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価値観を哲学へ Ⅴ

絶対的な価値観はあり得ない。価値観というのは個人の好みだからだ。
なぜそうなのか、それは個人に与えられている欲望には個性があって、
一致した価値観というのは部分的でしかあり得ないからだ。

多分この意見には反対が沢山あると思う。
「人類全体に通用する価値観」「全体でないにしても大体傾向がある」
「国家の憲法にしても、オーケストラの音色、スポーツチームの特徴など」
それらは一つの価値観に統一されたもので、こういう形での価値観はあり得るものである。

だからそれらの価値観の傾向・好き嫌いでグループを作って、
そのあり方を競うというのはあり得ることとは思うが、
そのことが基で争いになり、時には戦争になるというのは、問題がある。

また、個人的には欲望の向かう先が問題で、
人生の戸惑いとなって現れてくるのである。
人生に迷うというのはそうした欲望自体への疑問でもあるのである。

 欲望が苦しみ迷いの原因であるなら、
その欲望を取り除くことで、 相対的な価値を捨て去り、
絶対的な価値を得ようとするのが宗教である。

この世界の価値観は相対的なもので、宗教的に悟れば絶対的世界が見えるという。
しかし、それを体感して悟るという解決方法は哲学ではないのである。
哲学としてはそれで得られる絶対的世界がどんな世界かそれが知りたいのだ。

現実の相対的世界は、生があるから死があり、幸福があるから不幸があるのであり、
それを取り去った後に得られる絶対的世界を知った上で、
それを論理的に語らなくては哲学にはならないのである。

(このあとに「続きを読む」という文がでますが、続きはありません。
FC2のミスです。)

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心と言葉、主な過去記事

心と言葉の広場です。
不思議な「心」です。何が見えるか一緒に考える広場です。
極楽トンビが不思議を捉まえてきます。
以下はこれまでに書いた私の記事の主なものです。

5 心の構造 https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1201.html          
 
道具の位置づけ https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-975.html                   
AI(人工知能)の将来 https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1152.html     

   
人生観と世界観の違い https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-53.html         

人間に何ができるか(改訂版)

「何ができるか」を考える前に、最初から与えられているものがある。
先の記事「人間に何ができるか」でも述べているが、
「本質」を探す場は、すでに与えられているこの世界であり、
この「本質」を探す主体も、好むと好まざるとにかかわらず、
最初から与えられている「自分」なのである。
この与えられている主体が、与えられているもの(対象)に疑問を感じているのである。

だからまずは、その与えられている「それ」を知らなければならない。
それが良いものであろうと悪いものであろうと、本質的であろうと派生的であろうと、
夢であろうと現実であろうと、すべてを知ってそれからの話なのだ。

というより、この与えられている世界に疑問を感じているのだから、
「何ができるか」はこの与えられた世界が何かを問うことでもあるとも言える。
世界を「事実」として認めているから、その中に「本質」が隠れていると思うのである。

世界を分析するために人間に与えられている機能は何かから考えよう。
与えられている機能としては「感覚器官」が最初に思い当たる。
この感覚器官で受け止めた内容を、「心」で受け止め、
その内容に対する「感情」などが喚起されて、次の行動へ連結して行く。

どう行動するかの判断には、
欲望や自我などの親から引き継いだ遺伝情報が関係していると思われるが、
これも与えられている機能と言える。
他に「記憶」する機能があり、その記憶を思い出す機能も備わっている。
それらもすべて自分で選んだのではなく、最初から与えられているものである。

この記事のタイトル「人間に何ができるか」に答えられる前提が整った。
その前提を駆使して世界を探るのである。
で、その探り方であるが、予め与えられている世界を分析するため、
世界を細分して個々の部品を再構成して世界を構造体として捉えるのである。

世界を構造体として捉えることで、システム理論の対象として扱えるようになる。
アリやハチなどの社会性昆虫の営みや、人間の経済活動などを観察していると、
それぞれが自身の意思で勝手に行動しているように見えながら、
全体としてある秩序や均衡が生み出されている。

このように自律的に意思決定する複数の主体が、互いに影響を及ぼしながら、
全体としてある目的を達成する「自律分散システム」として世界を捉えるのである。
以上(長谷部 浩二 筑波大学大学院システム情報工学研究科より)

先に検討した通り、世界を構成する個々の部品には優劣はなく、
どれも世界を構成する部品なのだ。
大切なのは、その部品が世界のどこに位置づけされるかであり、
どういう役割を果たしているかである。

世界をどう分割するか、そしてそれらをどう構成するか、
それはその構造体を何んのために使うかによって異なってくるが、
哲学から分割・独立してきた諸科学もその例外ではないのである。

また、システム理論といっても自律分散システム理論だけではなく、
沢山のものがあり、まだ発展途上のものや議論されている分野もいろいろ、
これからまだまだ変化してくるであろうし、
その可能性も他の分野へ展開するなど期待したいと思う。


人間に何ができるかⅡへつづく、

人間に何ができるか

「哲学とは何か」という問いにひと言で答えるなら、
それはさまざまな物事の「本質」をとらえることだと言うことができる。
上の文は世界観と人生観の区別がなされていない発言と思われるが、
ここでは世界観に限った問いに受け取りたい。

従来の哲学では、この世界に分け入って「本質」となるものを探すのであるが、
そのためにはまずはこの世界を受け入れることが必要である。
でなければ、世界に分け入って「本質」となるものを探すなどあり得ない。
世界を「事実」として認めているから、その中に「本質」が隠れていると判断できるのである。

世界を分析するために人間に与えられている機能は何かを知る必要がある。
与えられている機能としては「感覚器官」が最初に思い当たる。
この感覚器官で受け止めた内容を、「心」で受け止め、
その内容に対する「感情」などが喚起されて、次の行動へ連結して行く。

どう行動するかの判断には、
欲望や自我などの親から引き継いだ遺伝情報が関係していると思われるが、
これも与えられている機能と言える。
他に「記憶」する機能があり、その記憶を思い出す機能も備わっている。
それらもすべて自分で選んだのではなく、最初から与えられているものである。

この記事のタイトル「人間に世界の何が分かるか」に答えられるための前提が整った。
その前提を駆使して世界を探るのである。
で、その探り方であるが、予め与えられている世界を分析するため、
世界を細分して個々の部品を再構成して世界を構造体として捉える。

世界を構造体として捉えることで、システム理論の対象として扱えるようになる。
アリやハチなどの社会性昆虫の営みや、人間の経済活動などを観察していると、
それぞれが自身の意思で勝手に行動しているように見えながら、
全体としてある秩序や均衡が生み出されている。

このように自律的に意思決定する複数の主体が、互いに影響を及ぼしながら、
全体としてある目的を達成する「自律分散システム」として世界を捉えるのである。
以上(長谷部 浩二(Koji Hasebe) 筑波大学大学院システム情報工学研究科より)

冒頭で「本質」の探究が哲学の目的であると受け取れる文章を書いているが、
世界を分け入っても「本質」などを見つけることは難しい。
どうだったら「本質」と言えるのか、その基準も分からない。

先に検討した通り、世界を構成する個々の部品には優劣はなく、
どれも世界を構成する部品なのだ。
大切なのは、その部品が世界のどこに位置づけされるかであり、
どういう役割を果たしているかである。

人間にできることはそこまでである。

私はなぜ私なのか

生まれてしばらくの間は赤ん坊は
自分と母親の区別も付かないと聞いたことがある。
どのように赤ん坊の心を確認されたのかは知らないが、
分かるような気はする。

ある程度の年齢になれば、
自分とそうでないものとの区別はできるようになるが、
どのようにして自分とそうでないものとの区別をしているのか。

自分と自分でないものとの区別は、
自分で感じて初めてその存在が分かるものは自分ではないものと分かる。
逆に言えば、感じている本体が自分なのである。
つまり、自分とそうでないものとは相対的に位置づけされるものである。

さらに自分以外の対象がなければ、自分もあり得ないということでもある。
相対的に存在するということはそういうことを意味している。
考えてみてほしい。何も感じられるものがない状態で、
どのようにして自分を感じることができるのだろうか。


「私はなぜ私なのか」という問いの意味は、簡単に言えば、
世界中に沢山の人がいるし、今までに数多くの人が生まれそして死んでいる。
それにも拘らず「はなぜ他の誰かではなく、この私なのか?」という疑問のことのようだ。

そしてその問には数多くの答えが出されているのであるが、
その代表的な答えが独我論から出た説である。
「この世界はすべて私が見ているのようなものである」というのである。
つまり他者などそもそもおらず、周囲に見える机や椅子も実在はしていない、
ただ私が感じているこの夢としてだけそれらはある、というのである。

典型的な独我論と言うのはこんなものなのだが、
この世界のすべてが夢で実在しないのであれば、
「私はなぜ私なのか」という問題自体もありえないはずである。
私以外はすべて実在しないのだから、ことさら「私はなぜ私なのか」と問う意味はない。
そういう問い自体生まれないはずである。

現実を考えてほしい。窓の外を眺めていたら眼の前を小鳥が飛んで行った。
それを見て「小鳥が飛んでいるのが見えた」と思ったとする。
この時点ですでに小鳥の存在を確認しているのであり、
そういう状態を人間は「小鳥が飛んでいる」と表現するのである。

ことさらに存在論や認識論をぶちまける必要などなく、
ブログで小鳥の写真をアップしている家内に「小鳥がいるよ」と教えてやれば、
「小鳥がいる」と表現した目的は達するのである。
そのようして世界は動いているのである。それが現実である。

私は「世界の構造」で独我論について述べているが、
それは体の内側から見ている人間は自分だけである
という「事実」について述べているもので、
他のものの存在を否定しているのではないのである。

だから「私はなぜ私なのか」という疑問は、
「なぜ内側から見えているのは自分だけか」という問いに置き換えるならあり得る。
これは{事実」なのである.。

すなわち、「なぜ体の内側から見えている人間は自分だけなのか」
という疑問はそのままにしておいて分割しているのであり、
だから「私はなぜ私なのか」という疑問も残っているのである。

この疑問に答えるための方法として、二つの方法が考えられる。
その一つは宗教の視点からで、その疑問を発している自分の「心」の問題として、
その原因となっている「心」の状態を取り去ろうとする方法である。

もう一つは哲学からの視点で、その疑問を発している論理的な背景の探求で、
言語学的な方向からの探求や、心理学的な方向からの探求などがある。
私がここで書いているのも、上の宗教の位置づけも含めて、哲学的な探求になる。

生きている意味

ライプニッツの「充足理由の原理」というのがあるそうだが、
「すべての事実にそうであることの十分な理由がある」というのである。

そうしたことがあるのかないのか、
またあるとしてそれはどのようなものなのか。
人間の説明という行為や、知識や理解ということと、
この原理とどのように関係しているのか、
すなわち世界はどこまで理解可能で、どこまで説明可能かなのである。

多くの哲学者は生きる理由・目的について
「生きてる意味は幸せになることだ」と答えている。
アリストテレス、パスカル、フロイト、トルストイ、カント、プラトン、ソクラテス、
ウィキペディアで調べたところ、こんな人の名前があった。

これだけの偉人たちの言葉があっても、納得しない人があるでしょうね。
だって、その人たちは「幸せではない」と思っているから当然なのである。
容易に幸せにはなれないから悩むのである。

一般的には「理由」というのは、
①論理の場面では帰結に対する前提,前件であるが,
実在の場面ではなんらかの現象的「変化」についての理由になる。
主に科学的な論証で用いられる方法である。

②また実在について「変化」ではなく存在の理由 をも問うことができる。
この場合,理由は存在の本質規定を意味しており、
ライプニッツの充足理由律は存在についていわれるかぎりこの意味である。
主に哲学的な推論の方法になる。                                              

しかし、この二つの根拠づけには大きな違いがある。
前者①は時間的・空間的に「変化」する事実の観察で確認できるが、
後者②はただ存在するだけで時間的・空間的に何の「変化」もないものである。
「なぜ宇宙があるのか?」とか「なぜ世界があるのか?」とか
「なぜ無ではないのか?」などのような問も「変化」がなく、
「理由」を見つけるのは難しいものである。

生まれたばかりの赤ん坊は与えられたこの世界を何と受け取っているのか、
この世界に「理由」を求めているとは思えないが、
人生に目的や意味はあるのか、あるとすればそれはいかなるものなのか。
これらも人生の細かいその時々の目的や意味ではなく、
「生きるという行為そのもの」についての「理由」を聞いているもので、
ある意味「変化」がない問いであり、答えを見つけるのが難しいものである。

私は以前に
 「何のために生きるか」とか「何のために存在するか」というような
 そのものの存在理由を問う問題には、答えはあり得ない。
 自分自身で答えることはできない。そのものの存在理由は、
 それを作った人には「もう一人子供が欲しかった」と言うような理由があり得るが、
 その子供自体には理由はあり得ない。
と書いたことがある。

しかし、この答えでは「何のために生きるか」とか
「何のために存在するか」というような疑問を抱えている人は納得しないと思う。
つまり、答えにはなっていないのである。


全体で一つの世界を分割した片方に「自分」があり、
もう一方に「外界」があって、それと相対的にあるのが「自分」である。
その「理由」をさぐる以前に、そこに「自分」がなければ世界が成り立たない。
「自分」はそんな存在なのである。

つまり、「自分」と「事実」とは相対的に存在しており、
そのどちらが欠けても世界は存在しないのである。
「自分」と「事実」の間には相対的な関係はあっても、
そのようにある「理由」などはないのである。

あなたは「自由」と思いますか

ウィキペディアによれば、
自由意志とは、自己の判断をコントロールすることができるという仮説である。
専門家の間でもよく見られる誤解は、自由意志を行為の自由と混同することである。
人間による一連の活動は、(1)意志によって、(2)行為が発生し、最後に(3)結果が生じる、
という形で一般化される。
自由意志の問題とは、いわば「どのように思うか」が、自由であるかについて
直接的な問いかけをするものであり、意志の成立過程を対象とするものである。
(以上、ウィキペディアより)

このウィキペディアの説明だと自由意志の問題は「自由に行動できるか」ではなく、
「自由に思えられるか」ということになるが、しかし、この二つを切り離すことは難しい。
(1)の「思う」という行為に自分の意思以外のものが関わっているか、
つまり決定論が関係しているかであるが、それを考察するにも(2)の行為は外すことはできない。
決定論については別に記事にする予定である。

例えば、宇宙旅行がしたいと思うまではありとしても、
宇宙の果てを飛び出したいと思うのはあり得ない。とか、
自分はもっと背が高くなりたいと思っても、なれる高さには限度がある。
ある程度できることとできないことは外的要素で決まっているので、
自分の意思もその決まっていることを超えては思おうとはしない。
この宇宙、この社会、この時代、これを超えて自分の思いを果たそうなどと、
意思を巡らすことはないのである。

この自由意志の考察でも、何が「事実」としてあるか、それが大事なのである。
生まれた時に感じたこの世界、そこには何の優劣もなく全体としてそこにあった。
いろいろあるものを分けて、名前が付けてあり、親から教えられる。
それらは「事実」である。

また、「分ける」という行為は対象を吟味して相対的に分けるわけで、
当然ながら「事実」の相対的確認が必要になる。
「分ける」とう行為の対象も「事実」と判断してよいと思う。

それで「自由意志」に戻るが、決定論がどういう結論になるかで、
自由意志を肯定できるかが決まって来るとも言えるが、
それなら改めて「自由意志」について議論する必要はなくなるわけで、
ここで相対的存在と自由意志の関係が問題となる。

「自由」であるためにはその意思は独立に存在しなければならない。
相対的存在であるなら、相手の存在に左右されるからである。

もう一つ、「自由」が自分の意思について言うつもりなら、
自由に動き回れる時空が必要であり、その時空の中にはいろいろの対象が存在している。
そしてそれらと相対的に接して生きているのである。

「自由」は対象が存在しそれらとの相対的関係で存在しているのである。
つまり「自由」自体も相対的存在なのである。

事実を語らずして、世界は語れない

学問で一番大切なことは「誰れそれがどう言ってるか」ではなく、
現実(事実)はどうなっているかである。

私たちが生きているのは、この現実の世界である。
偉い人の頭の中で考えられた世界ではないのである。
だから、偉い人がいろいろのことを言っていても、
それらは現実の世界と照合されなければならない。

ウィキペディアなどで哲学用語などの検索をして感じることは、
いろいろ偉い人の考えが列挙されているが、
ほとんど、現実(事実)レベルの議論がなされていないのである。

何が事実か、現実はどうなっているか、どちらの説が現実に近いか、
そういう議論は見えてこないのである。

よくある哲学者の議論の仕方は、現実はどうかではなく、
どうあるべきか、何が理想的か、間違いを排除するなどで、
当然といえば当然であるが、現実はそれほど理想的にはできていない。

私は行き詰まったら現実と照合し、それが理想的な形ではなくても、
現実はそれをどのように理想に近づけて行くのか、
それも現実から見つけてゆく、それが必要と思う。

①人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
②人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
③ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
④人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。

それらは存在論や認識論の課題ではあるが、
最初からそれを目指すのは困難であり、
まずは何が「事実」として自分に与えられているかを問うのが順序である。

「事実」を語らずして、「世界」は語れない。
自分が生まれたときすでに、自分の前には「全体で一つの世界」があった。
それが「事実」である。

そして、それがどういうものかを知るために
「全体で一つの世界」を分けながら、世界を分析することから始める。
これは、対象の違いを見つけて分けることで、世界を相対的に捉えることである。
この相対的に捉えることも、事実は何かを確認する行為である。

近年は、心理学や脳科学などが盛んで、
存在論や認識論が目指してきた①~④と重なる部分がある。
心と物の関係を科学的に究明することは可能かもしれない。
しかし、それは哲学というより科学の領域に入るものである。

それはそれで必要なことではあると思うが、
世界観を築くという目的を果たすために、
諸学や諸現象や社会の諸々を全体の中へ位置付けるなどという
本来の哲学としての仕事とは言い難いと思う。

何が「事実」か Ⅶ

これまで「何が「事実」か」という記事をⅠ~Ⅵまで書いてきたが、
読み返して見ると、私が思う「事実」を列挙しているような記事になっている。
そこには「事実」である理由が書いてないのである。

誰が聞いても「事実」と認めるはずというくらいの気持ちで提示したもので、
少なくとも多数の意見であるはずという気持ちで書いてある。
しかし、それは正確ではない。

先の記事「私はなぜ私なのか」でも述べているが、
「自分」以外の対象がなければ、「自分」もあり得ないのである。
相対的にあるということはそういうことを意味している。

つまり、「自分」と対象の「事実」とは相対的に存在しており、
「自分」と「事実」の間には相対的な関係はあっても、
そのようにある「理由」などはないのである。

ウィキペディアで「事実」について調べていて「ナマの事実」という言葉が目に入った。
「理由や根拠のある事実」と対置されたもので、
「理由も根拠もなくただ受け入れることしかできない事実」の意味で用いられる。

ナマの事実がそれ以上基礎的な何かによっては説明されないような事実のこととするなら、
私が例とした「事実」は正に「ナマの事実」である。
しかし、「理由や根拠のある事実」も私のいう「事実」には違いがない。
この二つを分ける理由はどこにもないのである。

「理由」があるかないかと「事実」かどうかとは関係はない。
「理由」については別に記事にする予定である。

こんまり流片付け術「目的Ⅳ」(新版)

「目的Ⅲ」では自分と他人(社会)との関係について書きましたが、
ここでは自分と道具との関係について書きます。

人間は自分の目的を他人にお願いしてしてもらうほかに、
道具を使って目的を果たすこともできる。

今話題の「こんまり流片付け術」は、
これまで使ってきた道具の整理についての片づけ術なのだが、
もともとその道具にも人間の目的が付加されている。

一緒に目的を果たすために働いてきた道具であり、
当然、愛着もあり別れるのは人間と同じようにつらいことである。

こんまり流片付け術の近藤麻理恵さんは、
単に思い切って捨てるのではなくて、道具に「ありがとう」と感謝して捨てるという。
お世話になった人にお礼を言うようにして、道具も捨てるのである。

そうすることで、道具を片づけるだけではなく、
感謝の気持ちや想い出などの「心」の整理もしているのであり、
そこがこれまでの片付け術とは異なるところである。

「ときめきで決める」なんてキャッチフレーズだけを聞くと、
怪しげな片づけ術に聞こえるが、
一緒に目的を果たしてきた「仲間との別れ方」と考えると、納得ができる。

人間の目的は道具という物の中にも侵入して、
道具は人の「心」と結びついているのである。

以上は「21世紀は心の世紀」というブログの
「こんまり流片付け術で発見した事」という記事を参考にさせていただきました。

それでは、その「目的」自体はどこから来るのだろうか。
次の記事に移ります。


目的 Ⅴ↓へつづく、
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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