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「汝の敵を愛せよ」は間違い

「汝の敵を愛せよ」は間違いです。
だいたい相手を「敵」と言ってる時点で矛盾してます。
だから一般の人には受けないのです。

キリスト教的な言い方をすれば、
神の前にはすべての人は「罪人」なのです。
一般庶民的な言い方をすれば、
人間なんてたいして変わりはしない、なんです。

私は、人を敵と味方に分けて考えたくはないのです。
それぞれにそれぞれの立場があると思います。
「汝の敵を愛せよ」を言葉通りに受け取るべきでないと思います。

その点ニーチェの
  「軽蔑すべき者を敵として選ぶな。
  汝の敵について誇りを感じなければならない。」
の方がまだ理解しやすいですね。
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「信じる」とは Ⅵ

「信じる」という言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのは
「神」の存在についてである。
「神は存在すると信じますか」と聞かれて「信じる」と答えても、
その答えの根拠となっている理由は一つではないと思う。

①「この宇宙のどこかに存在する」とか
②「私の心の中に神がいる」とか
③「どこか特定できなくても、この世界のどこかにいる」とか
④「この不思議な世界が神なしにはありえない」とか
いろいろの理由があると思う。

①とか③は軽い気持ちで「神はいる」と言っている感じであるが、
④になるともう少し「神がいる」と判断する根拠が示されて
①③よりは強い主張がなされている。

しかし、これら上の主張は事実に基づくものではなく、
「多分いるのではないか」という推測の部分が大きい。
ところが②の主張は自分の心の中に神がいることを確認して、
その「事実」を述べているものである。

①③④は神の存在を「信じている」状態ですが、
しかし②は、神に対してはもう「信じる」ではなく、
神は自分の中にあるのだから、「確信」である。

もう「信じる」を通り越して「祈る」という言葉が当てはまる状態である。
「信じるとはⅡ」で述べた「心を預けている」状態である。
ここまで言うのは飛躍しすぎであるが、
次の「なぜ生きる」を読むと分かるのではないだろうか。

「信じる」とは Ⅱ

この記事は2005/8/8に投稿したものを転用して投稿したもので、
これが「信じる」ということの本来の意味と思っている。


ジェットコースターに乗るのは非常に勇気がいるが、
一般的に男は女より勇気があるように思われている。

しかし、ジェットコースターに乗ってキャーキャー騒いでいるのは、
女性が多いように思いうのだが、どうしてだろうか。

私もジェットコースターに乗ったことがある。恐くないわけがない。
必死で足を踏ん張り、腕で体勢を立て直そうとするのだが、どうにもならない。

ジェットコースターは自分で何とかできるものではないのだ。
ジェットコースターを「信じて」身を任せるしかないのである。

女性はジェットコースターの性能を信じて身を任すことができるから
ジェットコースターを楽しむことができるのである。

性能を信ずることができるということは、
ジェットコースターを設計した人、製作した人、
また運転する人を信じているということである。


同じことが車の運転などでも言える。
他人の運転する車に乗せてもらって恐くて足を踏ん張り、
手に汗を握ったという経験のある人もあると思う。

自分の運転に多少なりとも自信があると、
他人の運転に身を任すことができなくなるのである。

その点、運転免許のない人はそういう経験は少ないと思う。
特に子供などは運転してくれる人を信じて、
全く不安を感ずることなく身を任せている。

何もこれは女性に限ったことではなく、男でも同じことで、
他を信じて身を任すと不安が少なくなる。


自分に自信があればあるほど他人が信じられなくなる。
自分に自信があると自分の力で何とかしようとしてしまう。

そしてそれが上手くいかなくなったとき、
何とかしようと苦しまなければならないのも自分である。
そんなとき、ジェットコースターを信じるときのように、
成り行きに身を任せてみると苦しみはきっと軽くなると思う。
「信じる」ことには身を任せる受け身的意味があるのである。

 

「信じる」とはⅢ↓へつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1180.html

「信じる」とは Ⅰ

日本語としての「信じる」という言葉はいくつもの意味がある。
例えば、広辞苑で「信じる」の意味を引くと
「そのことを本当だと思う。疑わずに、そうだと思い込む」とある。

以前に、やはり「信ずる」ということについて書いた記事で
この広辞苑の意味は間違いと書いた記憶があるが、
「本当だと思う」という言い方だと自分で判断したと解釈できるし
「思い込む」という言い方では、自分の強い意志を感じてしまう。

「信じる」にそうした強い意志があるかどうかと言うと、
私は逆で、もっと意思を和らげるものを感じるのである。

しかし、少し角度を変えてみてみると、
「思い込む」という行為は自分の力で納得するというより、
「納得」という行為を飛び越えた行為にも思える。
これは本来の「信じる」に通じるものだとも私は思う。


言葉というのは生き物で、絶えず変化するもので、
どれが本来の意味かなんて考えることには問題があるが、
もともとの意味を知った上で使うと深い意味が見えてくると思う。

この「「信じる」とは」シリーズでは
本来の「信じる」とそこから派生した「信じる」について
類似点と相違点を明確にしたいのである。



「信じる」とはⅡ↓へつづく、

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1180.html

何もかも捨ててしまっていい。でも命だけは捨てるな。

何もかも捨ててしまっていい。
でも、命だけは捨てるな。

何とかなるものだ。

良寛さんの話

人は、自分の思いを受け止めてくれる人に心を開きます。 

  人間関係の基本は、こんなところに隠れていることが多い

  ものです。

全ては相対的にある

赤い色は赤でない色があって初めて存在します。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/65238314.html

寒い冬の後の春は暖かいし、
同じ気温でも暑い夏の後の秋は涼しいです。

美味しい料理もいつも同じなら美味しくなくなります。
いつもは不味いと思っているものも空腹時には美味しいものです。

幸せは不幸せと比較して「幸せ」なのです。
貧乏は裕福と比較するから「貧乏」なのです。

砂ぼこりをかぶっても白いカッターシャツは黒くなりますが、
黒いスーツは白くなります。

何もない状態は何かがあることで「無い」が生まれます。
何かがあるためにはそれを取り巻く空間が必要です。

マイナス電荷の電子にもプラス電荷の電子があり、
この二つは相対的に存在して、二つが衝突すると消滅します。
また、無からマイナスとプラスの電子が対で生まれます。

原子核も同じで通常はプラスの電荷を持っていますが、
マイナスの電荷のものもあり、衝突すると消滅します。

すべてこの世界のものは相対的に存在するもので、
いずれ消え去るものです。

すべては諸行無常です。

厄払いも時には必要

はっきり言って訳の分からないブロガーさん(ごめん)なのですが、
最近書かれた記事の中にこんな文章がありました。

「厄払いは信じていない人は行かなくてもいいんだよ」

この文はお父さんの言葉のようですが、
「信じる」ということの本質を表しています。

「厄年」を信じないひとは厄払いは必要ないと思うのは当然です。
「厄払い」って何を払うのと、ないものを払う必要はないのです。

しかし、「厄年」信じている人、信じるまでではなくても不安に思う人は
厄払いするもの「厄年」があるのですから、厄払いは必要なんですね。


これは本当の信仰とは少し違いますが、通じるところはあります。
無意味と思う人には必要はありませんが、
それで心が安らぐのであれば意味のあることになりますね。

心が広い

「悟ったようなことを言っていてはダメ」と
最近、よく言われるのですが、
私は悟っているつもりはないのです。

許容できる範囲が広いだけで、
許して受け入れているのとは少し違います。

「許容」という字から判断すると同じように見えますが、
許しているつもりはないのです。

「許す」というのは言わば上から目線で、
本来ならダメだけれども、大目に見るという態度です。

そうではなくて、自分の悪いところが見えてくると、
相手の良いところが見えてきて、ウラヤマシクなってくるのです。
相手のちっょと意外な言動も、
「そういう手があったか」と学びに変わります。

自分の欠点と同じ相手だったら、
お皿に付いた異物でも自分がいつもしているように、
ティッシュで拭いて使うことができます。
ウチのカミさんは店員さんにお皿を変えてもらいますが、
それより簡単です。ズボラな私には。

「心が広い」なんてカッコいいこと言ってますが、
要するにズボラなんです。

「信じる」とは

ジェットコースターに乗るのは非常に勇気がいります。
一般的に男は女より勇気があるように思われていますが、
ジェットコースターに乗ってキャーキャー騒いでいるのは、
女性が多いのはどうしてでしょうか。

私もジェットコースターに乗ったことがありますが、
恐くないわけがありません。必死で足を踏ん張り
腕で体勢を立て直そうとするのですが、どうにもなりません。
ジェットコースターは自分で何とかできるものではありません。
ジェットコースターを信じて身を任せるしかないのです。

女性はジェットコースターの性能を信じて身を任すことができるから
ジェットコースターを楽しむことができるのです。
性能を信ずることができるということは、
ジェットコースターを設計した人、製作した人、
また運転する人を信じているということです。

同じことが車の運転などでも言えます。
他人の運転する車に乗せてもらって恐くて足を踏ん張り、
手に汗を握ったという経験のある人も多いと思いますが
自分の運転に多少なりとも自信があると、
その運転に身を任すことができなくなります。
その点、運転免許のない人はそういう経験は少ないと思います。
特に子供などは運転してくれる人を信じて、
全く不安を感ずることなく身を任せています。

自分に自信があればあるほど他人が信じられなくなります。
自分に自信があると自分の力で何とかしようとします。
そしてそれが上手くいかなくなったとき、
何とかしようと苦しまなければならないのも自分です。
そんなとき、ジェットコースターを信じるときのように、
成り行きに身を任せてみると苦しみはきっと軽くなると思います。

            この記事は2005/8/8に投稿したものを
            若干訂正して再投稿したものです。
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Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
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