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新しい理論の出番 Ⅰ

最近は言葉の意味を調べるのは、ネットが多くなりました。
私はウィキペディアを使うことが多いのです。
一時はネットの情報は当てにならないと言われていましたが、
最近はかなり内容が充実してきています。

それでもまだ以下のような文章が冒頭にでてきたりして、
「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。」
どういうことなのかと考えてしまいます。

「記事の信頼性向上にご協力ください」ということは、
「参考文献や出典」が示されてないか不十分で信頼性が低いということですね。
信頼性というのは「参考文献や出典」で得られるものなのですかね。
逆に言えば、その記事は参考文献を超えることはないということにならないですか。

経験した事実や発見した事実、それらから推論して出た結論は、
全く価値がないのでしょうか。


ここで問題なのは、こうしたウィキペディアの性格(方向性)です。
これらは辞書的な存在で、現在までの最も信頼できる理論なのだということでしょうか。
となると新しい理論というのは、こうした場には相応しくないということになります。

良い意味に理解するなら、
新しい理論は一般に定着していないためということでしょうか。
定着のしかたにはいろいろあると思いますがね。


新しい理論の出番Ⅱへつづく、
https://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/66704875.html

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貧乏人はつらいよ Ⅱ

二・三日前にテレビで宝くじの話が出ていた。
宝くじの高額当選者が良く出る全国の店で、
十万円ずつ宝くじを二人が買うのであるが、
これ、宝くじを買わなくても二十万円のお金があるわけだ。
さらにそれを全国の人気店でやるのだから、掛ける二十万円になる。

私もたまに宝くじ買うが、最近は買わなくなった。
その理由は宝くじを買うより買わなくてはならないものがあるのだ。
つまり、宝くじを買うお金がないということだ。

以前に「宝くじは夢を買うもの」という記事を書きましたが、
その夢も買えないということだ。

貧乏人はつらいよ。

人類の進歩と調和 Ⅵ

「人類の進歩と調和Ⅰ~Ⅳ」では、
環境が人間の体に与える影響について述べてきたし、
「人類の進歩と調和Ⅴ」では、
環境が人間社会に与える影響のバラツキについて述べた。

ここでは人間社会全体に与える問題を取り上げた。
我々人間に与える影響の大きさという点ではAĪが一番である。
AIというのは電気で動くコンピュータなので、
生き物ではないし、まして人間ではないのである。

はっきり言って「心」はないのである。
「心」は人間が使う時に、多くは功利主義的な基準に偏りがちで、
悪い「心」も、よい「心」も付け加えられる。

だからAĪが伝える情報には、間違っていることもあるし、
嘘も混ざっているのである。
その使われ方も、必ずしも適正とは限らないし、時間とともに変化もする。

そうしたAĪを誰が監視するのか、それが問題である。
その監視もAĪがするというのも有だとは思うが、
最後は人間が握っている必要があると思う。

一般人は「コンピュータだから間違いない」と妄信してしまうが、
その心理を悪用することもできる訳だし、
また、2045年問題すなわちAĪが人間の脳を超えるとか、
AĪに職を奪われるという問題もある。

実際にどういう問題が生じるかは現段階では分からないところもあるが、
そういう可能性への備えは必要と思う。
そういう時に良いアイディアを提供してくれそうなのが、
人類の進歩と調和Ⅴで道具を使わない人とした人たちのように思う。

知識がない人、経済的理由で道具を持っていない人、
仕事柄や居住地の関係でその必要性が低い人、
その人の主義主張で、そういう道具を持たない人、などである。

チェックもAIの力を借りては?

最近、健康診断などでガンの診断漏れが増えている
というニュースが話題になっている。
診断漏れになる理由として、医師や検査技師の多忙による確認漏れや、
検査技師から医師への連絡漏れというのが挙げられている。

検査機器の発達により、検査の速度や精度が上がって
瞬時に沢山のデータが取れるのはありがたいことだが、
それをチェックするのは人間で、それが追い付いてないわけです。

こういうときこそAIが役立つのではないだろうか。
人間と同じように細かいところまでチェックできるか不安ではあるが、
AIに完全を求めるのではなく、補助的な位置に据えて、
最後に人間がチェックするという形で、多忙な医師や検査技師を補助する、
そういう役割がとりあえずのAIの位置づけとすることにしておけば、
「機械でチェックする」という不安はなくなると思う。

年寄りはつらいよ ⒔

車があまりにも汚くて、特に車内が汚いのです。
ウチのカミさんが「洗車してきて。車内も綺麗にしてほしい」というので、
先日、洗車してきたのですが、その洗車の話ではなく、
洗車が終わるまでの間に見ていたスポーツ新聞の話です。

いわゆる見出しというものがないのです。
ドーンと大きな文字で人名が書いてあって、
一言二言コメントが添えてあるのですが、
私のようにスポーツに興味が少ない人間には
まず、何のスポーツの話なのか分からないのです。

スポーツ紙一冊の内、ぱっと見て何のスポーツが分かったのは
二つだけだった。錦織のテニスの話とバトミントンの話だったかだけです。
じっくり読めば分かるのですが、その気にもならないという困った状態でした。

とりあえず、年寄りはつらいよ。

人類の進歩と調和 Ⅴ

人類の進歩と調和Ⅳまでは、人類全体についてのことだったが、
個々の人の問題というのもある。
そしてそれが社会全体に影響してくるとなると、
社会として人類全体として考えなくてはならないことになる。

現在の社会には道具があふれている。
街にもあふれているし、会社にもあふれている。
家に帰っても道具があふれている。

高速道路の入口や出口は予め確認しておかないと迷う。
認知症の人が逆走するのは当然と思えるし、
最近の携帯電話(スマホ)などいろいろのことができて便利であるが、
それだけ使いこなすのには技術 (知識)が必要である。

スマホを使っている家内がときどき
「どうしたらいいか分からない」と言っているが、
結局、息子や娘に教えてもらっているのだ。
私などはそのレベルにも至っていないのである。

道具を使いこなせない理由には幾つかある。
単に知識がないだけではなく、経済的理由で持っていない人、
仕事柄や居住地の関係でその必要性が低い人、
その人の主義主張で、そういう道具を持たない人、
その他いろいろ、持ったり持たなかったりである。

家庭では必要が無くても、仕事先や通勤途中に使うもの、数え挙げたらきりがないが、
私たちはその道具の隙間を通り抜けて生活しているようなものである。

問題なのは、みんな一斉に並んで使うことができないことである。
そのことによる損失や恩恵を受けられない人の救済方法など、
まだまだ問題点はあると思う。


人類の進歩と調和Ⅵにつづく、

ネット検索の現実

何か調べたいことがあるときは、
最近はたいていインターネットで調べます。

しかし、調べると言ってもその内容はいろいろで、
単に言葉の意味が知りたいだけというのから、
その事柄のすべてが知りたいときもあります。

単語の意味だけなら辞書で確認できますが、
全てを知りたいとなれば百科事典のようなものが必要です。

現実のネットではそれらがゴチャ交ぜで処理されており、
冒頭である程度幾つかに分類されていて、その中のどれかを選択して調べます。
しかし、それでもまだ十分ではなく、中々目的のものが出てこないことがあります。

その原因の一つは、辞書としての役割の他に
その背景にある歴史がプラスされていることが多いからです。
特に人文系の学問にそれが多いです。

物理学などでは、過去の歴史上のことは出てきません。
歴史は歴史として別に処理されています。
今現在、それがどう扱われているかそれが知りたいのです。

インターネットの役割は辞書としてだけではなく、
現在の社会の動向を反映したものが求められても当然で、
それらは芸術とかファッションなどの流行に左右される項目も盛り込まれることになります。

価値観というのは人によって判断の異なるもので、この「人による」ところをどう表現するか、
あるいは、受け手の側がそれをどう感じどう処理するかですね。
現実のインターネットはそんなところですが、なんかもっと改善されてもいいように思います。

人は信じられるもの

人の心は見えないので、信じるか信じないかという
厄介な問題が生じてきます。
しかし、凡人は信じています。

例えば、自分が誰か(他人)に
何かを作ってくれるように頼んだとします。
そして数日後に、その何かが出来上がって届けられたとします。

形も色も機能も自分が思っていた通りに出来上がっています。
それは自分が作ったものではありませんが、
自分の心が思っていたものです。

自分の心が思ったものを他人に頼んで作ってもらったのです。
自分と同じ心を持っていると信じて作ってもらったのです。
そう考えないと辻褄が合いません。

つまり、他人の心を直接確認はできませんが、
他人にも心があると「信じる」ことで
日常生活が成り立っています。

人の心は見えないから疑うか、
言葉が伝わり自分の目的を預けられるから信じるか
どちらを取るかです。

人類の進歩と調和 Ⅳ

これまでに、道具の発達と医療の進化で
人類は進歩してきたと言ってきたが、
体が楽になったことで、余暇の利用が多くなり、
その結果、心への影響も考える必要性が出てきている。

これはこれまでにもいろいろの方面から指摘されてきたことであるが、
現実にはあり得ないような映像や、
現実の社会では、法律や社会規範から禁じられていることが、
マンガやゲームやアニメなどで見ることができてしまう現実である。

そのことが、人間の価値判断に悪影響して、
最終的に人間の遺伝子に影響することがあるかもしれない。
「そんなことはあり得ない」と反論できる根拠はみつからないのである。

最近「人を殺してみたい」とか法律を守らないことが、
自分の正直な気持ちに支えられて正当化されている現実は、
先の、あり得ない映像からの影響を感じてしまう。


こうした映像のストーリーにも法律を守ることを義務付けては、
と思いたくなるが、それでは映像が面白くなくなるのであろうか。
人類の未来を考えるか、今の面白さをとるか、
そんな簡単な問題ではないと思いますがどうであろうか。

こうして、体と精神が本来の生きるためのものから、
より楽しむ環境にもさらされて本来持っていた必要なものまで
削ってしまっているのではないかと心配してしまう。

日常の経験が遺伝子レベルにどういう過程で影響するのか、
そのあたりの科学的な解明が必要になってきそうである。



人類の進歩と調和Ⅴへつづく、↓

https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1344.html

人類の進歩と調和 Ⅲ

道具が体の一部として働き、弱った体は医療で補てんする。
そういう社会システムが定着してくると、
体が少しくらいひ弱になって、退化してきていても、
社会全体としてはいい方向に進んでいると勘違いする。

道具や医療に助けられて、人間の寿命はどんどん延びているが、
人間の遺伝子レベルでの進化で考えたとき、
遺伝子異常による病気が増えてきている(これは問題発言)現状は
将来的に人間の身体がどうなるのか不安が出てくる。

その不安を少しでも減らすために、道具や医療になにもかも頼るのではなく、
体を使う作業を残すシステム、すなわち調和のとれたシステムを、
真剣に考える時ではないかと思う。


医療の発達により、これまで知られてなかった病気の発見や、
これまで難病として治療が困難なものが遺伝子医療で治るようになった。
最近、医療に遺伝子という言葉が登場してくるようになった。

この遺伝子というのは、長い間人間には操作が難しいとされてきたもので、
まして、人間の日常生活が遺伝子に影響するなど
考えは浮かんでこないものであった。

ひ弱な人間が増えてきたのは、医療の発達により延命されて増えたのか、
そういう遺伝子を持った人が増えてきているのか、
私には分からないが、これは是非研究してほしいところである。



人類の進歩と調和Ⅳ↓へつづく、

プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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