FC2ブログ

新私の哲学の方法(構造体として捉える)

哲学の存在論や認識論では認識主体と認識客体の二つに分けて
二項対立図式で考えることが多いが、二つに分けるまではいいとしても、
客体はそれ自体で存在するとかしないとかそんな議論を始めるのである。

そうではないのだ。二つに分けるということは、対立する二つとして捉えるのではない。
その二つは互いに相手を支える相対的存在として捉えるのである。
「物」がない「心」や、「心」がないときの「物」などはあり得ない。
相手が無かったら自分もない、そんな関係にあるのである。

物か心かではなく、物があって心があるのであり、心があって物があるのだ。
なかなか理解は難しいと思うが、私はよく色の話を例にする。
この世界が赤い色のみであったとすると、「これは赤い」と言う意味があるだろうか。

「意味はなくても赤い色はある」という人もあるでしょう。
しかし、それは現実の色の世界が頭にあるから思えることで、
全く初めて色の世界を経験する者はどうでしょう。
おそらく、赤い色しか無かったら、赤い色はないのである。

「世界は全体で一つである」と言ってきた。
そして「できるのは分けることだけ」と言ってきたが、
分けられたものとしてはあっても、それ自体としては存在する必要はないのである。

世界の構造にはすべてのものが含まれていなければならないが、
何も余分なものは付け加えることもできない。
それ(自体)を考え始めると、もう一つ同じものを付け加えなければならなくなる。

分けるということは確かに違いがあるから分けられるのであるが、
分ける目的は構造体として捉えるためであり、この世界の仕組みの解明のためである。
本質を探るのではなく、どういう動きができるかその構造を究明することである。

自動車は沢山の部品からできているが、自動車の働きは個々の部品の働きむの総計ではなく、
自動車は一つのシステム(構造体)として運動しており、
個々の部品の働きの総計に、何かがプラスされたとみてよいと思う。

自動車は速く楽に目的地に行くための道具である。
しかし、個々の部品にはこの自動車としての役割は含まれていないのである。
こうした構造体には目的や役割がプラスされているのである。

「世界は何か」どこにあるものか、どこから来たのか、どこに出かけたのか、
どうしてできたか、誰に渡したか、何ができるか、何がほしいのか、何らかの目的や役割、
それらがその世界を構造体として捉えることで理解が可能になるのである。

その世界の構造からは「何をすべきか」の回答は出てこないが、
自分の位置や自分の行動できる範囲は示されているのである。


新私の哲学の方法(言葉)へつづく、
スポンサーサイト



The Elegance of Pachelbel

 The Elegance of PachelbelMichael

 Maxwell & Daniel May


新何が「事実」か(ナマの事実)

これまで「何が「事実」か」という記事を書いてきたが、
読み返して見ると、私が思う「事実」を列挙しているような記事になっている。
そこには「事実」である理由が書いてないのである。

誰が聞いても「事実」と認めるはずというくらいの気持ちで提示したもので、
少なくとも多数の意見であるはずという気持ちで書いてある。
しかし、それは正確ではない。

私たちが日常生活で「これは間違いない」と判断しているものは、他にもたくさんある。
つまり、「事実」と言えるものはこれまでに書いて来たものだけではない、というご意見や、
これは「事実」とするのは問題があると言うようなご意見もあると思う。

少し具体的に書いてみると、例えば偉い先生が書いた本の内容とか、まずは「事実」と思うし、
例えば、NHKのニュースの内容とか、病院の先生の診断とか、これらもまずは「事実」と思うものである。
しかし、よく考えて見たら、自分は直接その「事実」を見たのではないのだ。

恐らくそれらは「事実」だとは思うが、その事実と自分の間に「信じる」と言う心が挟まっている。
それを分解してみると、病院の医師が診断に使った機器を「信じ」、そこから出てきた医師の言葉を
自分が信じているのである。実際の自分の体を診て「事実」と判断したのは器械なのである。
その間にどんな間違いが挟まっているか分からないのである。

毎日の生活の中で自分自身で「事実」を確認できるのは極わずかで、
大部分は誰かの、あるいは器械の判断を信じているだけなのである。
それなら、わたしの挙げた「事実」だけが「事実」なのだろうか。

「何が「事実」か」と「何を信じるか」とはイコールではない。
「何を信じるか」は日常生活する上では重要な判断であるが、
「何が「事実」か」は世界の成り立ちを考える上での基礎は何かなのである。

日常生活では「何を信じるか」は大切な判断基準ではあるが、
それを哲学の基礎に据えると非常に複雑になってしまう。
「何を信じるか」は「何が「事実」か」に還元できるのであれば、その方が単純になる。
「何が「事実」か」は哲学の出発点なのであり、「何を信じるか」を拒否しているのではない。

ウィキペディアで「事実」について調べていて「ナマの事実」という言葉が目に入った。
「理由や根拠のある事実」と対置されたもので、
「理由も根拠もなくただ受け入れることしかできない事実」の意味で用いられる。

ナマの事実がそれ以上基礎的な何かによっては説明されないような事実のこととするなら、
私が例とした「事実」は正に「ナマの事実」である。
しかし、「理由や根拠のある事実」も私のいう「事実」には違いがない。
この二つを分ける理由はどこにもないのである。

「理由」があるかないかと「事実」かどうかとは関係はない。
「理由」については別に記事にする予定である。

新何が「事実」か(確認方法)

ここまで、どういう場合を「事実」と判断するかを書いてきた。
しかし、その「事実」というのは自分が一度だけ経験しただけでは
誰もそれを「事実」とは認めないものである。

例えば、よくある話でいうなら「UFO」とか「幽霊」とかがそれである。
私の哲学の中に出てくるものでは「悟り」がそれである。
こういう時に少しでも認めてもらうためにする方法の一つが、
どうしたらその「事実」を体験できるか、その方法を示すことである。

物理学や化学の論文なども、最初はその論文を書いた人か、
その周辺のごく一部の人しかその事実を知らないのである。
そして、論文発表後にその論文に書かれている方法で「事実」を確認されてゆくのである。

しかし、それもできないことがある。
例えば、アインシュタインの相対性理論などの理論物理学で出てくる論文などは、
どういう方法で事実を確認できるかが書かれているとは限らない。

理論物理学という名前の通り、理論的に論理的に
「こうでなければならない」「こうであるはずだ」と結論されたものだからである。
もちろん、最終的には検証されて「事実」であることの確認が必要である。


私の「悟り」の話で言えば、
実は、「力」=「欲.」が、観る対象の価値を歪めているのである。
もともと対象には価値などはないが、欲の目を通してみると価値が有ったり無かったり、
だから自分を苦しめているのは欲なのである。

それならばとその原因となっている「力」=「欲.」を取り去れば、
生老病死の苦から逃れられるはずで、「力」や「欲.」を取り去るために
内省や瞑想や座禅や禁欲や、時には滝に打たれたりして修行するのである。
言わば、そうすれば「悟り」を「事実」として確認できるということである。

しかし、実を言うとそうした修業は「悟る」ためには何の役にも立っていないのである。
むしろそれらが無駄な事であることを知るためにしているようなものなのである。
つまり、「力」=「欲.」を取り去るのに自分の「力」使っているのである。

矛盾している。自分が座っている座布団を
座ったまま自分で取ろうとしているようなものである。
そのことに気付くことが必要なのである。
自分ではどうにもならないことに気付くことが必要なのである。
そして、すべてをあきらめた時に仏の力で「悟る」のである。
これが自分の力ではない「他力本願」と言われるものなのである。


新何が「事実」か(ナマの事実)へつづく、

新何が「事実」か(可能性)

人間は生まれたときから親など誰かに育てられて成長する。
何が成長するかといえば、体と頭脳が成長する。
それは「事実」と誰も認められると思う。

成長すると体(力)を使って何かができるようになる。
それは自分の可能性が成長することとも表現できる。
その可能性で自分の欲望を満たすことができる。これも「事実」である。

(「成長」という言葉はプラスイメージの言葉であるが、
必ずしもプラスとは限らず、マイナスのこともある。)

その可能性で「あれをしよう、これをしよう」と夢が芽生える。
このようにして未来が生まれ「時間」の感覚が生まれてくる。
それらも「事実」である。

ここで大事なことは「力」と「時間」の関係である。
生まれたときには何の力もなかったことも「事実」であるし、
成長するにつれて「力」を獲得してゆくことも「事実」である。
その「力」が何かにとどく範囲が可能性の範囲であり、
この可能性の範囲が「時間」の巾でもある。

ここに挙げた「時間」は未来の時間であるが、
過去の時間は「新何が「事実」かⅡ」で述べた「記憶」の中にある。
いずれも「未来」も「過去」も現在の自分の脳のなかにあるのである。

人間の生きる目的はこの未来に向かうことなのだ。
そしてその目的を背後から押しているのが、
「あれが欲しい。これも欲しい」という欲望なのである。

考えてみれば「感情」というのは欲望につながっている。
「新何が「事実」かⅠ」で述べた「青い空は気持ちがいい」
「笛の音はさわやかだ」「この臭いは耐えられない」
「この味は好きな味だ」「この肌触りは心地いい」というその人の感情、
また「胃が痛い」や「頭が痛い」「気分が悪い」という感情、
これらを積極的に求めるか、積極的に避けるか、
とりあえず「力」に直結して行動に結びついているのである。

人間が成長するということは可能性が広がってゆくことで、
その可能性を利用しようとしているのが欲望なのである。
そのは「事実」である。


新何が「事実」か(確認方法)へつづく、

新何が「事実」か(独我論)

現代の世の中は、あらゆる情報があふれていて、
そんな世の中のどこかに自分を位置づけして生きている。
自分中心に位置づけするのはやむを得ないとしても、
自分が所属している社会とのかかわりや、人間関係、
それに毎日耳に入って来るニュースや話題に振り回されている。

何が本当で何が嘘で何が冗談なのか、それらを選り分けて
自分とのつながりを見つけようとしている。
そして、ふと我り帰り自分の立ち位置が見えるときがある。

それはある日突然にやってくる。
見ると体の内側から見ている人間は自分だけであることに気づく。
そして世界の中心は自分にあることにも気づく。
自分は特別な存在であると感じるのである。

これはどなたも一生のうちには一度や二度は体験することと思う。
これが独我論の世界である。でもこれは「事実」なのである。
世の中に紛れていて気づかなかっただけである。

そして体の内側から見ている人間は自分だけということは、
他人の心は見えていないということにも気づくのである。
これらも「事実」なのである。

これらを「事実」と認めても、同時に独我論を認めることではない。
これらを「事実」とは受け入れられないという人はこれを勘違いしているのである。
独我論には強い支持者があることは事実であるが、
しかし「信じられる確かなものは自分だけ」という考え方には
賛成できないという人も多いのである。
そこまでは「事実」とは認められないということなのだろう。

確かに、信じられるのは自分だけなら、自分からすべての物を遮断してしまって、
果たして「自分」と言うものがあり得るのかと思えてくる。
そうなのである。すべては相対的に存在しているのである。
自分も例外ではなく、何かと相対的に存在しているのである。

「信じられるのは自分だけ」とは言ってみても、
自分の外の世界を無視してはあり得ない存在なのである。
自分以外の例えば他人がいてこそ自分がいるのであり、
自分を取り巻く景色があってこそ、自分があるのである。

「信じられるのは自分だけ」と思うのは、自分以外の存在を前提した思いなのだ。
だから世界は分けることから初めて、世界を知るしかないのである。


新何が「事実」か(可能性)へつづく、

新何が「事実」か(記憶)

五官で感じられるもの以外で「事実」と言えるものとして「記憶」がある。
正確に言うと記憶していたものを思い出したときの心の状態である。

この記憶を「事実」とするのには少し違和感があるが、以下に考えられるように、
記憶というのは私たちの生活に欠かせないものであることが分かる。
記憶がなくては正常な意識が成り立たないのである。
ほかに記憶に代えるものが存在しないのである。

私たち人間は生まれてから毎日経験を重ねて情報を記憶している。
大人になってからでも、新しい情報は記憶しなければ脳にはない。

例えば人と話をしているとき、絶えず交わしている言葉は
記憶していないと会話は成り立たなくなる。
また、その言葉が指し示している事柄について何らかの記憶があるはずである。

これも記憶がなくては会話は成り立たないのである。
もし、記憶がなければ相手に聞き返すか、その記憶のないその内容の説明を求める。

私のブログの記事でリンゴの認識の仕方について、
「私の意識」が認識するもので「記憶」でないというご意見をいただいた。
これは古来からの哲学の考え方の主流なのであるが、
記憶なしでは日常生活はおそらく不可能である。

この「記憶」を「事実」から外すことはできないだろう。
もちろん、ここでいう「記憶」とは脳に記憶していたものを思い出したときの心の状態で、
脳の中の「記憶」は科学的に分かるもので「事実」とは呼べないのである。
神経心理学は記憶について、物事を忘れずに覚えておくこと(脳内の「記憶」)、
そしてその記憶を後で思い出すこと(思い出した「記憶」)としている。

「記憶」は少なくともそれ自身を意識と呼ぶことはないが、
しかし、私の意識は記憶と密接に関係している。
また、記憶がないと自己同一性の意識が発生せず、人格の統合もできない。
意識と記憶の間にはフィードバック・フィードフォワードの関係が成り立っている。

ただし、記憶には無意識という心的要素も深く関与している。

「意識が対象とするものは、記憶だけではない。

また記憶は、何らかの意味で「構造化」されており、

「無意識の領域」の膨大な記憶がどのように構造化されているのかということも問題である。

人間には経験や学習によって得た記憶・知識以外に、

生得的または先天的に備えていたとしか言えない「知識」や「構造」が存在する。

その一つの例は、「人間の言語」であり、

人間の言語は、現在の知見では、人間しか完全には駆使できない。

ノーム・チョムスキー生成文法は、人間の大脳に、

先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張している。」

(以上、ウィキペディアより)


私はこのチョムスキーの考え方には疑問を感じている。
私は自分自身の中にある機能として「演算機能」を分けているが、
そこには論理演算能力として言語を構成する能力を含めている。

この記憶というのは、また時間とともに変化するものでもある。
当然ではあるが、思い出した「記憶」も思い違いや間違いはついて回るが、
それは感覚器官で捉えたことでも同じことで、その都度訂正するしかない。


新何が「事実」か(独我論)へつづく、

新何が「事実」か(感覚器官で捉えたもの)

大辞泉には「事実」とは、実際に起こった事柄、現実に存在する事柄、とある。
哲学と言えども、この現実の世界を離れてはあり得ない。
哲学は現実のこの世界についての学問だからである。

だから哲学は、実際に起こった事柄や、
現実に存在する事柄についてのことでなければ意味がない。
誰れがどう言ってるかではなく、現実はどうなっているかなのである。

「事実」とは、実際に起こった事柄、現実に存在する事柄、と言うが、
この「実際」とか「現実」というのは何を指しているのかがまず問題である。
辞書によると「実際」とは、想像や理論ではなく物事のあるがままの状態、
「現実」とは、いま目の前に事実として現れている事柄や状態、とある。

想像や理論ではないものとなると感覚器官で捉えられるものとなるが、
人間には五官と総称されている感覚器官があり、その五官で外界と接している。
五官は目・耳・鼻・舌・肌の五つである。

目で見える空、その空を見上げた時に見える「空」の色は「青い」であり、
それを「事実」としても異議はないでしょう。
耳で聞いた音も「事実」であるし、鼻で嗅いだ臭いも「事実」である。
舌で味わった味も「事実」であるし、肌で感じた感覚も「事実」である。
これら五官で感じたものはすべて「事実」である。

実は、この五官(五感)以外にも、
内臓感覚というのがあって、胃が痛かったり頭が痛かったりする。
単に気分が悪かったりもする。これらも「事実」である。

ここに挙げた例のいずれにも言えることだが、これら「事実」には
人間の「価値判断」も伴っているのである。
「青い空は気持ちがいい」「笛の音はさわやかだ」
「この臭いは耐えられない」「この味は好きな味だ」
「この肌触りは心地いい」というその人の感情が現れている。
また「胃が痛い」や「頭が痛い」「気分が悪い」はそのまま感情である。

これらの判断は人によって異なったりするものであるが、
中には人類共通の価値観であったり、大多数の価値観だったりして、
それがある種の哲学の土台になったりもする。

また、過去の哲学では感覚器官からの情報は幻覚であったりして、
間違っている可能性があるとして排除されることもあったが、
物理学上のいろいろの成果というのも
沢山の物理学者が再確認することで成り立っているのである。

「このリンゴは美味しい」という判断は価値判断で、
哲学的には「事実」とされないことが多い。
その理由は人によって判断が異なるからである。

しかし、それだけで「事実」としないのは問題がある。
なぜなら、実際にその人は「美味しい」と思ったのであり、
まさに「実際に起こった事柄」である。それは「事実」なのである。

ただ、こうした価値観を科学的な議論の場に持ち込むと、
人によって判断が異なって議論が複雑になる。
だから科学的な議論の場では価値判断は除外されるのであって、
このことは価値判断を「事実」ではないと言っているのではないのである。


新何が「事実」か(記憶)へつづく、

新私の哲学の方法(言葉)

哲学とは限らないが、どんな学問でもできるだけ多くの人に理解してもらうために
できるだけ易しい言葉で表現されることが望ましい。
一方で学問は正確である必要性から、使う言葉の定義がなされることが多い。

私は哲学をするとき、特に哲学専用の言葉を使うことはせずに
人類が長い歴史の中で作り上げてきた生きた言葉の中から
出来るだけ易しい言葉で単純に表現できるものを選んで使っている。

以下は、私の記事に頂いたご意見である。
「あたしも哲学書の難解さに音を上げた人物像ですから、
易しいのはとても良いことだと思いますが、
議論ということになった場合は、用語の定義だけは明確になっていないと、
土俵違いでちぐはぐの議論になるように思えます。
日常用語では色んな意味に取られかねないし、
語る方も無意識で(あるいは意識的に)意味のスライドを起こしていたりするから、
専門用語を使う方が話が簡単になることもあるんじゃないでしょうか。」

こうした考え方は哲学者の中にはよくあることで、
確かに「土俵違い」になったり「色んな意味に」取られたり「意味のスライドが」おきたり、
トラブルは起きることはあると思う。しかし、それより私は
「専門用語」で現実離れした議論をするよりは日常言語の方が実りがある議論ができると思う。

現実の世界は複雑に絡まっており、それらを包含する言葉が日常言語で、
トラブルはあってもそれを解きほぐす能力も備わっていると思う。
次の分子生物学での文が、現実を物語っていると思う。

分子生物学では、生物を次のように特徴付けている。
 ・生体は、細胞からなり、各細胞は成長に必要な情報を遺伝子として持つ。
 ・各細胞の周囲状況によりその個別機能が決まる。
 ・生体内には常に不稼動な部分を含む。
 ・生体は常に新陳代謝や成長により変化している。
そこで、この生体と同様に、次のようにシステムをとらえる。
 ・まずサブシステムが存在し、それらの統合した結果としてシステムが存在する。
 ・どれかサブシステムが不稼動(故障または拡張、縮少、保守、リプレイスなどによる)
      になっているのが、システムにとって常態である。
のようにシステムを構造が固定したものではなく、
しかも常に故障した部分を含むと仮定した上で、
その環境に対応することができるものとして捉える。(より)

これは「言葉」についてだけ述べられているのではないが、
このようにサブシステムが不稼動になるのはシステムにとって常態で、
しかも常に故障した部分を含むと仮定した上で、
その環境に対応することができるものになっているのである。
さらに、常に新陳代謝や成長により変化しているものでもある。

アリやハチの秩序ある行動の中にも、その秩序から外れるものや、
働かない働きアリがいたりするのである。
人間も、そして人間の使う日常言語も上記とほぼ同じにできている。
その方が不確かな現実を捉えるのに適しているのである。

また、分析哲学にもこんな言葉がある。
日常言語が重要なことは、
心の働きや行為を表す語が基本的に日常言語であることによってわかる。

(出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)


新私の哲学の方法(自律分散システム)

対象(部品)をどう積み上げるか、あるいはどう積み下げるか、というのは、
その対象を構造体として捉え、システムとして分析するために必要な過程である。
全ての個を拾い上げる、それでもいい。全体をくまなく振り分ける、それでもいい。
とりあえず、切り捨てるものはなく、世界をシステムとして構築することである。

世界をシステムとして捉えることの必要性・重要性について
よく例に出されるアリやハチなどの社会性昆虫の話で説明するなら、
それぞれが自身の意思で勝手に行動しているように見えながら、
全体としてある秩序や均衡が生み出されているのである。

これはアリやハチなどの昆虫に限ったことではなく、例えばロボットのような全く意思を持たない機械でも
複数のロボットを集団で行動させると、その行動に秩序が自然に生まれてくるのである。
もちろん個々のロボットには判断機能は付いているのであるが、
どこかに制御するところがあって、それによって全てが制御されているのではないのである。

このように自律的に意思決定する複数の主体が、互いに影響を及ぼしながら、
全体としてある目的を達成する、これが「自律分散システム」と呼ばれているものである。
人間社会も自律分散的なシステムとして構成することができる。

人間社会は一つのシステムとして捉えることもできるが、その社会は個人の集まりで、
その個人はさらに細胞の集まりでもあり、それもシステムなのである。
社会から見れば個人はサブシステムと呼ばれ、個人から見れば細胞はサブシステムになる。
このサブシステムが自律的に個々に動作していても、
社会としての統合体としての役割も果たすことはできるのである。

世界をシステムとして捉えると、そのシステムの内部の有り様が見えてくる。
この際、物か心か、つまり唯物論か唯心論かなんてどうでもいいのである。

ここまで「目的」とか「意識」という言葉を使ってきているが、
一方で「決定論」という見方がある。
その個体が抱いている「目的」や「意識」は自分の意思で「自由」に出てきたものか、
あるいは物理法則にしたがって動いているだけなのか、それらへの答えが見え隠れしている。
私の関心はそこにある。


新私の哲学の方法(構造体として捉える)へつづく、

上記記事の内「自律分散システム」の記述については
一部ウィキペディアなどから借用した文が含まれている。
プロフィール

極楽トンビ

Author:極楽トンビ
カテゴリーは哲学のつもりですが、過去の哲学の知識など持ち合わせていません。
普通の人の考えを大切にしたいのです。
ときどき、音楽でストレスを解消しています。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
ブロとも一覧
月別アーカイブ