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現実(事実)が大事

学問で一番大切なことは「誰れそれがどう言ってるか」ではなく、
現実はどうなっているかです。
実際に誰かがそう言ってたとしても、書かなくてもいいのです。
事実がどうなっているかを書くことの方が大事なのです。

私たちが生きているのは、この現実の世界です。
哲学者の頭の中で考えられた世界ではないのです。
ですから、いろいろの哲学者がいろいろのことを言っていますが、
それらは現実の世界と照合されて初めて意味を獲得します。

ウィキペディアなどで哲学用語などの検索をしていますが、
いろいろの哲学者の考えが列挙されているという感じのものが多く、
ほとんど、現実(事実)レベルの議論がなされていないのです。

何が事実か、現実はどうなっているか、どちらの説が現実に近いか、
そういう議論は見えてこないのです。

よくある哲学者の議論の仕方は、現実はどうかではなく、
どうあるべきか、何が理想的か、間違いを排除するなど、
当然といえば当然ですが、現実はそれほど理想的にはできていないのです。

私は行き詰まったら現実をみて、どのように解決しているか、
その方法も現実から探します。
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マーラー交響曲第五番から「アダージェット」

マーラー交響曲第五番から「アダージェット」

いらっしゃいませ

心と言葉の広場です。
「心」って不思議ですね。何が見えるか一緒に考える広場です。
極楽トンビが不思議を捉まえてきます。
以下はこれまでに書いた私の記事の主なものです。

5 心の構造 https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1201.html          
 
道具の位置づけ https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-975.html                   
AI(人工知能)の将来 https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1152.html       

現代の哲学私の個人的な印象https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1306.html 
過去の哲学私の個人的な印象https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1258.html
   
人生観と世界観の違い https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-53.html                    
オナラの哲学 https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-1005.html        
太陽は地球の周りを廻ってる https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
地球は平らである https://shachihoko7.blog.fc2.com/blog-entry-27.html            

理由 Ⅰ

ライプニッツの「充足理由の原理」というのがあるそうだが、
「すべての事実にそうであることの十分な理由がある」というのである。
そうしたことがあるのかないのか、またあるとしてそれはどのようなものなのか。
人間の説明という行為や、知識や理解といることと、この原理とどのように関係しているのか、
すなわち世界はどこまで理解可能で、どこまで説明可能かなのである。

一般的には「理由」というのは、
広義には事物の存在・生起の原因、またある思想・命題の真理であることを示す論理的根拠で
狭義には後者の論理的根拠という意味で使われることが多いようだ。

事物の存在・生起の原因については、科学が対象を捉えるときのそれであり、
科学が対象を観察するときは因果律という言葉が示す通り、
そのことが起きる原因を探求するもので、時間的・空間的に変化する現象を関係づける。

思想・命題が真理であることを示す論理的根拠については、
論理学などが対象としているが、いくつかの事実をもとに論理的に根拠付けするもので、
ライプニッツの「充足理由の原理」が問題なのはこの狭義の部分である。

しかし、この二つの根拠づけには大きな違いがある。
前者は時間的・空間的に変化する事実の観察で確認できるが、
後者は例えば「自分は何のために生きているのか」というような命題には
幾つもの答えがありえて、それぞれの真偽の判断も不可能なもので、
充足理由の原理」と言えるほどの価値すら疑いたくなる。

私は以前に
 「何のために生きるか」とか「何のために存在するか」というような
 そのものの存在理由を問う問題には、答えはあり得ない。
 自分自身で答えることはできない。そのものの存在理由は、
 それを作った人には例えば「もう一人子供が欲しかった」と言うような理由があり得るが、
 その子供自体には理由はあり得ないということである。
と書いたことがある。

しかし、この答えでは「何のために生きるか」とか「何のために存在するか」というような
疑問を抱えている人は納得しないと思う。
つまり、答えにはなっていないのである。

多くの哲学者は生きる目的について
 「生きてる意味は幸せになることだ」と答えている。
アリストテレス、パスカル、フロイト、トルストイ、カント、プラトン、ソクラテス、
ウィキペディアで調べたところ、こんな人の名前がありました。

これだけの偉人たちの言葉があっても、納得しない人があるのでしょうね。
だって、その人たちは「幸せではない」から当然なのである。
容易に幸せにはなれないから悩むのである。

つづきが書きたいですね。また。

ナマの事実(何が「事実」かⅦ)

これまで「何が「事実」か」という記事をⅠ~Ⅵまで書いてきたが、
読み返して見ると、私が思う「事実」を列挙しているような記事になっている。
そこには「事実」である理由が書いてないのである。

誰が聞いても「事実」と認めるはずというくらいの気持ちで提示したもので、
少なくとも多数の意見であるはずという気持ちで書いてある。
しかし、それは正確ではない。

先の記事「「自分」を「自分」と自覚するとき」でも述べているが、
「自分」以外の対象がなければ、「自分」もあり得ないのである。
相対的にあるということはそういうことを意味している。

つまり、「自分」と「事実」とは相対的に存在しており、
「自分」と「事実」の間には相対的な関係はあっても、
そのようにある「理由」などはないのである。

ウィキペディアで「事実」について調べていて「ナマの事実」という言葉が目に入った。
「理由や根拠のある事実」と対置されたもので、
「理由も根拠もなくただ受け入れることしかできない事実」の意味で用いられる。

ナマの事実がそれ以上基礎的な何かによっては説明されないような事実のこととするなら、
私が例とした「事実」は正に「ナマの事実」である。
しかし、「理由や根拠のある事実」も私のいう「事実」には違いがない。
この二つを分ける理由はどこにもないのである。

「理由」があるかないかと「事実」かどうかとは関係はない。
「理由」については別に記事にする予定である。

フィル・コウルター(Phil Coulter)

ゆったりと時が流れて 

浮かんでいる湖の島も 雲と一緒に流れている

桟橋と白鳥のシルエット

誰が乗り捨てたのか 一艘の小舟

私もこの舟で沖に出てみよう

 

「自分」を「自分」と自覚するとき

生まれてしばらくの間は、
赤ん坊は「自分と母親の区別も付かない」と聞いたことがあります。
どのように赤ん坊の心を確認されたのかは知りませんが、
分かるような気はします。

ある程度の年齢になれば、
自分とそうでないものとの区別はできるようになりますが、
どのようにして自分とそうでないものとの区別をしているのでしょうか。

まずは、自分と他人の区別ですが、先の「なぜ私は私なのか」でも述べましたが、
体の内側から見ている人間は自分だけで、
自分の心は見えても他人の心は見えないことで区別ができます。

人間以外のものとの区別は、外向きについている感覚器官で捉えられるもので、
自分で感じて初めてその存在が分かるもの、それは自分ではないものです。
逆に言えば、感覚器官で対象をみている本体が自分で、
感じられている対象が自分ではないものです。
つまり、自分とそうでないものとは相対的に位置づけされるものです。

自分以外の対象がなければ、自分もあり得ないということです。
相対的にあるということはそういうことを意味します。
考えてみてください。何も感じられるものがない状態で、
どのようにして自分を感じることができるのでしょうか。

なぜこんな当たり前のことを小難しく書いているかといえば、
この当たり前のことがはっきりしてないために生じている哲学上の問題がたくさんあるからで、
それを予め書いておきたかったのです。

この区別は哲学をする上では大変大事なことなのです。


トンビは悪いやつ

今朝、連休中の行楽地の映像がテレビで流れていたが、

バーべキュウの肉をトンビにさらわれている映像である。

トンビは人間を恐れることなく、人間が肉を口に運んでいるところを狙って、

肉をさらって行くのである。

トンビとは何とも悪い奴である。


それは違うでしょうね。トンビは人間を恐れているはずです。

トンビにとっては人間を恐れている場合ではないのだと思う。

生きるためにエサが必要なのである。

肉を取られた行楽客もトンビを許して笑っている。


そこで、ふっと自分も「トンビ」であることに気付く。

いろいろ私も生きるために食べているし、

日常をみても私は「悪いやつ」である。

トンビに免じてお許しください。


こんまり流片付け術「目的Ⅳ」(新版)

「目的Ⅲ」では自分と他人(社会)との関係について書きましたが、
ここでは自分と道具との関係について書きます。

人間は自分の目的を他人にお願いしてしてもらうほかに、
道具を使って目的を果たすこともできる。

今話題の「こんまり流片付け術」は、
これまで使ってきた道具の整理についての片づけ術なのだが、
もともとその道具にも人間の目的が付加されている。

一緒に目的を果たすために働いてきた道具であり、
当然、愛着もあり別れるのは人間と同じようにつらいことである。

こんまり流片付け術の近藤麻理恵さんは、
単に思い切って捨てるのではなくて、道具に「ありがとう」と感謝して捨てるという。
お世話になった人にお礼を言うようにして、道具も捨てるのである。

そうすることで、道具を片づけるだけではなく、
感謝の気持ちや想い出などの「心」の整理もしているのであり、
そこがこれまでの片付け術とは異なるところである。

「ときめきで決める」なんてキャッチフレーズだけを聞くと、
怪しげな片づけ術に聞こえるが、
一緒に目的を果たしてきた「仲間との別れ方」と考えると、納得ができる。

人間の目的は道具という物の中にも侵入して、
道具は人の「心」と結びついているのである。

以上は「21世紀は心の世紀」というブログの
「こんまり流片付け術で発見した事」という記事を参考にさせていただきました。

それでは、その「目的」自体はどこから来るのだろうか。
次の記事に移ります。


目的 Ⅴ↓へつづく、

なぜ私は私なのか

「なぜ私は私なのか」という問いの意味は、簡単に言えば、
世界中に沢山の人がいるし、今までに数多くの人が生まれそして死んでいる。
それにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この私なのか?」という疑問のことのようだ。

そしてその問には数多くの答えが出されているのであるが、
その代表的な答えが独我論から出されている説である。
「この世界はすべて私が見ている夢のようなものである」というものである。
それはこの問題に対する一つの答とはなり得る。
つまり他者などそもそもおらず、周囲に見える机や椅子も実在はしていない。
ただ私が感じているこの夢としてだけそれらはある、というのである。

典型的な独我論と言うのはこんなものであり、
私も独我論を支持している者であるが、この考え方には大きな矛盾がある。
この世界のすべてが夢で実在しないのであれば、
「なぜ私は私なのか」という問題自体もありえないはずである。
私以外はすべて実在しないのだから、ことさら「なぜ私は私なのか」と問う意味がない。
そういう問い自体生まれないはずである。

現実を考えてほしい。窓の外を眺めていたら眼の前を小鳥が飛んで行った、とする。
それを見た独我論者は「小鳥が飛んだように見えたのは夢だ」と思ったとする。
この時点ですでに小鳥の存在を認識しているのであり、
そういう状態を人間は「小鳥が飛んでいる」と表現するのである。

ことさらに存在論や認識論をぶちまける必要などなく、
ブログで小鳥の写真をアップしている家内に「小鳥が飛んでいる」と教えてやれば、
「小鳥が飛んでいる」と表現した目的は達するのである。
それが現実なのである。

私は「世界の構造」で独我論について述べているが、
それは体の内側から見ている人間は自分だけである
という「事実」について述べているもので、
他のものの存在を否定しているのではないのである。

だから「なぜ私は私なのか」という疑問は、
「なぜ体の内側から見えているのは自分だけか」という問いに置き換えるならあり得る。
これは「事実」だからである。
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

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