に自信を持てる、
そんな生徒にすることを目標にすることが
犯罪を減らすことにつながると思います。

落ちこぼれを作らない

もう随分前になりますが、ブログでこんなお客さんがいました。
教育のあり方に関する記事でしたが、
今の教育のあり方に疑問を感じると書いたものにです。

私はその疑問は、落ちこぼれを作ってしまうためと書いたのですが、
それに対して「私は落ちこぼれることなく
上手く行っているので今の教育でいい」というご意見でした。

この人の考え方は「自分がいいからそれでいい」です。
落ちこぼれる人が増えると犯罪も増えてきますが、
そうなると自分の生活空間も住み心地が悪くなることが
考えには入っていませんね。

教育を考えるお役人も似たようなお考えのようで、
落ちこぼれるのは自分の努力が足りないからで、
それによる社会の不安定は別問題と言いたいようです。


私はいつも言っていますが、人間はいろいろの個性の人があって、
今の教育が合わない個性の人もあるのです。
それを考慮せずに一律に同じことを教えようとするから
落ちこぼれる生徒が出てきます。

選択科目などもありますが、そんな小さなことではなく、
思い切った改革が必要と思います。
もっといろいろの進路があっていいと思います。


「落ちこぼれを作らないⅡ」も読んでみてください。

凡人の考え方 Ⅱ

「凡人の考え方Ⅰ」を書いてから大分時間が経ちました。
もう、前の記事を忘れた方もあると思います。
という前に私が忘れてしまってました。

「具体的な内容なら凡人でも日常経験していることであり、
学者先生などとも話はできます。
時には学者先生とも対等に話ができます。」
こんな文章で前回は終わってました。何か偉そうなことを言ってます。

学者先生はその専門分野のことは、
それはそれはよくご存じで、凡人の出る幕はありません。
専門の分野は狭くてもその奥深くまでご存じで、
もう、その方でなければ分からないことが沢山あります。

凡人はと言えば、日常生活の中にあるものを
カジリ見聞きした広い範囲の浅い知識しかありません。
とても学者先生にはかないません。

科学というのはそれぞれの分野でその対象の位置づけがされていて、
しかも、何を科学するかも固定している。
つまり、凡人が日常接しているそれとは違った角度、
というかその捉え方が決まっています。

それはいいとして、
その科学の基準を日常にまで押し付けようとする傾向があり、
ときに日常を「間違い」とまで言ってきます。

科学的な考え方が日常に入り込むのは致し方ないし、
科学的な基準がいい場合もあります。
しかし、いつでも「科学的」が良いとは限らない、
そんな具体例もたくさんありますね。

教育のあり方

生まれてこの方、ずっと死ぬまで
感覚器官で外界を捉え続けています。
それらは経験として脳に蓄積され知識として
これからの生きかたの判断の土台になります。

この点はほとんどの人に共通のことなので
学者の先生方や会社の社長やその他とんなに偉い人でも
グレた兄ちゃんでもお寺の坊さんでも変わりはありません。

違うところは、親から引き継いだ遺伝子と
その後の勉強で得た知識の量と種類です。


学校というところは、
大部分は先生の話や本に書かれた文章から知識を学びますが、

学んだことをそのまま自分のものにするか、
その話や文章を自分の経験に照らして自分のものするか、
その生徒の個性で異なります。

また、言葉で学ぶのが苦手な生徒もいます。
私のように興味もないのに無理に記憶するというのが苦手な人や
論理的に考えるのが苦手な人もいます。

そういう人にとっては言葉で学ぶことが苦痛なのです。
それより、五感で捉えて感覚で理解する方が得意なのです。
そういう生徒にはこれまでの教育方法は通じません。

それぞれの生徒の個性や興味に合わせて
いろいろの教え方・内容があっていいと思います。
とりあえず、形にこだわってそこからはみ出すことを拒む、
そういう従来の教育方法は、
それに合っている生徒にはいいかもしれませんが、
合っていない生徒には悲劇です。

もう少し、柔軟でいいのではないでしょうか。

大学入試改革について

今、大学入試改革についての議論が盛んにされていますが、
大学に限らず、また入試に限らず、
これまでにも教育の改革がなされてきました。
その度に、教育のあるべき姿について議論されるわけですが、

それはいつもあるべき一つの教育方法を目指すもので、
これまでの教育方法の欠点を改善し、
時代に合ったものに改革しようとするわけです。

例えば、今回の大学入試改革は、知識偏重から人物本位に改革しようとしています。
しかし、このように国として一つの基準に統一することが問題のように思います。
なぜなら、人間の個性(性格)というのは一種類ではないからです。
全国の大学をすべて同じにしてしまうなんてばかげています。

いろいろの個性の大学があってもいいのです。
確かに知識偏重では学者タイプの人間ばかりになりますが、
世の中には学者も必要なんです。

ですからこれまで通りの大学もあっていいし、
人間性を重視した大学もあっていいし、
その他いろいろの組み合わせもあり得ます。

あまり細かいところまで国が口出しせずに、
もっと大学の自由に任せていいのではないでしょうか。
これは入学試験だけでなく、教える内容やその方法などもです。
そうすれば、受ける側の選択肢も広くなるし、自分の個性も生かせます。

例えば、時代の変化に合わせて英語の教育に力を入れるにしても、
すべてにそれを適用するのはどうかと思います。
一生懸命に勉強しても、社会に出てそれを一度も使わない、
なんてことが多々あります。

ゆとり教育か脱ゆとり教育か

今朝、NHKで「ゆとり教育」の話をしていました。
詰め込み教育の弊害をなくすために「ゆとり教育」になったけれども、
今度は成績が落ちてきて、外国との競争にも負けてしまうというのです。

そこでどういう教育の方法(ゆとりか脱ゆとりか)が良いかの話しでしたが、
私が思うには、どんな方法を取っても、何らかの問題は出てくると思います。

生徒一人一人異なった個性を持っているし、頭脳の程度も差があります。
これら全ての生徒が満足できる方法なんて有り得ないのではないでしょうか。


最低限基本的な事は全員に教えるとして、
後は個性に合わせて違った教育をすけばいいのではないでしょうか。

数学の得意な生徒にはどんどん難しい内容の数学を教えたらいいし、
地理の好きな生徒には都道府県の位置関係や県庁の所在地も教えたらいいのです。
外国との交流・仕事がしたいという生徒なら英語を教える。

また、学校で教える内容だけでは勉強時間が少ないと思うなら、
そういう生徒は塾に行けばいいのです。

とりあえず、社会に出て必要とは限らない教科は選択にして、
それぞれの生徒の好みで選ぶことができるようにするのです。
そうすればどういう教育をするかなんて悩むことはないのではないでしょうか。

後は教える方法つまり技術的な問題だけですね。

「いじめ」について

最近また「いじめ」についてのニュースが増えてきましたね。
以前に、いじめについてあるブロ友さんと議論したことがありましたが、
そのとき私は「いじめられる側にも問題がある」と言ってました。

今回の大津の中学生の自殺についても、
担任の教師が「弱いからいじめられる」というようなことを言ってたようですし、
また、「いじめ」と「遊び」の区別が難しいという話もでています。

しかし、それは間違いであることに気づきました。
人はそれぞれ個性があると常々言ってますが、
いじめられやすい子供もそれが個性なのではないかと思います。

学校にしても社会にしても、人のあり方を多数派で決めてしまいます。
その多数から外れたものは異常、とまでは言わなくても「変わり者」なんですね。
そして学校や家庭などでは「変わり者」は改めるものとして扱います。


「変わり者」と言えば私などもその仲間ですが、
「変わり者」は欠点でもありますが、長所でもあると思っています。
学校でも欠点として扱うのではなく、長所を伸ばす方に力を入れることです。

お互いに合わない個性というのは、にらみ合うのではなくて認め合うことです。
それは個性で欠点ではないことを教えるべきです。
自分が絶対ではないこと、つまり合わない相手も尊重しなければならないことを教えてほしいですね。

欠点は改めるべきと考えがちですが、自分をみていて分かりますが、
持って生まれた性格というものは、そう簡単に改まるものでもありません。
一生悩みながら長い時間をかけて直すのがやっとです。

「強くなりなさい」では治らないことを先生方も分かってほしいものです。

個人と社会

子供のころは、よく大人の人から「何になりたい」なんて尋ねられたものです。
親からも聞かれるし、学校の先生もそんな質問をしますね。
そして答えるのが男の子なら「野球の選手」とか「電車の運転手」とか、
もう少し年齢が高くなると「医師」とか「消防士」とか答えます。

すべて自分の好きなことか、世間からカッコよく思われるものです。
そしてその好きなことやカッコいいことを自分が直接する仕事ですね。

しかし、世の中にそんなに直接かかわれるカッコいい仕事があるわけではありません。
たいていは会社として、あるいは社会として一つのことをすることが多いです。
つまり、分業することによって効率よく仕事をする仕組みになっているのですね。

直接でなくても間接的にその仕事を助けることも必要です。
そういう助けがあってこそその仕事が成り立っているのですから、
直接であることにそれほどこだわる必要はないようです。


人の個性は、直接かかわる仕事の内容にも一致不一致がありますが、
間接的仕事にも個性の一致不一致があります。
事務の仕事、営業の仕事、運搬の仕事、研究の仕事、その他いろいろ。
こうした分業社会でも、自分の個性に合った職種を選ぶことは可能です。

それから偉人の伝記などで、その偉人の業績が称えられていますが、
その業績の影には多くのそれを助けた人があるものです。
偉人は社会の代表であって、その業績は社会のものです。

個人の名声を得るためではなく、社会として成し遂げるという考え方が必要です。
教育もそういう方向に向かわないと、
個人(個性)と社会のミスマッチを無くすことはできないでしょう。

就活のときにどこを選んでよいか分からないとか、
仕事はお金のためだけ、なんて考え方も少しはなくなるのではないでしょうか

出発点をそろえよう

物事を評価・批判するときは出発点をそろえることですね。
よく結果を見てから批判する人がありますが、(私もその傾向がありますが)、
それは出発点が違いますね。

人間は「少しでも良くしたい」という気持ちで未来を見て生きています。
悪い点を見つけてそれを改善しようとします。

ある人(Aさん)が何か悪い点を見つけて改善したとします。
それを見てある人(Bさん)が、まだ悪い点があると、
「これこれが足りないね」と批判しました。

この二人は出発点が違いますね。
最初のAさんは「悪い点」を見つけたときと、
後のBさんが「悪い点」を発見したときとは、時間的にズレがあります。

先にも言いましたように、人間は「悪い点を見つけてそれを改善しようとします」から
当然ながら悪い点を探します。
ですからBさんはAさんの改善した「良い点」は見ないで「悪い点」を探します。


これでは物事の正確な評価にはなりませんね。
評価するときは「良い点」も「悪い点」も見なければなりません。
そのためには出発点をそろえる必要があります。
そうしたら「良い点」も見えてきます。

「悪い点」を見つけるのは改善する目標をみつけられます。
一方「良い点」を見つけることは励みになり、また頑張る原動力になります。

「良い点」も見つけるように心がけたいですね。

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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